富山鹿島町教会

礼拝説教

「決して見捨てない神」
創世記 28章10〜22節
ヘブライ人への手紙 13章5〜8節

小堀 康彦牧師

 聖書には、様々な人が登場いたします。誰も皆、実に個性的です。アブラハム・イサク・ヤコブにモーセにダビデ、イザヤにエレミヤ、ペトロにヨハネ、そしてパウロと、名前を挙げればきりがありません。誰もが個性的で魅力的で、そして波乱に満ちた人生を送っています。誰を主人公にしても、楽しい小説、映画になりそうです。実際、その多くが小説になり、映画になり、絵画の題材となりました。しかし、聖書の本当の主人公、唯一人の主人公は、それらの人々ではありません。聖書の本当の、唯一人の主人公は、父・子・聖霊なる三位一体の神様ご自身なのです。私共が聖書を読むということは、唯一人の主人公である神様の御業、御言葉、御心に触れるということです。たくさんの個性的で魅力的な人々は、皆、この神様の御業の為に、御心を示す為に用いられた人々なのです。私共は、この聖書を読む中で、神様の物語の中に生きた人々と出会い、彼らを生かした神様に出会います。そして、聖書の中に登場する人々に語られた神様の言葉が、自分自身に語られている言葉であることを知るのであります。私共自身も又、聖書の中に登場する様々な人々同じように、大きな神様の物語の中に生かされていることを知るのであります。実に、私共の人生の主人公も私共自身ではなく、神様であることを知るのであります。私共の人生は、神様が御業を現される舞台となっていることを知るのであります。神様は自らの業を現されるのに、舞台を選びません。神様は自らの業を展開される舞台として、私共の人生を選んでくださったのです。

 ヤコブはベエル・シェバを発ってハランに向かいました。表向きは、結婚相手を見つける為です。しかし、本当の理由は、兄のエサウの怒りによって命が危うくなったからです。ヤコブは兄エサウの手が届かない所へと逃げ出したのです。どうして、そんなことになってしまったのか。それについては、次の週に詳しく見たいと思っていますが、ヤコブが兄と偽って、父イサクをだましてイサクから最後の祝福を受けてしまったからです。ですからヤコブが兄エサウの恨みを買い、故郷から逃げ出さなければならなくなったのは、自業自得と言えるでしょう。ヤコブは父と母の元を離れ、故郷を追われるようにして、旅に出なければならなかったのです。ベエル・シェバからハランまでは、およそ800qです。富山からですと、南に行けば下関海峡を越え九州に、北に行けば津軽海峡を越えて北海道まで行ってしまう距離です。彼はどんな思いで旅立ったのでしょうか。夢と希望に燃えた、青春の旅立ちのようなものではなかったことは明らかでしょう。はたして、無事にハランまでたどり着くことが出来るのか。ハランに行ってからの自分の生活はどうなるのか。ヤコブは逃亡者なのですから、最早家に戻ることも出来ないのです。いつでも帰ることが出来る場所を失った者としてヤコブは旅立ったのです。不安、恐れがヤコブの心を支配していたのではないでしょうか。
 聖書の中を見てみますと、ヤコブのように逃亡者のような生活をしなければならなかった人が他にもいます。すぐに思い起こすのはモーセとダビデです。モーセはエジプトで生まれ育ちますが、同胞がエジプト人に虐げられているのを見て、エジプト人を殺してしまいます。そして、彼はエジプトから逃げ出さなければなりませんでした。また、ダビデは自分が仕えていたサウル王に命を狙われ、ユダの地を転々と逃げなければなりませんでした。モーセとダビデ、二人とも旧約聖書の中では、大変重要な役割を担っている人です。旧約聖書の中で最も重要な人物を二人挙げよと言われれば、この二人を挙げることになるでしょう。ヤコブにモーセにダビデ。彼らは逃亡者という、最も弱い所に身を置かねばならなかった者達でした。そして神様は、その最も弱い所に身を置かねばならなかった者に自らを現されたのです。
 ヤコブは不安と恐れの中で夜を迎えました。石を枕とする野宿です。彼には頼るべきものは何もありませんでした。そこで、彼は夢を見たのです。それは夢という手段を用いて、神様がヤコブと出会われたという出来事でした。彼が見た夢は、神の御使い達が天まで達する階段を上り下りしているというものでした。口語訳に親しんでいる方は、ここで「階段」と訳されてい言葉が「梯子」と訳されていたことを覚えておられるでしょう。この場面を描いた多くの絵も、梯子を上り下りしている天使達の姿を描いているものが多いのです。新共同訳で「階段」と訳した理由は、ヤコブがここで見た夢は、古代メソポタミヤ地方での神殿であるジグラッドの階段のようなものではなかったかと考えられるかななのです。ジグラッドと言うのは、高さは20メートルにも達する巨大な構築物で、その上に神殿があります。その階段を天使が上り下りしているのをヤコブは夢で見たのではないかと思うのです。天の神様の住まいと自分がいる地上との間を、御使いが神様の御心をなす為に忙しく仕えている様子を夢で見たのです。ヤコブはこの夢で、自分がいるこの場所が神様の御臨在される所であることを知らされたのです。ヤコブは、アブラハム・イサクと続いた神様の祝福を受けながら、約束の地を負われた身でした。あの約束の地こそ、自分が神様と共にいることが出来る、神様の祝福を受けることが出来ると思っていた場所でした。しかしヤコブはそこを追われました。ヤコブはもう自分には神様の祝福はない。そう思っていたのではないでしょうか。しかし、そのようなヤコブに対して、神様は夢を見せ、あなたがいるその場所こそ、私がいる所なのだ。そう教えられたのです。神様は、それを更に言葉をもってヤコブに示されました。15節「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」この言葉こそ、今日、私共がヤコブと共に私共自身に告げられた言葉として聞く、神様の言葉です。神様は、私共がどこに行っても共にいて下さる方なのです。神様ご自身がそう約束して下さったのです。

 私共は、自分がどのような時に神様は自分と共におられると思うのでしょうか。それは多くの場合、自分が幸せで、何も問題が無く、全てがうまくいっている、そういう時なのかもしれません。しかし、私共がたとえそのように思い、そのように感じたとしても、それは真実ではありません。自分が幸いであり、良いことがあった、そのようなときだけ「神様は自分と共にいて下さる。」というのは真実ではないのです。神様は、私共が「どのような時にも」共にいて下さると約束して下さっているのです。もっと言えば、私共が神様と真実に出会うのは、私共が順風満帆の時ではないのではないでしょうか。私共が順風満帆の時、私共はたいてい自分の力を頼り、自分の能力に自信を持ち、自分の力で明日を切り開いていけると考えます。そのような時、私共は本当の所で神様を必要としていないのではないでしょうか。しかし、自分の中に何も頼るべきものが無くなる時、神様は本当に頼るべきものが何なのか、それは神である私だ、そのことを示されるのであります。ヤコブは確かにイサクの子であり、生まれた時から神様について聞かされ、神様の祝福を受け継ぐ者として育てられて来たかもしれません。イサクに連れられ、礼拝もしてきたでしょう。祈ることも日常的であったかもしれません。しかし、この逃亡者となり、不安と恐れの中で、野宿をしなければならなくなったこの時まで、ヤコブは本当のところで無くてはならない方として、神様と出会うということは無かったのではないでしょうか。明日に対しての何の保証もない、この世界にたった一人放り出されたような状態の中で、ヤコブは神様と出会ったのです。ヤコブが出会ったというよりも、神様ご自身がヤコブに、「わたしが神だ、わたしはあなたがどこに行っても、あなたと共にいる。あなたを守る。あなたをこの土地に連れ帰る。わたしはあなたを決して見捨てない。」そう、自らを夢と言葉をもって現されたのであります。これはヤコブの思いを超えたことでした。想定外のことでした。神様はいつも、私共の思いを超えたあり方で、私共と出会われるのでしょう。  ヤコブはこの時、自分は見捨てられたと思っていたかもしれません。家族からも、故郷からも、そして神様からも。そのようなヤコブに対して、神様は、「私は決してあなたを見捨てない。」と告げられたのです。ここで神様は、ヤコブの将来に何があるのか、具体的に告げられた訳ではありません。ハランまで無事に着けるのか。ハランでの生活がどういうものになるのか。神様はヤコブに具体的にこうなる、ああなると告げた訳ではない。何がどうなるのか。ヤコブはこの神様との出会いの後でも、少しも判りはしないのです。しかし、ヤコブは大丈夫だと思った、生きていけると思った。それは神様が共にいて下さることが判ったからです。

 インマヌエル、「神、我らと共にいます。」これは、単なる教えではありません。私共が神様と出会って示される、神様の真実、神様の恵みの現実なのであります。何か良いことがあったから、神様は私を恵み、憐れんで下さっている。神様は共にいて下さる。そんなことではないのです。もう、どうしようもない。明日への展望が開けていかない。あるいは、次から次へと困難なことが起きる。病気になる。あるいは、病気が少しも良くならない。そういうただ中にあって、神様は「わたしはあなたと共にいる。わたしはあなたを決して見捨てない。」そう告げて下さっているのであります。そういう中にあって、神様は私共と共にいて下さっているのです。私共の信仰の目は、耳は、ここに向かって開かれなければならなりません。
 このインマヌエルという出来事は、言うまでもなく主イエス・キリストによって、最も明確な形で私共に示されました。この天使が上り下りしている神の場所。それは主イエス・キリストの降誕と昇天によって、更に聖霊降臨によって、主イエス・キリストを信じる者が生きる、全ての場であることが明らかにされたのです。天に届く階段を御使い達が上り下りしている様子は、主イエスが天より降られたクリスマスの出来事と主イエスが復活され天に昇られた昇天が示している主イエス・キリストの運動と重なるのです。つまり、私共が生きている全ての場が神の家、ベテルとなったということなのです。だとするならば、私共はいつでも天を見上げれば良いのです。聖霊なる神として主イエス・キリストご自身が、神様ご自身が、私共と共におられるが故に、私共は天を見上げるならば天使がいつも忙しく上り下りしているのを見ることになるからです。この私の為にです。
 もし、自分にとって良いことがある時だけ、神様が自分と共にいて下さるなどという信仰であったなら、キリスト教はとっくの昔に歴史の中から消えていたでしょう。代々の聖徒達は、困難の時にも変わることなく自分と共にいて下さる神様を見ていたのです。先程、ヘブライ人への手紙の13章5節以下をお読みいたしました。7節には「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。」とあります。ここで言われている「彼らの生涯の終わり」とは、殉教を示していると多くの人は言います。 A.D.110年頃に殉教した教父にアンティオケアのイグナチオスという人がいます。彼はローマでライオンに食べられて殺されるという壮絶な死に方をするのですが、ローマに送られる途中、何度も棄教するように勧められます。しかし彼は、当時75才くらいであったと言われていますが、「神様は今まで一度も私を裏切られたことがないのに、どうして自分は神様を裏切ることが出来ましょう。」と答えたと伝えられています。彼にとって、神様は自分にとって都合が良い時だけの神様ではなかったのです。8節「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」とあります。イエス・キリストは、私共が良い時も悪い時も、幸いな時も困難な時も、生きている時も死ぬる時も、変わることなく私共と共にいて下さり、その御手の中に、私共の全てを抱きとって下さっているのです。そして、この恵みの現実の中に生きた人々によって神の言葉は語られ続けてきたのです。

 ヤコブは兄エサウをだましたのです。言い逃れは出来ません。しかし、神様は決してヤコブを見捨てはしないのです。そして事実、彼はやがてこの地に帰ることが出来、彼の12人の息子達から神の民イスラエルが誕生するのです。私共とて、人に誇れるような善人ではないでしょう。しかし、そのような私共に対して、今日、神様は私共を決して見捨てないと約束して下さるのです。私共を必ず約束の地、神の国へと連れ帰ると約束して下さっているのです。この神様の約束は真実です。この神様の約束の中に、私共の人生の全てが包み込まれているのです。私共の人生は、この神様の約束が実現されていく神様の御業の舞台とされているのです。何という驚き、何という光栄でしょう。このことを覚え、天を見上げつつ、この一週も又、神様から祝福の約束を与えられた者として、歩んでまいりたいと思います。

[2006年11月12日]

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