2006年最後の主の日の礼拝を守っています。今朝、私共に与えられているメッセージは、原点に戻るということであります。私共は皆、自分が神様の救いに与ったあの日の出来事、あの人との出会い、あの一言、そういうものを持っているのではないかと思います。しかし、信仰の歩みを続けていくうちに、その時の喜び、感動、あるいは主にお従いするという志というものが、いつの間にか色あせた、当たり前のものになってしまう。そういうことがあるのではないかと思います。私共は、信仰の歩みを続けていく中で、様々なものを身に付けていきます。教理的学びもすることでしょう。祈りの習慣も身に付いてくることでしょう。讃美歌もたくさん覚えていく。しかし、そのようなことだけではなくて、人間としても年齢を重ねていくわけでありますから、経験やものの見方といったものも身に付けていくことになります。そういう中で、いつの間にか信仰の純情とも言うべきものを失ってしまうことがあるのであります。これは信仰者には誰にでもやって来る危険であります。もちろん、私共は一年一年、年齢を重ねるわけでありますから、若い時と同じことが出来るはずもありませんし、する必要もないのです。しかし、信仰の純情、神様への純情、神の言葉に対しての純情は失ってはならないものでしょう。
ヤコブにも信仰の原点と言うべき所がありました。それはベテルです。28章10節以下に記されております、天へ続く階段を上り下りする天使達の夢を見た場所です。兄エサウとの間の祝福の相続をめぐっての争いから、何も持たずに故郷を出なければならなかった、あの時です。神様はあの日ヤコブに現れて、「この土地をあなたとあなたの子孫に与える。わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。」そう約束して下さいました。この神様の言葉に慰められ、励まされ、彼は旅立ったのです。この神様との出会いこそ、ヤコブの信仰の原点であったと言って良いと思います。あれから20年、ヤコブは伯父のラバンのもとで過ごしました。妻も与えられ、多くの息子達、娘達も与えられ、そして多くの財産も手に入れました。彼は伯父ラバンのもとを離れ、故郷に戻る途中、兄エサウとの和解も果たしました(33章)。そして、彼はシケムの町に土地を買い、そこに祭壇を建てました(33章19〜20節)。ヤコブはこの地で安んじて暮らしていこうと思ったに違いありません。やっと安住の地にたどり着いた。そんな思いであったのかもしれません。しかし、このシケムにおいて、とんでもないことが起きたのです。34章に記されていることです。ヤコブの娘であるディナがその土地の首長の息子によって辱めを受けたのです。そうは言っても、この首長の息子はディナに心を奪われ、結婚を申し出たのです。結納金も贈り物も、どんなに高価でも良い。これからお互い親戚同士になって、私共と一緒に住みましょう。こういう申し出でした。ディナは玉の輿に乗ったし、ヤコブ達もこれで安住の地を手に入れることになった、ということでありました。ただ、ヤコブの息子達、これはディナの兄弟、シメオンとレビ達だったと思いますが、彼らは「割礼を受けていない男に妹を妻として与えることはできない。」と申しました。そこで、この首長と息子は、シケムの人々に「割礼を受ければ、ヤコブの娘と結婚出来るし、自分達の娘もヤコブの息子と結婚出来る。彼らと一緒に仲良くやっていく為に割礼を受けよう。」と提案したのです。シケムの人々はこれを受け入れ、町の男達は皆割礼を受けたのです。本当に良い人達です。ところが、町の男達が割礼を受けてまだ傷が痛んで苦しんでいる時に、シメオンとレビが剣を持って町に入り、男達をことごとく殺し、首長とその息子も殺し、ディナを連れ戻したのです。それだけではありません。彼らは、町中を略奪し、家畜を奪い、女・子供を捕虜にしたのです。これは完全にだまし討ちです。こんなことをすれば、この町の近くに住むことなど出来るはずもありません。彼らは、ここから出て行かなければならなくなったのです。それにしても、シメオンとレビは何ということをしてしまったのでしょうか。ヤコブは言います。34章30節「困ったことをしてくれたものだ。わたしはこの土地に住むカナン人やペリジ人の憎まれ者になり、のけ者になってしまった。こちらは少人数なのだから、彼らが集まって攻撃してきたら、わたしも家族も滅ぼされてしまうではないか。」しかし、このヤコブの言い方は、シメオンとレビを厳しくしかりつけているというようなものではありません。息子達は「わたしたちの妹が娼婦のように扱われてもかまわないのですか。」と父ヤコブに言い返す程です。シメオンとレビは少しも悪いとは思っていない。それを、父ヤコブはしかることも出来ない。
ここでは何かが狂っています。シメオンもレビも、ヤコブの息子であって、人をだますことなど何とも思っていない若者に育ってしまったということなのでしょうか。ヤコブもこの二人をしかり、しつけることが出来ない。ヤコブは、家族も与えられ、財産も与えられ、確かに豊かになりました。しかし、この家族には何かが狂ってきている。そう感じるのは私だけではないでしょう。日本も又、あの戦後の困難な時代から見れば、驚く程の富を手に入れました。しかし、何かが変だ。狂っている。そう思わされることが少なくありません。先日、ニュースで、子供の給食費を払わない親がいる。立派なマンションに住んでいて、給食費は払わない。何かが狂っている。
この時、神様はヤコブに現れ告げるのです。35章1節「さあ、ベテルに上り、そこに住みなさい。そしてその地に、あなたが兄エサウを避けて逃げて行ったとき、あなたに現れた神のための祭壇を造りなさい。」ベテルに上れ。考えてみれば、神様はヤコブに最初に「必ずこの土地に連れ帰る。」と言われた。ところがヤコブはベテルまで戻らずに、40km程手前のシケムに安住の地を求めてしまっていたのです。神様は、ヤコブに思い起こさせられたのではないでしょうか。あの昔のベテルでの出来事、ベテルでの神様との約束を。あなたが戻るのはこのシケムではない。ベテルだ。あなたは何者なのか。アブラハム・イサクの祝福を受け継ぐ者ではないか。多くの家族を与えられ、財産を持つようになり、自分が何者であるかを忘れたのか。ヤコブはこの神様の言葉で、自分を取り戻したのではないかと思うのです。何も持たず、ただ神様の約束の言葉だけを頼りに旅立った自分。神様は多くを与えてくれた。その中で自分は、神様の言葉だけを頼りに生きることを忘れていたのではないか。この旅は、まだ終わっていない。
ヤコブは家族を集め告げます。「お前たちが身に着けている外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えなさい。」ヤコブの家に、外国の神々、つまり偶像が入り込んでいたのです。ヤコブは今までそれを取り去ることを真剣に家族に求めることはなかった。いや、それは家族の問題ではない。ヤコブ自身の問題だったのです。「身を清めて衣服を着替えよ。」とは、悔い改めよということです。新しい衣を着る。私共にとって、それはキリストを着るということでしょう。一切の偶像を捨て、悔い改めて、キリストを着た者として新しく歩み直すということであります。ただ神様の言葉に従い、ただ神様だけを信頼して歩み出すということであります。ヤコブは告げます。「さあ、ベテルに上ろう。」私共にもベテルがある。あの信仰の一歩を歩み始めた所です。あれから何年、何十年経ったか判りません。しかし、私共はいつも、そこに戻らなければならないのです。生ける神様以外の何物かを頼ろうとし始める時、私共は偶像を持ち始めているということでしょう。それは捨てなければなりません。そのような自分の信仰のあり方を、悔い改めなければならないのであります。人々は、このヤコブの言葉に従い、外国の神様と耳飾りをヤコブに渡し、ヤコブはこれを木の下に埋めたのです。耳飾りというのは、外国の神々と共に入ってきたカナンの人々の習俗ではなかったかと思います。日々、カナンの人々と共にいる中で、知らず知らずのうちに、そういうものがヤコブの家に入り込んでしまっていたのです。彼らはこれを捨て、神の祭壇を造る為に新しく旅立ったのです。私共も新しい2007年に向かって、そのように旅立ちたいと思う。
ヤコブは神様をこう言います。「苦難の時わたしに答え、旅の間わたしと共にいてくださった神。」この言葉の背後には、苦い旅を続けた日々があります。しかし守られた。この神様の為に祭壇を造る為に、ヤコブは旅に出ると宣言したのです。この時のヤコブは、とても毅然としています。シケムの人々を襲ったシメオンとレビに対して、「困ったことをしてくれたものだ。」と言っていた同じヤコブとは思えない程です。それは、この時のヤコブは、神の言葉に従うという、明確な筋道を持っていたからであります。私共は、この神様の言葉に従う時にのみ、毅然となることが出来るということなのではないでしょうか。
ヤコブはベテルに行き、祭壇を造りました。そして、神様はヤコブに現れ、祝福して告げられたのです。10節「あなたの名はヤコブである。しかし、あなたの名はもはやヤコブと呼ばれない。イスラエルがあなたの名となる。」ヤコブはイスラエルと名前を変えることになりました。エサウと会う前の日、ヤボクの渡しの所で神様と格闘し、イスラエルと呼ばれると32章においてすでに告げられておりましたが、そのことが、ここで再び確認されました。名前が変わるということは、古代においてはその本質が変わるという程の重大な意味がありました。しかも、ヤコブは神様によってこの名を与えられたのです。ヤコブという名は、兄エサウのかかと(アケブ)をつかんで出て来たので付けられた名です。人をおしのける者、じゃまする者、あざむく者という意味があったと思います。それがイスラエル、「神と共に戦う」「神と戦う」という意味の、神の戦士としての名、神の民の名を与えられたのです。これは、ヤコブ個人の問題ではありません。ヤコブの家全体の問題です。大変なことをしでかしたシメオンとレビも、共にイスラエルとして歩んで行かねばならないのです。単にヤコブがアブラハム・イサクの祝福を受け継ぐというだけではなくて、ヤコブとその家族がこの祝福を受け継ぐ者とされたということなのです。これは、神様の一方的な選びによる命名でした。そして、その名と共に神様はヤコブに再び祝福の約束を与えたのです。11〜12節「わたしは全能の神である。産めよ、増えよ。あなたから一つの国民、いや多くの国民の群れが起こり、あなたの腰から王たちが出る。わたしは、アブラハムとイサクに与えた土地をあなたに与える。また、あなたに続く子孫にこの土地を与える。」これは、神様による約束の更新と言っても良いでしょう。聖書の契約は、一度契約したらそれで終わりというのではなくて、何度も確認され、更新されていくのです。契約の内容が変わるのではありません。今までの契約が確認されるのです。私共の神様との契約もそうでありましょう。洗礼の時、一度約束したらそれで終わりということではないのです。何度も何度もその約束が確認され、更新されていくのです。どうして、更新が必要なのか。それは私共が罪人であり、忘れやすい者であるからです。
信仰の原点に帰るとは、そういうことなのであります。何も私共は新しい約束を神様と結ぶわけではないのです。すでに結ばれている約束を、新しく受け取り直すということなのでしょう。古ぼけた、喜びも感動もないものとしてではなく、新しい生き生きした約束として、受け取り直すのです。偶像を捨て、悔い改め、苦難の時に守り、共にいて下さった神様との交わりに生きるのです。アブラハム・イサク・ヤコブに与えられた祝福の約束は、将来のこと、未来のことでした。「あなたから多くの国民の群れが起こる。」、「子孫にこの土地を与える。」というものでした。明日から迎える2007年がどのような年になるのか、私共には判りません。しかし、明日は私共を祝福して下さる神様の御手の中にあるのです。それ故、私共は安んじて良いのであります。自分の力や富に頼る安心ではありません。神様が私共の為に備えて下さっている明日の祝福を信頼するが故の安心です。この信頼の中で、安心の中で、私共は2007年も、神様の祭壇を築いていくのです。それは教会を建てていくということであり、それは同時に、私共自身がキリスト者として祈り、聖霊の宮、戦士として形造られていくということなのでありましょう。神様との生き生きした交わりの中で、神様への純情、信仰の純情を失うことなく歩む2007年でありたいと、心から願うものであります。
[2006年12月31日]
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