富山鹿島町教会

礼拝説教

「聖霊によって語る」
エレミヤ書 20章7〜12節
ルカによる福音書 12章8〜12節

小堀 康彦牧師

 元旦礼拝において、私共は聖霊の導きの中で主をほめたたえつつ歩んでいこうと、御言葉を受けました。主をほめたたえる。ここに私共の視線が天に向かって上げられ、自分が自分がという思いからも解き放たれていく道が拓かれていくのです。実に主をほめたたえることこそ、聖霊なる神様によって与えられた、私共の、新しい信仰者のあり方なのです。私共の信仰の歩みは、どこまでもこの聖霊なる神様によって導かれていくものであります。使徒パウロが告げるように、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない。」(コリントの信徒への手紙一12章3節)のです。私共に信仰が与えられ、「イエスは主なり」と告白することが出来た。この信仰の第一歩目から聖霊の導きであり、それから続く信仰の歩みの全ては、ただ聖霊なる神様の導きによるのであります。私共がこのように毎週ここに集い礼拝を守っていることも、日々の歩みの中で祈りをささげていることも、全ては聖霊なる神様の導きによるものなのであります。この聖霊なる神様のお働きというものが判りませんと、私共の信仰は自分の生き方、考え方、努力、まじめさ、そんなものと同じように受け取りかねないことが起きてしまいます。

 しかし、聖霊が判るということは、簡単なことではありません。聖霊は見ることも出来ず、聖霊とはこういうものですと定義することも出来ません。何故なら、聖霊は神様だからです。神様を定義付けすることなど人間に出来るはずもないからです。
 私は今まで何十人にも洗礼を授けてきました。そして、その前には必ず洗礼の準備の学びをします。そこでいつも困ってしまうのは、三位一体を説明しなければならないことなのです。勿論、三位一体というのは、キリスト教信仰の根本教理です。これ以上大切な教理はないと言って良いものです。ですから、洗礼を受ける前に必ず説明します。しかし、説明しながら、「よく判らないだろうな」そう思ってしまっているところがあるのです。実は、私が洗礼を受ける為の試問を受けた時、この教会と同じように、長老会において試問されたのです。この時に、「あなたは三位一体の神様を信じますか。」と問われたのです。三位一体というのは、キリスト教信仰の根本教理ですから、これを問うた長老は当然のことを私に試問したのです。しかし、私は「よく判りません。」と答えました。もちろん、私も牧師から準備会で三位一体については教えていただいていたのです。でも、よく判りませんでした。よく判りませんでしたので、正直にそう答えました。そして、「父なる神様は天地を造られた方として判ります。イエス様も私の為に十字架にかかって下さった方だと判ります。でも、聖霊がよく判らないのです。」そう答えたのを今でも覚えています。
 「聖霊がよく判らない。」それは、その当時の私の正直な思いでした。そして、この思いは、その後十年近く、神学校を卒業する直前まで続いていたように思います。しかし、聖霊なる神様は、私がよく判ろうと判るまいと、私に信仰を与え続け、出来事を起こし、献身の志を与え、全てを導いて下さっていました。神様の導きの中にあることは何となく判っていました。しかし、それが聖霊なる神様の働きであることが判らなかったのです。それは、どこかで自分の信仰のあり方というものが、自分が信じ、自分が決断し、自分が祈り、自分が聖書を読み、という風に考えていたからなのでしょう。私が聖霊の御業に目が開かれましたのは、先程も引用いたしましたコリントの信徒への手紙一12章3節「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない。」という御言葉に出会うことによってでした。この言葉は、よく知っていました。覚えてもいました。しかし判っていなかったのです。聖書の言葉というものは、知っている、覚えているということと、それが判るということとは違うのです。私はこの一句から、今までの自分の信仰の歩みの全てを、聖霊なる神様の御業として受け取り直すことが出来ました。これは、まさに「目からうろこが落ちる」ようなことでした。一度目が開かれますと、ここにもそこにも聖霊の働きがありました。聖霊の御業に囲まれていることに気付かされました。自分の人生の全てが、聖霊なる神様と共にあることが判りました。聖霊なる神様は出来事を起こし、私共をうながし、「イエスは主なり」との告白へと、主を誉め讃えることへと、私共を絶えず導いて下さっているのです。「イエスは主なり」との告白と、主を誉め讃えることが起きているところには、必ず聖霊なる神様が働いてくださっているのです。大切なことは、聖霊の働きが判るか判らないかではありません。この聖霊のうながし、「イエスは主なり」との告白へのうながし、主を誉め讃えることへのうながしに従うか、それともこれを拒否するのかということなのです。ここが重要なことなのであります。
 先程、私が洗礼を受ける時の試問会の話をしました。この時の試問会の光景を私は忘れることが出来ません。次々と問われることに、正直に答えたのですが、その答えのほとんどが、「判りません。」だったのです。長老達の顔つきが、だんだん厳しくなってきました。そしてついに「だったら、あなたはどうして洗礼を受けたいと思うのですか。」と問われたのです。私は正直に答えました。「自分は誰にも見捨てられても仕方がない者です。しかし、イエス・キリストは私をどんな時でも見捨てないと思った。だから、私はイエス・キリストにずっとついて行きたいと思った。」この言葉で、私は試問会を通り、洗礼を受けることが出来ました。別に、こう聞かれたら、こう答えよう。そんなことは何も考えていませんでした。正直に答えれば良いとだけ思っていました。しかし、今思えば、あの試問会の時の答えも又、聖霊なる神様の導きの中にあったものだったと思うのです。

 聖霊なる神様は、誰にでも判るような形で、私共にその御業を行う訳ではありません。しかし、その御業は必ず「イエスは主なり」との告白、あるいは、主をほめたたえることへと人々を導くのです。私共は、この導き、このうながしを拒否しない。この導き、うながしを受け入れて、これに従い歩んでいくということが、私共の信仰の歩みにおいては何より大切なことなのであります。私も別に牧師になりたくてなった訳ではありません。ならない訳にはいかない、抗しきれないうながしを受け、それに従ったまでのことなのです。
 エレミヤは、そのような聖霊なる神様のうながしを、こう表現しています。20章9節「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」エレミヤは悲しみの預言者と言われます。それは彼の預言が、ユダ王国がバビロンによって滅ぼされる、というものだったからです。そのような預言は誰も聞きたくないでしょう。エレミヤが語れば語る程、人々の心はエレミヤから離れて行きました。人々はエレミヤを笑い、エレミヤを非難しました。あれでも神の預言者か、敵の回し者ではないのか。エレミヤは何度、もう神の言葉を語ることは止めようと思ったことでしょうか。しかし、エレミヤがそう思っても、語るまいと思っても、エレミヤに与えられた主の言葉がエレミヤの心の中、骨の中で燃え上がり、エレミヤが押さえつけておくことが出来なかったのです。エレミヤは神様に向かって、「あなたの勝ちです。」「わたしの負けです。」と告げるしかありませんでした。エレミヤは語り続けました。それは、エレミヤの信仰深さ、忍耐強さ、使命感といったものとは少し違います。エレミヤは聖霊のうながし、導きの中で生きるしかなかった、これに逆らうことは出来なかったということなのです。

 今朝与えられている主イエスの御言葉ですが、8〜9節「言っておくが、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、神の天使たちの前で知らないと言われる。」と主は言われます。ここで「言い表す」と訳されている言葉は、他の所では、多くの場合「告白する」と訳されている言葉です。これは私共のこの地上の歩みにおける信仰の告白は、神様の御前における裁きの場に直結していることを示しています。ここで「言い表す」「告白する」と言われていることが大事でしょう。心に思っているというだけではないのです。心には思っているけれど、口に出しては言い表さないということではないのです。それは、聖書が求めている信仰のあり方ではないのです。聖霊なる神様は私共が信仰を言い表すことをうながされるし、それを求められるということなのです。もちろん、いつでもどこででも、「わたしはクリスチャンです。」と言いなさいということではないでしょう。時と場所というものがあるかと思います。しかし、言わねばならない時には、私は言う、それは求められていることなのです。
 難解なのは10節です。「人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は赦されない。」「人の子」というのはイエス様のことです。私共は三位一体の神様を信じていますから、どうしてイエス様に悪口を言うのは赦されるのに、聖霊に対して言うのは赦されないのか。主イエスに対して悪口を言おうと、聖霊に対して言おうと、どちらも同じではないのか。何が違うのか。そう考えてしまうかもしれません。そう考え始めると、何を言っているのか判らないということになります。しかし、イエス様はそんなややこしい議論をここでしている訳ではないのです。「人の子の悪口を言う者は皆赦される。」というのは、私共は皆、元々はイエス様なんか信じない、何が神の子だと思っていた者でしょう。それが今は赦され、神の子とされている。それは私共が悔い改め、神の御子イエス・キリストを受け入れ、信じる者とされたからです。これは、そのことを言っているのです。では、「聖霊を冒涜する者は赦されない。」とはどういうことなのか。悔い改めるならば、どんな罪でも赦されるのではないか。その通りなのです。しかし、自らの罪を認めず、悔い改めることがなければ、私共の罪は赦されることはありません。「聖霊を冒涜する」とは、そういうことです。思い出して下さい。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない。」のです。私共は、聖霊によらなければ信仰を与えられず、祈れず、神様の前にひれ伏すことが出来ません。ということは、聖霊を冒涜する者とは、「イエスは主である」と言えない者ということになるでしょう。私共は、そのままでは赦されることがないのです。信仰を与えられ、悔い改め、イエスは主なりと告白しなければ、私共の罪が赦されることはないのです。私共は、祈る時、主をほめたたえる時、礼拝に集っている時、すでに聖霊の導き、聖霊のうながしの中に生かされています。この聖霊の導きとうながしを拒んではならないのです。これを拒む者は、「聖霊を冒涜する者」になってしまうからです。
 11〜12節「会堂や役人、権力者のところに連れて行かれたときは、何をどう言い訳しようか、何を言おうかなどと心配してはならない。言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる。」とあります。これも迫害の時だけのことを言っているのではないでしょう。どうしても信仰者として、言わなければならない時というものがあるのでしょう。そして、私共が時と場所にかなった信仰の言葉が与えられることを、私共は信じて良いのです。その時には、何も恐れることはないのです。口べたで何を言って良いか判らない。私共は皆そうなのです。しかし、語るべきことは、その時聖霊が教えてくれるのですから、安心して良いのであります。信仰の言葉とは、そういうものなのです。その時に与えられるのです。うまく言えるかどうかが問題なのではありません。そんなことを心配する必要はないのです。大切なことは、この聖霊のうながしを拒まないということなのです。口べただから、恥ずかしいから、後で何と言われるかが恐いから、理由は色々付くのです。しかし、そのような理由で語ることを止めたのでは、聖霊を悲しませるだけなのです。私共は、この「イエスは主なり」との告白へと絶えず導き、うながされる聖霊の具体的な導きを信じて良いのであります。私共が恐れなければならないのは、この聖霊の導き、うながしから、逃げること、これを拒むことなのであります。
 これは、結局自らの罪との戦いということになるのでありましょう。この聖霊のうながし、導きというものは、一人一人違うのですから一般化することは出来ません。しかし、もし私共が困難の中で自らの罪に取り込まれ、主を見上げることが出来なくなった時、祈ることが出来なくなった時、それは「罪だ」とちゃんと言ってくれ、「祈れないのなら、一緒に祈ろう。」と言って一緒に祈ってくる人が居るのならば、それはどんなに幸いなことでしょう。これは聖霊の導きとしか言いようがありません。しかし、これは本当に難しいことです。自分が言葉を掛ける立場になれば判ることです。何も言わず黙っていた方が楽なのです。何も言わない方がよい場合だって少なくないでしょう。しかし、その人への愛が、そしてそれを言わねばならないという聖霊のうながしが、私共にその時に言葉を与えるのでしょう。キリストは私共の為に肉を割き、血を流されたのです。このキリストの十字架をムダにしない歩み。それを聖霊は私共に求め続けておられるのです。信仰から離れる者が一人出るのならば、そこでキリストの十字架が無駄になっているのです。聖霊はそれを許さないのです。
 私共は、これから聖餐に与ります。キリストの血と肉とに与るのです。このキリストの恵みの中に生きる者に、聖霊なる神は、絶えず「イエスは主なり」との告白へと私共を導き、この告白をうながしています。主をほめたたえつつ、このうながしに真実に応える歩みを、この一週も主の御前に為していきたいと、心から願うのであります。

[2007年1月7日]

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