今朝与えられております御言葉において、主イエスは大変激しく、ファリサイ派の人々や律法の専門家の人々に対して批判をしておられます。40節で「愚かな者たち」と語り始め、「あなたたちは不幸だ。」という言葉を繰り返し繰り返し語られました。こんなに何度も言わなくても良いのではないかと思う程に、主イエスは繰り返し語られました。数えてみますと、ファリサイ派の人々に対して三回、律法の専門家の人々に対して三回、繰り返されているのです。これは、単に主イエスが「あなたたちにはこんな悪い所がありますよ。」と指摘したというようなことではなくて、ファリサイ派の人々と律法の専門家の人々に対して、徹底的に、その根本から批判されたということなのであります。三回とはそういうことです。
私共は、このように激しい主イエスの言葉、主イエスの激しく相手を批判されるお姿に出会いますと、少なからず戸惑ってしまうところがあります。主イエスは愛のお方ではないのか。だったら、どうしてファリサイ派の人々や律法の専門家の人々に対して、その根本から否定されるような激しい言葉で相対されたのか。主イエスの愛は、ファリサイ派の人々や律法の専門家の人々に対しては向かっていないのか。ふと、そんな感じを持ってしまうからでしょう。もしそうであるならば、主イエスの愛というものも、結局の所、自分の仲間に対してだけ向けられたものではないのかということになります。しかし本当にそうなのか。私共はここで改めて、「愛する」ということはどういうことなのか考えなければならないのではないでしょうか。相手を傷つけない、嫌がることをしない。それも大切なことです。しかし、相手の間違い、それも命に関わる、救いに関わる間違いを教えるということは、その人の命に関わる重要な愛の業であるに違いないのではないでしょうか。しかし、私共は多くの場合、それをしなければならない時でも、相手との関係が悪くなることを恐れて、語るべきことを語らずに居るということが多いのではないでしょうか。相手の命を案ずる以上に、その人の顔色を伺ってしまうのです。実際、相手の間違いを指摘するというのは、大変難しいことです。間違いを指摘しても、相手がそれを受け入れるということは、ほとんど無い。まして、そのことがその人にとって大切にしていることであるならば、信念とでも言うべきことに関わることであるならば、相手を怒らせるだけで、決してこちらの言うことを受け入れることはありません。私共はそのことを経験の中で知っています。だから、言っても仕方がないので言わない。「相手に悪く思われるだけ損だ。」「何事もなく、何事もなく。」そんな思いもあるのでしょう。それが私共の知恵ではあります。しかし、この様に考え、為していることが、愛の行為かと言われれば、そうとも言えないだろうと思います。
私はこの主イエスの態度の中に、愛というものが本来持っている激しさ、厳しさというものが現れているのではないかと思うのです。この愛の激しさとは、我が身を切る激しさとでも言うべきものであります。実際、主イエスはこの時の会話が元で、十字架への道を歩まねばならなくなったのです。53、54節に「イエスがそこを出て行かれると、律法学者やファリサイ派の人々は激しい敵意を抱き、いろいろの問題でイエスに質問を浴びせ始め、何か言葉じりをとらえようとねらっていた。」とある通りであります。もし、この時に主イエスがファリサイ派の人々や律法の専門家の人々の機嫌を損ねるようなことをしなければ、彼らとうまくやっていこうとしたのならば、主イエスは十字架につかなくても良かったのでしょう。しかし、それでは神の愛は現れないのです。真理は隠されたままになってしまうのであります。主イエスは真理を明らかにする為に、彼らのまことの救いの為に、これ程までに厳しく、激しく批判されたのでありましょう。私共が愛に生き、真理に生きようとする時、私共は我が身を切るという覚悟を必要とするということなのではないか、そう思うのであります。しかし、なかなかその覚悟が出来ず、この辺の所という、いわゆる落とし所を見つけて妥協しているのが私共の姿なのでしょう。
私は先週、教団の教師となる人の為の試験を大阪で行ってきました。今回は、補教師となって二年以上経た人が正教師、つまり洗礼と聖餐が執行出来る教師になる為の試験がメインでした。64名の方が全国から集まり試験を受けられました。しかし試験をすれば、必ず「出来る人」と「出来ない人」が出るのです。どうしても不合格と言わざるを得ない人が必ず出る。今回も7人の委員達は本当に悩みました。そこには、なるべく不合格にしたくはないという思いがあるからです。皆、教会員に祈られて送り出されて来ている伝道師達なのです。私も按手を受けて牧師になるまでの伝道師の時代、年に数回しか聖餐に与ることが出来ませんでした。遠くから牧師を招いて行うしかなかったからです。伝道して洗礼志願者が与えられても、自分で洗礼を授けることは出来ませんでした。私がこの正教師なるための試験を受けに行ったとき、教会員達は祈祷会をして私の合格を祈ってくれました。みんなそうなのです。だから、どうしても合格して欲しいのです。しかし、答案を見ると、これでは合格に出来ないという人が出るのです。合格にしてしまえば気は楽です。しかし、それで本当に良いのか。本人にとって、教会にとって、それで良いのか。やっぱり基本的な学びを、もう少ししてもらおう。いや、合格で良いではないか。いろいろと悩むのです。妥協したくなる。しかし、そこでいつも思わされることは、この試験は神様の御前において為されている試験であるということです。そのことに思い至ったとき、この「神様の御前において」ということを真剣に受け取ったとき、その人への愛と、神様への真実というものが一つになる。そこで初めて、その人に厳しい結果を伝えることが出来るということなのであります。
主イエスはここで、内側と外側の矛盾、言っていることとやっていることの違い、本音と建前の分裂を指摘しています。この指摘は、他人事ではありません。この主イエスの批判はファリサイ派の人々や律法の専門家の人々に向けられたものであって、クリスチャンである我々には関係ない。そんなことは言えないのです。この矛盾、分裂は、私共の信仰の歩みにおいても起きることです。「神の御前で」ということが忘れられる時、私共の信仰の歩みも、単なる人間が申し合わせたことをただ習慣として行っているに過ぎないことになりかねないのでしょう。大切なことは、「神の御前で」ということなのであります。
主イエスはファリサイ派の人々から食事の招待を受けました。当時、食事をする前にはしなければならない作法がありました。それは、「汚れ」と「清め」を基本にしたものでした。こういうことです。ファリサイ派の人々は自分を「清い人」と考えておりましたので、外に出れば「汚れた人」、これは律法を守らない人、異邦人などですが、そういう人が触れたものにも触れてしまいます。汚れた物に知らずに触れることもあります。お金などもその類でしょう。そうすると、食事の前には必ずこの「汚れ」を洗い流さないと、この「汚れ」が自分の中に入ってしまう。だから、清めないといけない。手を洗うことに代表される、食前の「清め」の作法があった。これは、決して衛生上のことを考えてではないのです。ところが主イエスは、それを無視したのです。私は、主イエスが故意にそうされたのではないかと思います。ファリサイ派の人々はそれを見て、当然、不審に思います。そこで主イエスは、内側と外側の議論、汚れと清めの議論をされたのです。39節「主は言われた。『実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。』」外側を清めても、内側を清めなければ意味がない、そう言われたのです。更に続けて、あなた方は一見神様に従っているかのように見える行いをしている。十分の一の献げ物もしている。食事の前の清めの作法もしている。しかしその心は、これだけしているのだから自分は清い、あの汚れた者達とは違う。そんな思いに満ちているのではないか。だから、人にあいさつされることを好み、上席に座ることを好んでいるのではないか。しかし、そのような思いで生きることが、神様に従って生きることなのか。そう言われたのであります。
宗教の持つ危険性は、自分達は清く、自分達以外は汚れている。自分達は正しく、自分達以外は間違っている。そう考える所です。この危険性を全く持っていない宗教はありません。キリスト教だって例外ではありません。クリスチャンは清く、正しく、クリスチャンでない者は汚れており間違っている。そう思って周りを見下す。ここに愛はありません。自分達が正しくあろうとする真実。それは大切なことです。しかし、そのことと他者への愛が分裂してはならないのです。しかし、この二つは私共の中でしばしば分裂するのです。真理に生きようとすると他者を裁き、愛に生きようとすると真理を問わない。では、この二つが結合する所はどこか。それが、「神の御前に生きる」という所なのではないのかと思うのであります。生きて働き給う神様の御前に生きる時、私共は真理を不問にすることは出来ない。しかし、目の前にいる人をも神様は造り、愛されているということを忘れることも出来ないからであります。
主イエスが律法の専門家達に言われたことも同じです。律法の専門家ですから、聖書のことは良く知っている訳です。しかし、この聖書を知っているということが、人々を助け、救いに導くという本来の聖書の役割を果たすことになっていない。聖書を知るということと、神様に仕えて神の愛に生きるということとが分裂してしまっているのです。だから、主イエスは「あなたたちは不幸だ。」と言われたのです。聖書を学ぶということは、真理を学ぶということです。しかし、この真理は神様御自身でありますから、この真理を知るということは単に知識を増やすということではないのです。神の愛に触れ、この愛に生きるということは一つにならなければ意味のないものなのです。そして、そこには悔い改めというものが必ずともなうものなのです。しかし、律法の専門家達には、それがなかったのです。それが問題なのです。それは私共にとっても同じことです。何故聖書を読み、学ぶのか。それはいよいよ真実に神を愛し、人を愛し、神に仕え、人に仕える為です。それ以外の為ではないのです。聖書は知的要求を満たす道具にはなり得ないのです。それは、神の御前で、神の言葉として、聖書に向き合うというあり方においてしか、聖書を学ぶことは出来ないということなのでしょう。そして、それがなされているのが、この礼拝という場なのであります。
私はキリスト者らしく生きたいと思っていた時代があります。私は20才で洗礼を受けましてから、しばらくの間、自分がクリスチャンらしくないのではないかということが、いつも心に引っかかっておりました。18才で教会に初めて行ったものですから、キリスト者としての日常の生活習慣が全く身に付いていない訳です。祈ることもよく判りませんでした。私が27歳で神学校に行くと言った時も、青年会の仲間は誰も「そうでしょうね。」とは言ってくれませんでした。皆、「えー、嘘でしょう。」と言われました。少し傷つきました。でも、それがみんなの正直な思い、感想だったのでしょう。早々クリスチャンらしくなるはずもなく、神学校に行ってからもこれで良いのかなと思っていました。しかし、私は礼拝を守り、祈祷会を守りました。そしてそこが私にとりまして、こここそが「神の御前で」ということを教え、身に付けさせていただく場でした。今はもう、「キリスト者らしく」ということを考えることは無くなりました。何をしていても、私はキリスト者であり、牧師なのですから。多分、こうすればキリスト者らしい、そんなものはないのでしょう。しかし、その人がその時その時に、キリスト者らしく生きるということはあるのだろうと思います。なくてはなりません。そして、それは「神の御前で」生きるということが明確に自覚され、事が為される時なのでしょう。
先程、詩編第5編をお読みしました。ここには、「神の御前で」生きる信仰者の祈りの姿が良く表れています。2〜4節「主よ、わたしの言葉に耳を傾け、つぶやきを聞き分けてください。わたしの王、わたしの神よ、助けを求めて叫ぶ声を聞いてください。あなたに向かって祈ります。主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て、あなたを仰ぎ望みます。」とあります。朝ごとに御前に出るのです。そして8節「しかしわたしは、深い慈しみをいただいて、あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し、あなたを畏れ敬います。」とあります。神様の慈しみを抱いて神の家に入るのです。神の家に入り、神様を畏れ敬うのです。私共は、主の日の礼拝のたびごとにここに集っています。私共はここで、神の御前で生きる姿勢を整えさせていただいているのであります。説教は、単なる聖書の知識を増やすものではありません。聖書を神の御前で、神の言葉として聞くのです。そして、私共の一週間の歩みを整えられていくものなのです。
今、私共は聖餐に与ります。ここでキリストの現臨に、私共は触れるのです。「神の御前で」ということが明らかにされるのです。この「神の御前で生きている」ということを心に刻みつつ、この一週も神の真実と神の愛に生きる者でありたいと願うのであります。
[2006年10月1日]
へもどる。