召天者記念礼拝説教「キリストに似た者」詩編 16編1〜11節 ヨハネの手紙一 2章28節〜3章3節 小堀 康彦牧師
今朝、私共は先に天に召された愛する方々を覚えて礼拝を守っております。皆さんのお手許には、その方々の名前を記した名簿があるかと思います。今年新しく加わった方がおられます。そして、この名簿にはありませんが、週報にありますように、藤田宏さんが一昨日天に召されました。今夜、ここで前夜式を、明日葬式を行います。
この名簿にある方々は、皆キリスト者として死んだのです。キリスト者として生き、キリスト者として死んだのです。このことは決定的なことです。キリスト者とは、神の子とされた者であるということです。人は生まれながらにして神の子である訳ではありません。神の子となる。神の子とされるのであります。どのようにして神の子となるのか。誰によって神の子とされるのか。それは、ただ主イエス・キリストを信じて洗礼を受けることによって、神様ご自身が私共を神の子とされるのであります。キリスト者が神の子であるというのは、自分がそう思っているとか、人がそう見てくれるということではありません。そんなことはあり得ないでしょう。先に天に召された方々が、どんなに立派な人達であったとしても、「あの人は本当に神の子であった。」などとは誰も言ってくれませんし、キリスト者はそれ程立派な人達ばかりである訳でもありません。キリスト者が神の子であるというのは、神様御自身がそのような者として見て下さり、呼んで下さっているからなのです。神様が私共を「我が子よ」と呼び、私共を神の子と見て下さっているということなのであります。
この神の子とされたキリスト者の死とは、どういうものなのでしょうか。2節を見てみましょう。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。」とあります。聖書は、死んで後のことについて、天国はこんな所でと、絵を描くことが出来るように告げることはありません。「自分がどのようになるかは、まだ示されていません」と言われています。死んだら、魂は肉体を離れてとか、肉体は死んでも魂だけは残ってとか、そんなことは判らないのです。私共はそのようなことに興味があるかもしれません。しかし、聖書はそのようなことには興味がないのです。そのようなことは、人間が知ることの出来ることの外のことなのです。知らされていないからです。ですから判らないのです。そんなことは判らなくて良いのです。聖書は私共の興味に基づいて記されたものではないのです。しかし聖書は、もっと重大なことを私共に告げます。それは、「御子が現れるとき、御子に似た者となる」ということであります。
私共はすでに神の子とされています。神様によって神の子と見なされ、神の子として受け入れられています。しかし、私共の中には神の子としてふさわしい実体が備わっておりません。誘惑に弱く、悪に陥りやすく、罪を犯しやすい私共であります。罪を悔い改めてはまた犯してしまうような者であります。しかし、それにもかかわらず神の子とされています。神様は、私共のこの姿をこのままにはされません。主イエス・キリストが再び来られる時、私共はただ独りのまことの神の子である主イエス・キリストに似た者に造り変えられるのです。主イエス・キリストに似た者として、主イエスが三日目に墓からよみがえられたように復活するのです。ここに、私共の一切の希望があります。 私は牧師として、天国が、神の国がどういうところなのか質問されることがあります。天国が、神の国がどういう所なのか、ペットの「コロちゃん」もいるのでしょうかと聞かれることがあります。天地を造られた神様が新しく造られる神の国なのですから、きっといるでしょう。そう答えます。しかし、私共が神の国・天国について知っておかなければならない大切なことは、「コロちゃんが居るかどうか」ということではありません。大切なことは天国はどういう所かということよりも、天国においては私共自身が造り変えられるということなのであります。もし私共の罪が解決されなければ、そこがどんなに素晴らしい世界であったとしても、コロちゃんがいたとしても、そこでは必ず争いが起き、嘆きがあり、悲しみが生まれるのです。そのような所は決して天国でもないし、神の国でもないのではないでしょうか。神の国においては、私共がキリストに似た者とされるのです。ここに、神の国の希望、神の国の喜びがあるのです。私共が神の子とされているということは、私共が神の国において、その罪を全てぬぐわれた者として新しく造り変えられるという希望の約束が与えられているということなのです。この神の国の希望は、私共のこの地上における生涯において出会うどんな苦しみ、悲しみ、病、貧しさ、災い、そして死によっても破られることはありません。何故なら、この希望は、この地上の生涯において成就するものではないからです。主イエス・キリストが再び来られる時に成就するものだからです。しかし、この希望は、私共の地上の生涯と無関係ではありません。何故なら、この希望の約束こそ、私共がこの地上の生涯を歩む上での道筋を示すものとなるからです。
3章3節「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。」と記されています。キリストに似た者とされる希望を持つ者は、この地上の生涯の歩みにおいて、すでにキリストに似た者となることを目指して歩み出すのであります。この目標は、この地上において成就されることはありません。しかし、この目標に向かって私共は歩みます。何故なら、私共はすでに「神の子」とされているからです。私共はこの地上においては、宝石になれず、蝶にもなれません。しかし、イモ虫はやがて蝶になる為に葉っぱを食べるのでしょう。 [2006年10月29日] |