礼拝説教「あなたも、新しく生まれ変われる」エゼキエル書 37章1〜10節 ヨハネによる福音書 3章1〜17節 小堀 康彦牧師 聖書が告げる神様は、「生ける神」です。神様を信じる民と共に歩み、その全てを守り、導かれる神様です。私共は、その神様の御手の中で命を与えられ、一日一日を生かされているのです。しかし、このことはなかなか判りません。人は、自分の力によって、自分の思いの中で生きていると思っています。この神様によって生かされている。このことが判るということ、神様が生きておられるということが判るということ、これはまさに奇跡と言うべきことなのでしょう。この奇跡は、他ならぬ私共の上に起きたのです。信じない者、信じることが出来ない者が、信じる者にされた。まことにありがたいことです。この恵みを喜び、感謝して、私共は毎週主の日になるとここに集い、礼拝を捧げているのです。 今、ヨハネによる福音書の3章の始めの所をお読みいたしました。ここでニコデモという人が出てまいります。彼はファリサイ派に属し、議員であったとありますから、信仰においては筋金入りであり、生まれ、育ちも良かった人のようであります。多分、当時のきちんとした教育も受けていた人であろうと思います。年齢もある程度いっていると考えて良いでしょう。2節でこの人が、主イエスに対して「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです。」と申します。彼は、主イエスがただ者ではない、神様が共におられる者、神様の使い、そんな風に考えていたのではないかと思うのです。その意味では、ニコデモは主イエスに敵対している者ではありません。どちらかと言えば主イエスのシンパと言っても良い人ではなかったかと思うのです。ところが、主イエスはここでニコデモの言葉に対して、いささかかみ合っていないのではないかと思われるような答えをしているのです。3節「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」、5節「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」と言われたのです。「はっきり言っておく」「はっきり言っておく」と繰り返して言われました。この「はっきり言っておく」という言葉は、口語訳聖書では「よくよくあなたに言っておく」と訳されておりました言葉です。これはイエス様自身が「これは本当のことだ、真理だ、だからこれから私が言うことをよくよく心して聞きなさい。」そう言われたということです。耳の穴をかっぽじって良く聞け、そう言われたのです。言われた内容は、同じことです。誰でも、新しく生まれなければ、霊と水によって新しく生まれ変わらなければ、神の国を見、神の国に入ることは出来ない。救われることはない。そう言われたのです。どうして主イエスは、このようなことをニコデモに言われたのか。多分、このニコデモの主イエスに対しての「神のもとから来た教師」「神が共におられる」という言い方の中に、あなたは本当に自分の言っていることが判っているのか、という思いを抱かれたからではないのかと思うのです。もし、本当に自分が言っていることが判っているのならば、主イエスがなさった奇跡に感心しているだけでは済まない。これを自分のこととして受け取らざるを得ない。それは、生ける神を主イエスの中に見出し、それ故に主イエスに従うという決断を生むのです。しかし、ニコデモにはそれが見あたらない。主イエスは、ニコデモの中に、実に信仰的に見える言葉の中に潜む根深い不信仰を見られたのではないかと思うのです。自分の存在が掛かっていない信仰、それを見たのではないかと思うのです。だから、ニコデモに対してこのような言い方をされたのではないかと思う。それは次の彼の返答において明らかになります。 ニコデモの答えは一見大変おもしろいものです。4節「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか。」と言うのです。勿論、主イエスがここで言われたことは、もう一度母親のお腹に入って誕生し直すということを言っているわけではないのであって、まさに、神様によって新しく造り変えられる、生まれ変わって新しくなるということを言っているわけです。この「新たに生まれる」という言葉は直訳すれば「上から生まれる」、つまり「上からの力、神様の力によってによって、生まれるのでなければ」と言われているのです。ニコデモという人は、実は当時のインテリと言っても良い、教養のある、教育をきちんと受けている人なのです。ですから、人間がもう一度お母さんのお腹に入って、生まれ直すなんていうことが出来るはずがないことは百も承知なのです。ニコデモがここで言っているのは、そういうことではないのです。ニコデモはちゃんと主イエスが言われたことを理解しているのです。ニコデモがここで言っているのは、「どうしたら神様の力によって生まれ変わることが出来るのか。そもそも、自分はもう年をとっているというのに、今更どう生まれ変われるというのか。やり直せるというのか。そんなことは出来るはずがないではないか。いや、もしも、生まれ変わるとすれば、自分は変わらなければならないことになる。それはかなわん。」そういうことなのではないかと思うのです。ニコデモは自分は生まれ変われやしない。いや、変わりたくない。そう言っているのです。これを不信仰というのです。主イスは、ニコデモの中にこの不信仰を見たのです。それは、神様を信じると言いつつ、本当の自分を変えることの出来る神様の力を信じていない。自分はこのままで良い、たとえ神様によっても自分は何も変わりたくないと思っている。そのような神様に対しての態度です。
しかし、このニコデモの思いは、私共にも良く判るのではないでしょうか。私共も、しばしばこのニコデモと同じように考える所があるのです。あの人はもう、60歳を過ぎた、70歳を過ぎた、今更何を言っても変わることはないだろう。だから放っておこう。そう考えてしまうところがあるのではないでしょうか。この世の知恵、人間の知恵としては、このように言うことも出来るのかもしれません。ここでニコデモは、この世の常識と言っても良いような人間の知恵をもって、主イエスに語っているのかもしれません。確かに、神様がいないのならば、神様が生きて働かれることがないのならば、年をとってから生まれ変わるなどということはない、そう言っても良いのかもしれません。人はそんなに簡単には変われない。それは本当でしょう。 このニコデモの不信仰は、更に8節9節において明らかになります。主イエスは8節で「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」と言われます。ここで「風」と訳されている言葉は「プニューマ」です。これは別の訳語を付ければ「霊」です。「風」と「霊」をかけている言葉です。つまり、主イエスはここで、風がどこから来てどこに吹いていくのか判らないように、霊もまた人には判らない。しかし、霊は明らかに神様から出て、神様の業を為し、神様の御許に帰るのでしょう。それと同じように、霊において新しく生まれた者も、人間の思いの中では判らないけれども、霊において生まれた者は、神様によって生まれ変わり、そして神の国に上げられていくということなのです。これは、まことに人知を超えたことであります。しかし、ニコデモは「どうして、そんなことがありえましょうか。」と答えるのです。ニコデモの信仰とは、実に自分の頭の限界を超えない、自分の常識を超えない、そういうものだったのであります。それは、主イエスに対しても「神のもとから来た教師」「神が共におられる方」という所までは行きますが、「生ける神の子」という所には突き抜けないものであったのです。「神のもとから来た教師」「神が共におられる方」というのは、「素晴らしい人」という所を超えないのです。これでは命を受ける信仰にまで至りません。 16節「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」とあります。これは大変有名な言葉です。皆さんの中には暗唱している方も多いでしょう。私共はこの言葉が、ニコデモとの対話の後に記されているということを見逃してはいけません。この16節は、主イエスの救いの意志を示している言葉なのです。「独り子」とは主イエスご自身のことでしょう。主イエスはここで、「神様は、あなたがたが永遠の命を得るために、救うために、わたしを遣わされた。わたしはそのために来た。」そう言われているのです。この神様の大いなる救いの意志、私共を何としても救わないではおかないという、何にも揺らぐことのない絶対の救いの意志とでも言うべきものが宣言されているのです。私共は、この言葉とそれを貫徹することの出来る神様の力を信じて良いのであります。いや、信じなさいと招かれているのです。 先程エゼキエル書の37章をお読みいたしました。荒涼とした枯れた骨に埋まった谷。その骨に対して主なる神様はこう言われたのです。4節の半ばから「枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」神様は枯れた骨に向かって「お前たちは生き返る」「お前たちは生き返る」と繰り返し告げられました。これは、終末において与えられる復活の恵みの預言であります。しかし、それだけではないでしょう。神様の霊を吹き込まれるとき、私共は生き返るのです。そして、生き返った私共は「自分の本当の主人」として神様を知るようになるということなのであります。私共はこの主の救いの御業に与っている証人なのです。この神様の霊を吹き込まれて新しく生まれ変わったとき、私共は自分自身が自分の人生の主人ではなくて、神様が自分の人生の本当の主人であることを知った。自分の命が、神様に与えられた命であることを知った。神様のご支配が、既に自分の所に来ていることを知ったのです。自分は、死んだ者も生き返らせることの出来る神様の御手の中で生かされている者であることを知ったのです。私共はどこでこの神様の霊を受けたのでしょうか。この礼拝においてでしょう。私共は神様の御言葉と共に霊を受け、生まれ変わった。そして、その出来事は、毎週の聖日の礼拝の度毎に、起き続けているのです。私共は、神様の御前に新しくされ続けているのです。まことにありがたいことです。私共はこの恵みに与る者として神様に招かれているのです。この幸いを感謝し、共に祈りを捧げたいと思います。 [2006年11月26日夕礼拝] |