礼拝説教「神様の自由な選びによる計画」創世記 25章19〜34節 ローマの信徒への手紙 9章6〜18節 小堀 康彦牧師
イサクがリベカと結婚したのは40才の時でした。多分、リベカとの年の差は親子ほどあったのではないかと思います。二人にはなかなか子が与えられませんでした。アブラハムの祝福を受け継ぐ者として、アブラハムが100才の時に生まれたイサクでありました。そして、その祝福を更に受け継ぐ者を得る為にイサクは結婚したのです。神様はイサクの為にリベカと出会わせられました。ところが、この二人になかなか子が与えられないのです。イサクは祈りました。そして、ついに神様はその祈りを聞き入れられ、リベカはお腹に子を宿したのです。イサクに子が与えられたのは、イサクが60才の時でありました。実に結婚してから20年もたってのことだったのです。聖書は、21節で「イサクは、妻に子供ができなかったので、妻のために主に祈った。その祈りは主に聞き入れられ、妻リベカは身ごもった。」と、淡々と記しておりますけれど、子が与えられるまで20年もの間、イサクは祈り続けていたということでありましょう。この淡々と記している聖書の記述の中に、20年におよぶイサクの祈りの日々があったことを、私共は読み取らなければなりません。アブラハム・イサクと続いた神様の祝福の系図は、ここで途切れるはずはありません。アブラハムの子孫は空の星の数ほどになる約束なのです。神様の約束なのですから、それは確かなのです。しかし、イサクは神様が備えて下さったリベカと結婚したにもかかわらず、なかなか子は与えられなかったのです。イサクの中に、不安や焦りのようなものも芽生えたのではないかと思います。結婚して20年です。しかしイサクはあきらめませんでした。それが「主に祈った。」ということなのです。あきらめてしまえば祈ることもありません。しかし、イサクはあきらめなかった。だから祈ったのです。そして、神様はその祈りを聞き入れられたのです。イサクがあきらめなかった理由、根拠、それはアブラハムと神様が交わした祝福の約束でありました。アブラハムの生涯は175年であったと、25章7節にありますから、アブラハムはわが子イサクが結婚しても20年もの間、子が与えられない日々を知っていたということになります。アブラハムは、我が子イサクに、神様の約束を何度も語ったことだろうと思うのです。「お前は、神さまがお前の子孫は天の星の数のようになる。という約束として、私が100才の時に与えられたのだ。神様の約束は必ず成就される。だから、お前達にも必ず神様の祝福を受け継ぐ子が与えられる。信じて待ちなさい。」そう、何度もイサクに語り聞かせたに違いないと思います。そして、アブラハムは祈ることをイサクに教えたのではないでしょうか。イサクに子が与えられたのはイサクが60才の時です。その時、アブラハムは160才。アブラハムは、神様の祝福の約束を受け継ぐ者を見て、安心して主の許に召されたのではないかと思います。
さて、リベカの胎に宿ったのは双子でした。リベカも高齢になってきています。双子の初産は大変なことだったでしょう。自分の身がもたない危険さえ感じたと思います。そこでリベカは主に御心を尋ねたのです。主は驚くべき言葉を彼女に与えました。23節「主は彼女に言われた。『二つの国民があなたの胎内に宿っており、二つの民があなたの腹の内で分かれ争っている。一つの民が他の民より強くなり、兄が弟に仕えるようになる。』」
双子の兄弟は成長します。エサウが狩人、ヤコブは家の中にいる人。正反対の性格を持つ兄弟として成長します。やっかいなのは28節です。「イサクはエサウを愛した。狩りの獲物が好物だったからである。しかし、リベカはヤコブを愛した。」父イサクは兄のエサウを愛し、母のリベカは弟のヤコブを愛した。両親そろって、どちらか一方を愛したというよりは良いかもしれませんけれど、ここまではっきり書かれると、この家はどうなっているのかと思うかもしれません。しかし、これも私共の家庭の現実なのではないでしょうか。よく言われるのは、父親は娘に甘く、母親は息子に甘い。親にしてみれば、子供は皆可愛いのです。しかし、強弱があるというか、合う合わないというのがあるのでしょう。子供も二人、三人と居れば、この子のことは手に取るように判るけれど、どうもこの子は難しい。親には、そんな思いがあるのではないでしょうか。父親であるイサクはたくましく育った兄のエサウが好ましく思えた。「わんぱくでもいい。たくましく育って欲しい。」そんな父の思いなのでしょう。一方、母親のリベカは、家にいて、何かと自分の手伝いをしてくれる弟のヤコブが可愛い。これは自然な情でしょう。まことにどこにでもある普通の家族の状況です。
ヤコブの性格というのは、これから皆さんと一緒にヤコブ物語を読み進めていく中で、あまり好きになれない、そんな感想をお持ちになるかもしれません。今日の所だけでも、十分イヤなヤツかもしれません。しかし、神様はこのヤコブを選んだのです。しかも、ヤコブが生まれる前から選んでいたというのです。これは不思議なことです。どうして、ヤコブのような人を神様は選ばれたのか。私共は、この問いについて考えるとき、私共はどうしても自分自身の姿を思い起こさなければなりません。ヤコブを批判して済ませてしまうのは、自分の姿を忘れているからだと思うのです。はたして私共は、自分はヤコブのような悪い人間ではないと言い切れるでしょうか。もし言い切れないとしたら、どうして私共のような者が、神様の祝福を受け継ぐ神の民の一員として加えられているのでしょうか。それは、神様がヤコブを選ばれたように、私共をも選んで下さったからです。それ以外に理由はありません。ヤコブが選ばれたのは、ヤコブが生まれる前でした。ヤコブが、良い行いも悪い行いも、する前なのです。神様の自由な選びは、ヤコブの行いによらなかった。それは、私共が選ばれたのも同じです。実に私共が主イエス・キリストの十字架に担われているように、ヤコブも又、主イエス・キリストの十字架によって担われているのです。神様は、その永遠の選びにおいて、ヤコブを、そして私共を、主イエス・キリストに担われている者として、選び、救い、神様の祝福を受け継ぐ者として、立てて下さったのであります。聖書は告げます。ローマの信徒への手紙9章11-12節「その子供たちがまだ生まれもせず、善いことも悪いこともしていないのに、『兄は弟に仕えるであろう』とリベカに告げられました。それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした。」この神様の自由な選びによる計画の中で、ヤコブが、そして私共が、神の民とされているのであります。それは、どこまでも神様の自由な選びです。私共が何が出来、何をしてきたのか、一切関係ありません。 [2006年10月22日] |