富山鹿島町教会

礼拝説教

2007年元旦礼拝説教
「主を賛美しつつ歩もう」
詩編 96編1〜12節
エフェソの信徒への手紙 5章15〜20節

小堀 康彦牧師

 2007年、新しい年を迎えました。私共は、新しい年を迎えたこの日、主を礼拝する為にここに集っています。全てのことに先立って、主を仰ぎ、主を拝む為にここに集っています。そのような私共に、今朝告げられている御言葉は、「新しい歌を主に向かって歌え。」であります。新しい年を迎えた私共は、新しい歌を歌うように命じられているのです。新しい歌です。古い歌ではありません。では、この新しい歌はどこにあるのでしょうか。どこから来るのでしょうか。誰に教えてもらえばよいのでしょうか。どのように歌う歌なのでしょうか。そもそも、この新しい歌とはどのような歌なのでしょうか。

 この詩編96編1〜3節は、礼拝の最初の「招きの言葉」として読まれてきた歴史を持っています。私共の教会は毎週同じ言葉で行っていますが、招きの言葉には色々あるのです。その一つにこの詩編の冒頭の1節から3節が用いられてきました。代々の教会は、この「新しい歌を主に向かって歌え」で始まる招きの言葉によって礼拝を始めるのがふさわしいと考えて来たのです。主を礼拝する為に集められてきた人々に向かって、主の言葉として、「新しい歌を主に向かって歌え」と告げられる。この言葉に応えて、主をほめたたえる歌が歌われ、礼拝が始まっていくのです。勿論、礼拝の最初に歌われる歌だけではありません。礼拝全体が、この招きの言葉によって導かれるものであると考えてきたのです。つまり、祈りも説教も聖餐も信仰告白も、全てが主に向かって歌うよう命ぜられている「新しい歌」であると考えてきたのです。それは、この「新しい歌」とは、主なる神様が私共に与えて下さった救いの御業によって生まれてくる歌、主をほめたたえる歌だからなのです。2節に「主に向かって歌い、御名をたたえよ。」とあるとおりです。私共の礼拝を貫いているのは、実にこの「主をほめたたえる」ということなのでしょう。礼拝には様々な要素がありますけれど、その全てを貫いているのは、「主をほめたたえる」という思いであることは間違いありません。主をほめたたえる。それは主を賛美すると言い換えても同じです。礼拝の心、それは主をほめたたえ、主を賛美する心に他ならないのです。そして、礼拝の心が、私共の日々の生活を貫く心であるとするならば、主をほめたたえる、主を賛美する心こそ、私共の日々の歩みを貫くものでなければならないということになるのではないでしょうか。

 先程、エフェソの信徒への手紙5章15〜20節をお読みいたしました。19節に「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」とあります。これは、キリスト者の生活を貫いているものが何であるかということを示している言葉なのです。「詩編と賛歌と霊的な歌」と言われているのは、実際に当時の礼拝において歌われていた歌のことです。つまり、礼拝の心をもって語り合い、生活しなさいと言っているのです。何も、酒を飲まないで讃美歌を歌っていなさいと言っている訳ではないのです。そして、その礼拝の心とは、「主をほめ歌う」ということなのであります。主をほめたたえる、その心で日々を歩みなさいと言っているのです。
 詩編102編19節に「主を賛美するために民は創造された。」という言葉があります。私共が神様に造られたのは、実に主を賛美する為であるというのです。主をほめたたえる、主を賛美する、それは神様の創造の目的にかなっているのです。これは、なかなかすごい言葉でしょう。人は善いことをする為に造られたとか、愛し合う為に造られたというのなら、何となく判るような気がしますが、主を賛美する為に造られたというのは、私共の思いを超えて、賛美ということの重さというか大切さというか、そういうことに目を開かせるのではないかと思います。讃美歌が好きだという人は、実に神様に造られた者としての正しい心のあり様を知っているということなのです。説教はよく判らないけれど讃美歌が好きだという人も、実はもうすでに神様の御心にかなう心を持ち始めているのです。

 しかし、主をほめたたえる、主を賛美するというのは、それ程判りやすいとは言えないかもしれません。それは、現代の日本の文化の中に、主をほめたたえる、賛美するというものがないからです。「主をほめたたえましょう。」と言えば、「讃美歌を歌うということですか。」と聞かれることが少なくありません。讃美歌は確かに主をほめたたえる為に作られた歌です。しかし、「主をほめたたえる」というのは、もっと広い意味があります。心を思いを神様に向けるのです。そうすると、そこには自然と、主をほめたたえるということが起きてくるものなのです。それはちょうど、雄大な自然の景色をながめると、「ホーッ」とか「ハーッ」とか「すごい」とか、歓声が上がるのに似ています。神様に心を向け、思いを向け、神様のなされた救いの御業に目を向けるならば、「ありがたい」「神様は素晴らしい」「神様は何て大きい」「神様の愛は何と深く、真実なことか。」そんな思いが私共の中に生まれて来ます。そして、その時私共は、自分が自分がという思いから解放され、自由になります。ここが大切なところです。「神様は素晴らしい。」この一言が言えれば、私共は癒されるのです。この一言が互いに言うことが出来るならば、私共はこの交わりの中で励まされ、慰められるのではないでしょうか。私共の思いも、視線も、日々の歩みの中ではどうしても自分のこと、目の前のことばかりに向けられてしまいます。さして、ついつい愚痴も出てきます。言いたくないけれども、つい出てしまう。そういうものです。しかし、その後で誰かの口から「でも、神様が何とかしてくれるわ。」「でも、神様が居るから大丈夫。」そんな一言が出てきたなら、それを聞いた私共は「そうだ、主がおられる。」そんな思いに満たされ、慰められのでありましょう。主をほめたたえるというのは、私共の思いと視線が天に向けられなければ決して生まれません。その意味で、主をほめたたえるというのは、祈り心と同じなのです。私共は祈るといえば、何かをお願いすることとか、あるいは悔い改めの祈りが大切だと言われます。しかし、聖書的悔い改めというのは、反省とは違うのです。反省というのは、どこまでも、自分で自分を見ている姿勢でしょう。しかし、悔い改めというのは、神様に向かって目を上げているのです。ですから、悔い改めというものは必然的に主をほめたたえることと結びついているものなのです。
 主をほめたたえるということは、何よりも私共の視線・心の向きが変わることだということは、私共が知っている日本の多くの歌と讃美歌を比べてみれば、すぐに判ります。日本の多くの歌は、失恋・別れといった自分の心を歌ったものが多いでしょう。どんなに切ないか、どんなに悲しいか。どこまでも自分です。私も嫌いではありませんけれど、これらの歌と讃美歌の決定的な違いは、見ている所が違うのです。讃美歌は神様を見て、神様に向かって歌っているのです。「新しい歌を主に向かって歌え」と命ぜられる時、私共は何よりもまず、心を神様に向けよう、私共の視線を神様に天に向けよう。いつまでも、自分のことばかり考えてしまう、その心を解き放とう。そう言われているのであります。私共は、いつも多くの課題があります。心配事がある。それを忘れることは出来ません。しかし、それが全てではない。何故なら、神様がおられる。神様が救いの御業を為して下さった。私も、その救いに与っている。そこに思いを向けよう。そう言われているのでしょう。

 新しい歌の内容は、2〜3節に「御救いの良い知らせ」「驚くべき御業」とありますように、神様が私共の為に為して下さった驚くべき救いの御業です。天地を造られ、その全てを支配しておられる神様の御業です。私共を造られ、私共の歩みの全てを支配されている神様の御業です。そして、愛する独り子を私共の為に送って下さり、十字架におかけになり、三日目によみがえらされた、主イエス・キリストの御業です。そして、その主が再び来られる、全てを裁き、全てを救う為に再び来られるという将来の救いの御業です。そんなことは知っている、それは少しも新しくないのではないかと思われるかもしれません。確かに、私共は知っています。しかし世界はまだ知りません。ですから、この歌はこの世界にあっては、まことに新しいのです。それだけではありません。私共は、それをすでに知っています。しかし、そのすでに知っていること、すでに為された神様の救いの御業は、決して古くならない御業なのです。何故ならそれは、具体的な新しい救いの出来事を今も生み出しているからです。クリスマスには、私共の群れに一人の受洗者が与えられました。これも、新しい具体的な救いの御業でしょう。そのように、神様の救いの御業は次々と新しい救いの出来事を生み出し、前進している。だから、私共は新しい歌を歌わないではいられないのです。いつも同じことを、しかし新しい調べで歌うのでしょう。
 あるいは、こう言っても良いでしょう。昨日は2006年最後の主の日の礼拝を守ったのですが、そこで「原点に帰る」というメッセージが告げられました。私共が洗礼を受けた時、神様との出会いを与えられた時、それが私共の原点でしょう。その原点に帰ることによって、私共は昔のことを古びたものとしてではなく、昔話としてではなく、今も自分を生かしている神様の恵みとして、新しく受け取り直す。そこに新しい歌が生まれるということでもあるのです。あるいは、クリスマスの出来事を、新しく喜びをもって受け取り直す。そこで、誰もが既に知っているクリスマスの出来事が、新しい歌を生み出す。毎年私共が歌うクリスマスの歌は、そのようにして次々に生まれてきたのであります。

 7〜8節には、「主に帰せよ。」という言葉が三回繰り返されています。主に帰するのは、栄光であります。主をほめたたえるというのは、栄光を主に帰することなのです。神様こそ、ほめたたえられるべき方、神様こそ力に満ちたる方、主こそ全てを御支配している方です。この栄光を主に帰する時、私共は主の御前にひれ伏すことになります。自分の栄光、自分の名誉、自分がほめたたえられることを求めることから自由になる道が、ここに拓かれるのです。
 私共は大変傷つきやすい者です。心ない一言で腹が立つし、何であの人にこんな風に言われなければならないのかと、恨みを抱くことさえあります。本当に言葉というものは恐ろしいものです。しかし、私共は心を神様に向けることによって、主をほめたたえることによって、その傷も決定的なものではないようになるのです。大切なことは、私のプライドが守られることではなく、それ以上に主がほめたたえられることであり、私はすでに神様の子、神様の宝物とされていることを知っているからであります。主をほめたたえる者は、主の救いの光に包まれるのです。この光に包まれる中で、心ない一言は最早、私共を殺す力を持ち得なくなるからです。主をほめたたえる歌は、喜びの歌です。主をほめたたえる者は、何にも崩されることのない喜びに包まれるのです。11〜12節にあるように、主の救いに与る者の喜びは、天地を巻き込む喜びであり、これがクリスマスの喜びなのでしょう。私共は、この喜びの中で、新しい年を迎えているのであります。
 この喜びの、新しい主をほめたたえる歌を歌う中で、主の御名は全ての人々に伝えられていくのです。私共が主の救いに与っている、この恵みの事実を新しく受け取り直していく中で、主をほめたたえる心に生き切る中で、主の御名は伝えられていくのです。主をほめたたえている者に向かって、天の光は降り注ぎます。そして、その人から天の光は溢れ出していくのです。私共がそれぞれ、自分の新しい歌を、借り物ではない自分の新しい歌を、主に向かってほめ歌いつつ、この一年も歩ませていただきたい、そう心から願うものであります。

[2007年1月1日]

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