富山鹿島町教会

礼拝説教

「我が主よ、我が神よ」
創世記 27章1〜40節
ヨハネによる福音書 20章24〜29節

小堀 康彦牧師

 聖書には「聖なる畏れ」とでも言うべきものに満たされた場面が随所に出てまいります。聖なる畏れ。それは聖なる神様に出会った者を満たす思いであります。先週見ました、ヤコブが故郷から追われるようにして旅に出る、その始めの所で、天に達する階段を上り下りする御使いを見た夢、それに続く神様の祝福の約束の言葉を受ける場面。ヤコブは聖なる畏れに満たされ、恐れおののいて言いました。「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ。」(創世記28章17節) ヤコブは聖なる神様と出会った、神様の御臨在に触れた、それ故、恐れおののかないではいられなかったのであります。このような場面は、聖書の中にたくさんあります。というよりも、聖書はこの聖なる畏れに満ちているのです。聖書はこの聖なる畏れに満たされた者の証言の書であると言って良いと思います。モーセの召命の場面、海の奇跡、主イエスの様々の奇跡を行った場面、数え上げればきりがありません。私共は、この聖書を読む中で、この聖書の言葉を聞き、触れる中で、同じ聖なる畏れに満たされるのであります。私共が毎週ここでささげる主の日の礼拝は、この聖なる畏れが支配する所なのでしょう。生ける神が御臨在され、私共はその神に出会い、その神に触れ、いや神に触れられ、恐れおののきつつ、しかし、この神が私共を愛しておられることを知らされ、喜び踊るのであります。それは聖なる喜びであります。聖なる畏れと聖なる喜び。それが神様の御前にある私共の思いであります。
 ある神学者が、キリスト教は宗教ではないと申しました。その意味は、人間が造り上げた偶像、人間が造り出した教え、そのようなものによって成り立っているのではないということです。キリスト教は、生ける神との出会いの中で生まれた、生まれ続けている、生ける神との交わりです。キリスト者であるということは、聖なる畏れと聖なる喜びに満たされて生きることなのであります。

 今朝与えられている御言葉は、ヤコブが父のイサクを騙して、イサクが兄のエサウに与えるつもりであった神の祝福、アブラハム・イサクへと受け継がれ、これからも神の民に受け継がれていく祝福を奪い取ってしまった話というです。何とも人間の狡さ、欲望、罪がこれ程ストレートに記されている所も少ないのではないかと思える程の所です。皆さんは、ここを読んでどう思われたでしょうか。ヤコブはずるい、何という弟か、と思われたかもしれない。このヤコブからイスラエルの12部族の元となる12人の息子が生まれるわけで、イスラエルはその大元の先祖からして嘘つきだった、だからユダヤ人は信用出来ないという、ユダヤ人差別の議論をする人もいるのですが、これは全くの御門違いです。あるいは、ヤコブはそれ程悪くはないのではないか。本当に悪いのは、母のリベカだ。ヤコブはリベカの言う通りにしただけだ。だいたい女が跡継ぎに口を出すと、ろくなことがない。これも御門違いの議論です。年老いたイサクが可哀相だ。あるいは、兄のエサウこそ被害者だ。そんな思いを抱いた人もいるかもしれません。普通にここを読みますと、悪人グループである母リベカと弟ヤコブ。だまされた可哀相な人グループとして父イサクと兄のエサウ。そんな風に分けるのではないかと思います。これが、この所を素直に読んだ感想ではないかと思います。これは間違ってはいないのです。実際、ヤコブはこれが原因で故郷から逃げ出さなければならなくなったのです。父や兄をだました報いを受けなければならなかったのです。
 確かに、ここに記されている出来事を「イサク一家の跡継ぎ争い」の話として読めば、この四人の人間関係だけの話となります。歴史の中で繰り返されてきたお話しです。その様に読んでも、それはそれなりに得るところもあるでしょう。歴史に学ぶということです。しかしそこには、聖なる畏れも、聖なる喜びもありません。私共は、ここでこれが聖書の話であることを思い出さなければなりません。聖書の本当の主人公、ただ一人の主人公はただ一人の神様なのです。神様は、この話の一体どこに出てくるのでしょうか。神様は、どこでこの四人と関わっているのでしょうか。

 思い出してみましょう。ヤコブとエサウの双子が生まれた時のこと。25章にある記事ですが、イサクの妻リベカはこの二人をお腹に持っている時に、神様の言葉を受けました。23節「二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。」「兄が弟に仕えるようになる。」これは重大な言葉です。神の言葉だからです。神様の意志が、神様の御心が、神の選びが、すでに二人が生まれた時に示されていたのです。この言葉をリベカは決して忘れていなかったのではないでしょうか。二人は成長し、父のイサクは兄のエサウを、母のリベカは弟のヤコブを愛します。これほどストレートに書かれていると抵抗を感じないわけではありませんが、程度の差こそあれ、これはどこの家庭にもあることでしょう。問題は、この自分がこの子の方を愛しているという思いと、神様の御心がどのように関わるかということです。
 今朝与えられている御言葉の直前の所、26章34〜35節には「エサウは、四十歳のときヘト人ベエリの娘ユディトとヘト人エロンの娘バセマトを妻として迎えた。彼女たちは、イサクとリベカにとって悩みの種となった。」とあります。エサウは土地の女性二人と結婚しておりました。この二人の嫁は、イサクとリベカにとって悩みの種となっていた。何故か。聖書はその理由を記していません。しかし、それは理由を記さなくても判ることだからです。イサクとリベカが頭を悩ませたのは、彼女たちがイサクとリベカが信じる神、アブラハムに祝福の約束を与え、イサクがその祝福を受け継いだ、その祝福を与えられる神を信じる者ではなかったからなのです。ヘト人の娘であったとは、そういうことなのです。イサクとリベカは、頭を悩ませた。これでは、アブラハムの祝福を兄のエサウに与えて良いものかどうか。この時、リベカの頭には二人を生んだ時に与えられた神様の言葉があったと思います。そして、夫であるイサクにもそのことを話していたはずなのです。しかし、イサクは何事もなかったかのように、アブラハムから受けた祝福を、長男であるエサウに与えようとした。それが、今朝与えられている場面の背景なのです。
 どうでしょうか。リベカとヤコブは悪人、イサクとエサウは被害者。事態はそれ程単純ではないことに気付かれるでしょう。逆に、イサクこそが、神様の御心に反して自分が愛する長男のエサウに祝福を与えようとしたことが問題だったのではないか、間違いだったのではないかということにならないでしょうか。
 イサクはもう老人になり、自分の死が近いことを悟ります。そして、長男エサウを呼んで、エサウの得意な狩りをしてきて、その獲物で料理を作りなさい。自分はそれを食べてわたし自身の祝福をお前に与えると言うのです。「わたし自身の祝福」、それはアブラハムから受けた祝福です。世界の祝福の源となり、子孫が大いなる民、神の民となるという祝福です。死ぬ前に自分の好きなおいしい料理が食べたいというのは、イサクがいかにも食い意地が張っているように見えますが、これは祝福を与える時の祝いの用意をしなさいという意味です。
 リベカは、このイサクの言葉を聞いてしまいます。そして、エサウがイサクの祝福を受ける前にヤコブに祝福を受けさせなければならない。そうしなければ、神様の御心に反することになる。リベカはその一念を通す為に、計略を立てるのです。エサウが狩りから戻る前に、子山羊で料理を作り、ヤコブをエサウと偽って料理を持たせて父イサクの所に行かせて、祝福を受けてしまおうというものでした。ヤコブはためらいます。イサクがいくら年を取ったとはいえ、兄と弟を間違えるはずがない。もし、イサクにそのことが判れば祝福どころか、呪いを受けることになってしまう。ヤコブはためらいます。しかし母のリベカは、ためらうヤコブを励まし、「呪いを受けなければならなくなったとしたら、その呪いは、わたしが引き受けます。わたしの言うとおりにしなさい。」とまで言うのです。ここには、リベカのどうしてもヤコブに祝福を与えたいという、何か母の執念のようなものさえ感じます。リベカも単純に「神様の御心が成就するために」という思いだけで動いていたのではないのでしょう。リベカは、用意周到に、目がかすんで見えなくなってきていたイサクをだます為に、毛深いエサウに似せて、子山羊の毛皮を腕や首に巻かせ、エサウの匂いがしみこんだエサウの晴れ着を着せたのです。ヤコブはリベカの作った料理を持って、恐る恐る父イサクの前に出たのです。18節以下には、イサクとヤコブとの間の緊迫したやり取りが続きます。イサクは自分の前に来た者が、エサウであると信じることが出来ません。何か変だと思います。次々に質問をします。「誰だ、お前は。」「どうして、こんなに早く獲物をしとめられたのだ。」そして、ついに「触って、本当にエサウかどうか確かめたい。」と言います。イサクはヤコブを触りながら、「声はヤコブだが、腕はエサウだ。」イサクは疑いながらも、ヤコブを兄エサウと思って祝福することにしました。イサクはヤコブに口づけし、ヤコブの着物の匂いをかいで、エサウの匂いを確認し、ヤコブを祝福したのです。イサクは、祝福する最後の最後まで疑っていたのでしょう。だから、着物の匂いをかいだのです。しかし、イサクはヤコブをエサウと思って祝福しました。

 ヤコブが祝福を受けた後、兄のエサウが狩りから帰ってきました。エサウは料理を作り、父イサクの元にやって来ました。エサウは何も知りません。エサウは、「お父さん、息子の獲物を食べてください。そしてあなた自身の祝福をわたしに与えてください。」と告げたのです。父イサクが、「お前は誰か。」と問うと、エサウは「あなたの息子、長男のエサウです。」と答えました。イサクは驚きます。だったら、さっき祝福したあの男は誰なのか。ヤコブか。イサクは全てを悟りました。聖書はこう告げています。33節「イサクは激しく体を震わせて言った。『では、あれは、一体誰だったのだ。』」このイサクの激しい体の震えは、何を意味しているのでしょうか。自分がだまされたことへの悔しさでしょうか。自分の人生の最後、自分の祝福を息子に伝えるという、父として最も重大な時にだまされ、裏切られた怒りであったでしょうか。いや、この激しい体の震えは、それ以上のことを示しています。イサクを襲った「聖なる畏れ」です。イサクは、自分の愛している長男エサウに祝福を与えようとした。彼はヤコブが祝福を継がねばならない者であることを、妻のリベカと共に知っていたはずなのです。しかし、彼はそうしようとしなかった。自分の愛する兄のエサウを祝福したかったのです。何ということでしょうか。しかし、私共はこのイサクのしようとしたことを批判出来る立場にはいません。何故なら、私共も同じように、神様の御心よりも、自分の願い、自分の欲を優先させてしまうことがしばしばあるからです。このイサクの姿は、不徹底な信仰者である私共の姿そのものとも言えるのではないでしょうか。イサクは自分の思いを通そうとしました。しかし、神様はリベカの計略を用いて、それを阻まれたのです。イサクは、最後の最後になって、自分の思いが阻まれたことによって、知らされたのです。神様によって阻まれたことを知らされたのです。「主は生きておられる」ということを知らされたのです。彼は聖なる畏れに包まれ、体を激しく震わせたのであります。だからイサクは、この後でヤコブへの恨みの言葉を言っていないのでしょう。私共が「神は生きておられる」という、生ける神様の現臨に触れるのは、何も自分に思いもかけなかった良いことが起きたときだけではないのです。自分の願い・思い・計画が頓挫する、そういう時においても神様の御心を示されて、「神は生きておられる」という聖なる畏れ撃たれることがあるのであります。

 主イエスが十字架にかかり三日目に復活され、その御姿を弟子達に現された時、弟子の一人のトマスはその場にいませんでした。そして、主イエスの甦りを喜ぶ弟子達の言葉を聞きながら、一人彼は「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言いました。しかし、次の日曜日、トマスも一緒に他の弟子達と共にいる時、復活の主イエスはその弟子達の真ん中に現れて、トマスに言われたのです。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」この時、トマスを襲ったのも、聖なる畏れでありました。主イエスは本当に復活された。主は生きておられる。トマスは恐れおののき、そして喜びに満たされ叫びました。「我が主、我が神よ。」このキリスト告白は、実に、主は生きておられるという現実に触れ、聖なる畏れと聖なる喜びに包まれて発せられた告白なのです。
 主は生きておられる。この神の現実の中で、キリストの教会は歩み続けて来たのであります。代々の聖徒達の証しは、全てこの一事、「主は生きておられる」ということを語り続けてきたのです。私共の小さな信仰の歩みにおいても、「主は生きておられる」という告白と、その事実を示す出来事があるはずなのです。それは、外の人から見れば小さな偶然の出来事かもしれません。父イサクが息子のヤコブにだまされたこともそうでしょう。傍から見れば、どこにでもある小さなこです。しかし、当人にとっては畏れと驚きに満ちたことだったのです。私共の信仰の目が開かれるということは、「主は生きておられる」という出来事に目が開かれるということなのであります。私共の信仰の歩みは、この聖なる畏れと驚きに包まれているのです。この生きて働き給う神の御業に導かれつつ、この一週も主の御前に歩んでまいりたいと思います。

[2006年11月19日]

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