富山鹿島町教会

礼拝説教

「わたしの中の光」
詩編 119編105〜112節
ルカによる福音書 11章33〜36節

小堀 康彦牧師

 聖書の中には、光のイメージがしばしば用いられます。それは、神様の御臨在を示すものであり、神様の栄光を示し、神様の救いを表します。罪の暗闇と対照的に、神様の祝福を示します。そして、この光は新約においては何よりも主イエス・キリストと結びついているのです。ヨハネによる福音書8章12節において、主イエス御自身が「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」と言われている通りであります。又、ヨハネによる福音書1章1、4、5節「初めに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。……言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。」との御言葉を思い起こすことも出来るでしょう。主イエスを信じ、主イエスと共に生きるということは、この主イエスというお方の光の中を歩むということであり、この光を目指して、この光を宿して、この光を身に帯びて生きるということであります。私共はすでに闇の中に生きているのではありません。どんな困難の中に生きようとも、私共に与えられているキリストの光、救いの光、希望の光、永遠の命の光を消すことは誰にも出来ないのです。

 主イエスは言われます。34、35節「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。」「目が澄んでいれば」とはどういうことでしょうか。これは「目が単純である」とも訳せます。目が、まっすぐに、きょろきょろしないで、しっかりと見ていればということです。何を見るのか。それは、神様であり、主イエス・キリストであります。主イエス・キリストに向かって、神様に向かって、私共の目がまっすぐに、単純に見ることが出来るならば、全身が明るくなる。私共が生きているその生活の全体が明るくなるというのです。しかし、目が濁っていれば、神様に向かって、主イエスに向かって、きちんと向き合わず、様々な思い、自分の計算であったり、常識であったり、そういうものをもって神様を、主イエスを見てしまうと、私共の生活全体が暗くなるというのです。この目というのを、耳に置き換えても同じだろうと思います。神様の言葉、主イエスの言葉、聖書の言葉を単純に、素直に、まっすぐに聞くならば、私共は明るくなる。しかし、これがまっすぐに聞けなくなれば、私共は暗くなる。そう言っても良いだろうと思います。
 神様をまっすぐに見ることが出来ない。目が濁ってしまう。神様の言葉を素直に聞くことが出来ない。それは、どうして起きるのでしょうか。それは、神様を信頼していないからだと言えば、その通りなのですが、どうして信頼することが出来ないのかということであります。私は、これは私共がこの世で生活していく上で、どうしてもなくてはならない、いわゆる「現実的に考える」という習慣が、じゃまをしているのではないかと思うのです。「現実的に考える」こと、「現実的な判断」というものは、私共にとってなくてはならないものです。例えば、月に20万円しか収入がないのに、それ以上の生活をしたら破産します。同じ時刻に、二つの仕事を入れてしまえば、相手に迷惑をかけます。お金も時間も、限られただけしかありません。それをきちんと管理することは、誰にでも求められています。これが出来ないと、一人前の社会人として生きることは出来ません。しかし、この「現実的に考える」という中には、神様は入ってこないのです。現実的に考えるということは、私共人間の計算出来る中だけで考えるということなのです。これが、しばしば私共の目を濁らせてしまうのです。神様のお考えや、神様の救いの御業というところにまで、この「現実的考え」というものを持ち込んでしまうのです。そうするとどうなるでしょうか。復活なんてあり得ない、イエスはただの人間、聖書は古い本の一つ、教会は人間の集まり、そして最後には神様なんて居やしない、ということになってしまうのであります。現実的に考えるということはとても大切なことです。しかし、それは神様の御心に従って生きる為に、神様の御業に仕える為に用いるべき人間の知恵であって、これをもって神様の御心を判断するようなことがあってはならないのであります。神様の御心は、すでに聖書によって告げられています。主イエスの御業によって示されています。これを真っ直ぐに見、これに素直に聞くしかありません。神様とまっすぐに向かい合わねばなりません。斜めから見て、「どうせ祈ったところで。」などと思って御言葉に向かうなら、私共は光を受けることは出来ないのです。私共の中にこのような疑いが生まれることはあるでしょう。しかし、私共はこれと戦わなければなりません。そして、これに持ちこたえなければならないのです。

 昨日、二番町教会で富山地区の信徒修養会が開かれました。週報にありますように、全体で61名の出席、私共の教会からは11名の参加でした。桜木教会の山上先生の講演でした。本当に素敵な時を持たせていただきました。私共の教会から11名しか参加しなかったのは、本当に惜しい。もったいないと思いました。みなさん全員に聞いてもらいたいと思いました。24年間の先生が高知の香美教会で牧師として歩まれた日々を振り返りながら、神様を信じて歩むことの幸いをお語り下さいました。
 私自身が、神学校の夏期伝道の時に山上先生にお世話になったということもあるかもしれませんが、お話を聞きながら、「そうだ。」、「そうだ。」と何度も相づちを打ちました。私は、この人と同じ所に生きている。そう思いました。そして、何よりも、この人はイエス様を、神様をまっすぐに見ている。そう思いました。そして、先生の持つ明るさに照らし出されて、私自身も明るくされました。話を聞きながら、今日の説教のこの個所が頭にありましたので、これが「目が澄んでいれば全身が明るい。」ということなのだとはっきり判らせていただきました。私が夏期伝道から帰ってきた時、私は伝道することの喜びで満たされておりました。少しも辛い、大変だとは思わなかったのです。伝道することは、こんなに楽しいことなのだと喜びに満たされていた。その理由が判ったと思いました。夏期伝道で出会った牧師達の目が、みんな澄んでいたのです。神様に対して、聖書の言葉に対して、みんなが真っ直ぐに信頼していたのです。そして、いつの間にか、自分も主イエスに対して、神様に対して、聖書の言葉に対して、まっすぐ見み、素直に聞けるようになっていたのだと思うのです。だから、ただただ楽しかったのです。
 先生は、たくさんのことを教えて下さいましたけれど、いくつかをご紹介させていただきましょう。山上先生は香長伝道圏という交わりを造っている教会の中の一つ、香美教会という所で24年間伝道されてきたのですが、その交わりは、私がお世話になった時は7つでしたが、今は12に増えています。後から加わった教会もありますが、二つの教会は開拓伝道したのです。そして、今も開拓伝道中です。どれも皆、小さな教会です。大きくても、礼拝が30名台か40名台です。その小さな教会が一つでは出来ないけれども、三つ集まれば一つの教会を生み出せると言うのです。そして、実際にそうしてきたし、そうしている。ここにあるのは、神様の救いの御業に対しての信頼です。神様をまっすぐに見ているところから生まれる希望です。ここでもし、「現実的に考える」ということが幅をきかせるとどうなるでしょうか。一つ一つの教会だって大変だ。教勢だって増えていないのに、何で今更開拓伝道なのか。そんな考えが支配的になるでしょう。そうすると、教会は暗くなるのです。神様を見ていないからです。教会を建てるのは誰ですか。神様です。神様が建てると決められたのなら、教会は建つのです。私共は、それに仕えていくだけです。そしてこの神様に仕えるときにこそ、ありたけの現実的な知恵を使うのです。私は富山のことを考えました。魚津より東に、教団の教会は一つもないのです。心が痛みます。その地域に何とかして教会を生み出していく。それが私共の教会の責任なのではないか。改めてそう思わされました。
 決して山上先生が居た所は、伝道がしやすいというような所ではありません。高知県の東の地域というのは、本当に厳しい過疎が進んでいる所です。教会員の高齢化というのは、私共の教会の比ではありません。しかし、明るいのです。その明るさは、キリストの光に照らされている明るさです。キリストの光を内に持っている明るさなのです。現代という時代は、明日に対して希望が持てない暗さにおおわれています。少子化もその現れでしょう。教育の問題も、高齢者の問題も、語り出せば誰の口からも明るい話は出ない。それは、この世がまことの光を知らないからです。自分のことしか考えられず、しかも「可哀相なのは私、間違っているのはあなた」という風に、人を責めてばかりいる。そのような中で、明るさを持つことなど出来ないのです。光は、神様から、主イエス・キリストから来るのです。神はその独り子を給うほどに、この世を愛された。この神の愛を信頼する所にしか光はないのです。
 主イエスは、「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい。」と言われました。私共の中にある光。それは自然に備わっているようなものではないのです。主イエスがおられなければ、私共の中に光はないのです。しかし、私共が主イエスをまっすぐに見るならば、私共が神の言葉をまっすぐに素直に聞くことが出来るならば、私共の中に光が宿るのです。御言葉と共に、世の光である主イエス・キリストご自身が宿られるからです。  ともし火を穴蔵の中や升の下には置きません。よく周りを照らすことが出来るように燭台の上に置きます。私共も、キリストの光を隠すことはしませんし、それは出来ないのです。キリストの光は、私共を輝かせてしまうからです。大切なのは、私共の中の光が消えないようにしておくことです。
 私共はこの世においては、悩みがあります。しかし、それがどんなに大きくても、私共の光を消すことは出来ません。どんなに、濃く深い闇も、光を消すことは出来ないのです。闇は、光が来れば消えるしかないのです。私共の中の光が消えてしまうことがあるとすれば、それは私共がまことの光である主イエスを正面から見ることを止めることによってです。神の言葉を素直に聞くことを止めることによってなのです。
 私は何度も言ってきましたが、御言葉を聞いた後に、「でも、だって、しかし」と言うのは止めましょう。この「でも、だって、しかし」は、私共の日常の常識や現実的考えというものに、神の言葉を従わせようとするものだからです。

 私共は世の光であると主イエスによって言われています。それは、私共がまことの光である主イエス・キリストを知っているからです。主イエスを知っているということは、私共の中にキリストの光を宿すということなのです。私共はまだ、自分達の本当の値打ち、教会の本当の値打ちを知らないのかもしれません。もし、私共が居なかったのならば、教会がなければ、この世界に光は無くなってしまうのです。私共は、この世の力から見れば、まことに弱い取るに足りない存在であるかもしれません。しかし、私共は主イエスを知っています。ここに、私共の本当の値打ちがあるのです。もし私共が居なかったのなら、一体誰がまことの神様に祈るのでしょうか。私共が宣べ伝えなかったのなら、一体誰が主イエスの光に与ることが出来るのでしょうか。その意味で、私共はこの世における灯台のような存在なのだと思うのです。そして、私共の中の光が消えてしまえば、それは灯台として何の意味もなくなってしまうのです。
 私共が神様をまっすぐに見て祈る。主の御業が現れることを信じて祈る。ここに、私共の光が輝くのでしょう。そして、この光は、私共自身を照らし、又同時に、この世界を照らしていくものなのであります。
 山上先生は、こんなことも言われました。伝道するのが大切だと言われる。だったら何をするのか。いろんなことがあるでしょう。しかし、その根っこに祈りがなければならない。大層な祈りでなくて良い。自分が生涯出会い、関わる人の中で、二人の、教会にきちんとつながる信仰者を与えて下さい。二人で良い。もちろん、それが5人10人となれば、もっと良いでしょうけれど、たった二人でも良い。子でも孫でも、友人でも、誰でも良い。そうすれば、自分が生涯を閉じる時に二倍になる。それさえも祈れず、神様が必ずして下さると信じることが出来ないならば、日本の教会は無くなる。それさえも信じられず、祈れない教会なら、無くなって当たり前なのです。すでに、光を消しているからです。
 私共は天地創造から終末に至る、壮大な神様の救いの御業の中に生かされているのです。地上のことしか見えなければ、光はありません。しかし、私共の上には天がある。いつでも、どこに生きていても天がある。病室で寝ている人の上にも天がある。それは神様が、主イエスがおられる所です。そしてそこから、そこからだけ、私共の光はやって来るのです。澄んだ目をもって、天をあおぎつつ、この一週間も歩ませていただきたいと心より願うものです。

[2006年9月24日]

メッセージ へもどる。