週報にもありますように、今日からしばらくの間、クリスマスぐらいまでと考えておりますが、創世記から御言葉を受けてまいりたいと思っております。昨年のこの時期は、創世記12章からのアブラハム物語から御言葉を受けましたが、今年はその次のヤコブ物語を順に見てまいりたいと思っております。今朝与えられております創世記24章は、アブラハム物語の最後、ヤコブ物語が始まる直前の一つのエピソードを語っております。
聖書はアブラハム・イサク・ヤコブと三代にわたる人の名をしばしば挙げます。典型的なのは、アブラハムの神・イサクの神・ヤコブの神という言い方です。しかし、この中でイサクについての記述は、父のアブラハムの話と息子ヤコブの話に引きずられて、ほんのわずかしかありません。有名なイサクの奉献と言われる、モリヤの山での場面も、イサクは父アブラハムに献げられる者として記されているだけです。イサクが主になっての記述は、26章の井戸をめぐる争いの場面くらいだろうと思います。今日の24章もイサクの嫁となるリベカが見出される所ではありますが、イサクが自分の嫁を見つける為に何かをしたというようなことは、何も記されていません。父アブラハムが息子イサクの嫁を見つける為に一人の僕を送り出し、その僕がリベカを見出し、連れて来たという話です。どうもイサクに関しては、偉大な初代と三代目にはさまれて、影の薄い二代目という印象をぬぐえません。しかし、イサクこそ最も神様の祝福を受けた者であるという理解が、ユダヤ教の歴史の中にはあるということを、私共も知っていて良いだろうと思います。確かに、彼の生涯には目を見張るようなドラマチックな出来事が次々にあった訳ではありません。しかし、淡々とした日々の中に、神の守りと祝福があった。神様の祝福とは、神様が備えてくださる恵みを喜んで受け入れていく、そういうことなのでしょう。彼は受け取り続けたのです。その神の守りと祝福の第一に挙げられるのが、今日与えられているリベカという妻との出会いなのです。イサクは、リベカと出会う為に何もしていません。アブラハムに遣わされた僕が連れてきたリベカを妻として迎えただけです。彼は、自分からことを起こして、自分の力で手に入れたのではありません。彼は受け入れただけです。しかし、そこに幸いがありました。この24章の最後は、67節「イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを迎えて妻とした。イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た。」という言葉で終わっているのです。イサクはリベカを愛した。そして慰めを得たのです。父アブラハムが遣わした僕が連れて来たリベカを、「これは自分が選んだのではない、こんな押しつけられた結婚はまっぴらだ。」そんな風には考えもしないのです。もちろん、この話は今から四千年も前の中東における話です。現代の日本にそのままあてはめることは出来ないでしょう。しかし、ここには結婚というものが何なのか。結婚して幸いになるということはどういうことなのか。そのことがはっきり示されているのではないか。そう思うのです。
私共は結婚というものは、お互いが好きになって、結婚しようということになって結婚するものだと思っています。もちろん、嫌いな人と結婚することはないのですけれど、好きだから結婚するというだけでは、実は、結婚の基盤はとても弱いのです。何故なら、私共の好きという心の動きは、大変もろいものだからです。好きだから一緒になったというだけでは、好きじゃなくなったから離婚しますということになりかねません。しかし、それでは、二人の間に生まれた子供はどうなるのか。子供は結婚の全てではありませんけれど、とても大きな部分を占めていることには間違いありません。私は今まで、何度も結婚式の司式をしてまいりました。そして、それに先立つ結婚の準備会で必ず確認することは、結婚というものは神様の選びによって起きる出来事です。神様の前で結婚式を挙げるということは、この神様の選びの業を承認し、それを受け入れるということなのです。そのことを、何度も繰り返し語ります。結婚式の説教で語ることも、そのことです。このイサクの嫁選びのエピソードが語る第一のことは、このことなのです。神様はイサクの為にリベカを選び、イサクはそれを受け入れ、これを愛し、慰めを得たのです。
結婚は、私共の人生における最も重大な出来事の一つと言って良いでしょう。聖書は、この出来事に全能の父なる神様が関わるのだと告げているのです。これは驚くべきことではないでしょうか。結婚が私共にとってどんなに重要な出来事であったとしても、それはあくまで個人的なことです。世界の動きから見れば、まことに小さな、とるに足りない、出来事であります。しかし、私共の神様は、この小さなとるに足りない個人的な出来事に介入し、祝福されるというのです。私共は思い違いをしてはいけません。神様は全世界、全宇宙を相手にされます。しかし、同時に私共の日常も治められるのです。私共の神様は天地の造り主です。この世界の全てをその御手の中に治められる方です。しかし、その大きな御手は、私共の日常の小さな出来事に対しても臨んでおられるのです。もっと言えば、私共はこの小さな自分の人生に起きた出来事を通して、神様の御支配と神様の愛と祝福を知らされていくのでありましょう。
さて、イサクの嫁選びでありますが、1節を見ますと、「アブラハムは多くの日を重ね老人になり」とあります。この直前の23章においてアブラハムは妻サラの死を経験しています。妻を失い、老人となったアブラハム。彼の心にかかっていたことは、息子イサクのことでした。イサクはまだ結婚していない。ということは、子がいないということです。アブラハムにとって、このことは重大なことでした。何故なら、彼は神様から、あなたの子孫を天の星のように数えきれない程にするという約束をいただいていたからです。アブラハムはこの約束を信じ、歩んできました。この約束により、百歳の時にイサクが与えられました。しかし、イサクの後はどうなるのか。アブラハムは、一人の僕を呼んで、息子イサクの嫁を見つけてくるように命じたのです。
ここでアブラハムは僕に対して二つの条件を出します。一つは、3、4節にありますように、今アブラハム達が住んでいるカナンの地ではなく、アブラハムの故郷に行って見つけるというものでした。これは、単に自分と同じ故郷の女性ならば習慣や考え方が同じで、アブラハムの家の者として都合が良いということではなかったと思います。ここで意図されている第一のことは、アブラハムと同じ神様を拝む者ということではなかったかと思います。アブラハムが息子イサクの結婚の第一の要件としたのは、信仰だったのです。私共はこのことを覚えておかねばならないと思います。クリスチャンはクリスチャンとしか結婚してはならないと言うつもりはありません。しかし、私共の何よりの願いは、我が子に信仰を受け継いで欲しいということであり、又、孫にも信仰を受け継いで欲しいということでしょう。我が子の結婚の問題において、信仰はどうでも良いということでは決してないのでありましょう。
アブラハムの出した第二の条件は、イサクを見つかった嫁の土地へはやらない。あくまでも、このカナンの土地へ来てもらうというものでした。アブラハムの故郷はメソポタミアです。当時の文明の最先端の土地です。一方、アブラハム達がいたカナンの地は、辺境です。言うならば、都会で見つけた嫁が田舎に来たくないと言ったらどうするか。イサクを都会に連れて行くのかと、この僕は問うたのです。アブラハムの答えは、NOでした。何故なら、このカナンの地は神様が与えて下さった約束の土地だからです。アブラハムは単に息子イサクの嫁が与えられれば良いと考えたのではなくて、あくまでも神様の祝福の約束を受け継ぐ者を求めたからです。
アブラハムは、この二つの条件を僕に出して、僕をイサクの嫁を見つける為に遣わしました。僕としてみれば、大変な役目を仰せつかったものだと思ったかもしれません。その僕に対して、アブラハムは重大な一言を与えます。信仰の父アブラハムの言葉です。7節後半「その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。」アブラハムは、神様は自分を生まれ故郷から連れ出し、この約束の地に導かれた。神様は約束の通りイサクを与えて下さった。だったら、神様は必ずイサクに最も良き嫁をも与えて下さるだろう。アブラハムは、イサクの嫁も主の備えの中にあることを信じ、その神様の御手の中にある出会いへと、神様御自身が御使いを用いて導いて下さることを僕に告げたのです。僕は、このアブラハムの言葉をきちんと受けとめました。イサクのお嫁さんを、自分の知恵や力で見つけ出すのではなくて、神様の導きに全てを委ねる。この神様の導きをキャッチすれば良い。この僕はそう思ったのだろうと思います。
僕は、イサクのお嫁さんが見つかった時に贈るたくさんの贈り物を携えて、アブラハムの故郷へと向かいました。僕は、目的地に着くと神様に祈って、こうお願いしました。13、14節「わたしは今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来たとき、その一人に、『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が、『どうぞ、お飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせてください。」これは、なかなかおもしろい祈りです。実は、ここには、この僕の知恵も示されています。僕が娘に「水を飲ませてください」と頼む。明らかに旅の人です。その人の願い通り、しかも「らくだにも飲ませましょう」と言うのは、その娘の心根の優しさを示しているものでしょう。水くみは、当時女性の仕事です。しかも、大変な重労働なのです。泉の傍らなのですから、水を飲ませてくれるように頼まれても、「自分で汲めばいいのに。」と思うのが普通かもしれません。まして、十頭のらくだにまでとなると、きっとこの娘さんは、何度も泉に水をくみに行かなければならなかったに違いありません。そんな労苦もいとわずに旅人に親切にしてくれる女性なら、これ程主人の息子のお嫁さんにふさわしい人はいない。しかも、イサクは牧畜の民です。ラクダという家畜に対して骨身を惜しまず水を与える、そういう心根の人でなければ困る。そう、この僕は考えたのではないでしょうか。この僕は、何気ない日常的な仕草の中に、その人の人柄が現れるとみたのでしょう。なかなかに知恵のある僕です。しかし、そのような女性が、そう簡単に居るとも思えません。僕としては、かなり高いハードルを設定したつもりではなかったかと思います。
ところが、僕が祈り終わらない内に、リベカがやって来て、軽々とこのハードルを越えてしまったのです。僕は、驚きました。そして、神様に感謝の祈りをささげたのです。そして、さっそくこの僕はリベカの家に行き、自分がここに来た理由を説明し、リベカを主人の息子の嫁に欲しいと願い出たのです。この辺のやり取りについては省略しますが、僕はその日はリベカの家に泊まり、次の日の朝、僕はリベカを今日連れて帰りたいと申し出たのです。リベカの家族は、十日程リベカを手元に置きたいと言います。突然の結婚の話です。昨日の今日というのでは、あまりに急です。リベカの家族は結婚に反対しているのではないのです。十日程、娘との別れの時を持ちたいと思っただけです。当然でしょう。そこでリベカにどうしたいのか聞きました。するとリベカは、この人と一緒に行きますと答えたのです。そして、リベカはアブラハムの僕と共にイサクの所に、その足で嫁いで来ることになったのです。
私は、ここでリベカが「参ります。」と自分の口で言ったことが、とても大切なことだと思うのです。確かに、僕は祈りました。リベカはその通りに行動し、僕の心には「この人だ。」という確信がありました。しかし、リベカが嫌だと言ったのなら、それは神様が備えていた人ではなかったということではないのかと思います。自分は祈った。あなたはその通りにした。だから、あなたは神様が備えてくれた人だ。これは僕の心の動きとしては判ります。しかし、それだけなら、まことに僕の自分勝手な思い込みということになりかねません。ここでリベカが自分で「参ります。」と言ったことにより、確かにリベカは神様が備えて下さった方だということになったのだと思います。信仰者の熱心は、時として、自分勝手な思い込みを神様の選びだと主張しかねないことがあります。しかし、それは私共が良く気を付けなければならないことなのだと思います。神様の御心というものには、ここでのリベカの「参ります。」という一言のような、相手の同意という客観的な出来事がともなうものなのです。私共は神様に祈り、願います。だから、これは神様の御心なのだと言うことは危ういのです。自分の願いと、神様の御心を同一視してはならないのです。神様がその御心を私共に示される時、そこには客観的な出来事が伴うものなのであります。私共の思い込みと神様の御心は違うのです。
私共の願いどおりに、祈った通りに、全てのことが運ぶ訳ではありません。しかし、神様は私共の日常の小さな歩みにも、御心を留められ、恵みと祝福をもって導いて下さっているのです。私共はそのことを信じて良いのであります。ヤコブの手紙は告げます。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。」この良き贈り物を備えて下さる主を信じ、この一週も又、主の御前に祈りつつ、歩んでまいりたいと思います。
[2006年10月15日]
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