今朝は、北陸連合長老会の交換講壇です。能登圏の信徒修養会や役員研修会でお目にかかった方も多いのですが、主の日の礼拝で七尾教会の講壇に立つのは初めてのことです。今回は、北陸連合長老会の交換講壇においては初めての試みとして、「ハイデルベルク信仰問答」による説教という課題を与えられました。私共北陸連合長老会は、教団の中にあって、改革派・長老派の教会の伝統に立って伝道・教会形成をしていこうとしている群です。この改革派・長老派の教会というのは、信仰告白における一致というものを何より大切にしている群なのです。そして、この「ハイデルベルク信仰問答」というものは、1563年に作られて以来、世界の改革派・長老派の教会において広く用いられてきた代表的な信仰告白の一つなのです。当然、私共もこの信仰告白を大切な信仰の遺産として受け継いでいます。その意味で、北陸連合長老会が交換講壇においてこれを用いるということは、私共の群はいったいどのような信仰的伝統の上に立っているのか、何において一つとされているのか、そのことを確認することであり、とても意味のあることなのだと思います。
釜土先生にお伺いした所、七尾教会ではすでに何年か前に、この信仰問答に基づいた説教を行ったということですが、それはとても大切なことをなされたと思います。日本の教会においては、自分の教会は長老派だと言っていても、それがどういう信仰を保持しているのかということについて、あまり意識していない、そういう教会も少なくないからであります。私は、この「ハイデルベルク信仰問答」について、少し苦い経験があります。神学校を出たばかりの、伝道者として歩み始めたばかりの頃、「ハイデルベルク信仰問答」を用いて、少しずつ学びをしていきましょうと長老会に提案した時のことです。ある長老がきっぱりと「そんな外国のよく判らんものはいらん。」と言われたのです。私は少なからぬショックを受けました。「この教会は長老派の教会ではなかったのか。」という思いです。しかし、この長老を責める思いはありませんでした。私自身、長老派の教会で育ちながら、神学校に入るまで、「ハイデルベルク信仰問答」を手にとって学んだ記憶は全くなかったからです。しかし、この出来事は、私のその後の教会形成の方向性を決める、決定的な出来事でした。長老派と言っているだけではダメなので、その中身をはっきりさせる、このことが大切なのだと思わされたのでした。この長老はそれから数年後、地区の役員研修会で発題をされた時に、この「ハイデルベルク信仰問答」と聖書からの引用だけで30分の発題をする程になりました。私はとても嬉しく思いました。
さて、この「ハイデルベルク信仰問答」において最も有名な個所は、今、お読みいたしました問一と答えの所です。ここは、皆さんの中でも覚えている人も多いと思います。覚えてはいなくても、読んでいる言葉を聞くと、「ああ、知ってる。」、そう思われる方が多いのではないかと思います。しかし、その覚えている、知っているというのは、問一の「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」の部分、それと答えの最初のところ「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」という所に集中しているのではないでしょうか。その後の部分についてはあまり印象がない、そういう人が少なくないのではないでしょうか。実際、牧師が説教などでこの信仰問答に触れたり、引用する場合は、圧倒的にこの部分だけに触れることが多いのです。引用する場合、この答えの全てを引用すると長くなるという事情もあると思いますし、この所が最も大切な所であるということは、その通りなのです。しかし、今日は、その部分について恵みを味わう前に、この問一の答えの部分の構造について確認しておきたいと思います。
皆さんの手許にある吉田隆訳のものは、この構造をはっきりと意識した訳になっています。それは、答えが四つの段落のように分けられておりまして、その最初に私共がイエス・キリストのものであるということが言われ、その後に、イエス・キリストのものであるということはどういうことなのかということで、「キリストの血による償い」、「父なる神の守り」、「聖霊による保証」と続いているのです。つまり、私共のただ一つの慰めは、私共が主イエス・キリストのものであるということなのでありますが、それは父・子・聖霊なる三位一体の神様の救いの御業であるということを告げているのであります。この問一と答えは、「ハイデルベルク信仰問答」全体のまとめのような所でして、これについて詳しく学ぼうとすれば、この信仰問答全体について学ばねばならない、そういう所です。残念ながら、今日もその一つ一つの言葉に思いを巡らせる時間はありません。しかし、その構造ははっきりしているのであって、この信仰告白は三位一体の神様の救いの御業を語ることにあるのであります。
この問一とその答えの所に、実に私共が受け継いできた信仰のスタイルというものが、とても良く表れているのです。それは、三つあります。第一に、私共の信仰・教理というものは観念的・抽象的なものではなく、私共が生きるにも死ぬにも慰めを与える、現実的力がある、利益をもたらすものであるということです。頭の中だけで考えて、神とはこういうものでなければならない、そんなことに興味はないのです。教理の学びというと、抽象的で面倒な理屈をこねることだと考えている人がいるとすれば、それは間違いです。少なくとも、私共の信仰の伝統においてはそうではないのです。私共の信仰の伝統においては、教理とは、神学とは、私共が救いに与り続ける為の、聖書が示す筋道のことなのであります。第二に、私共の信仰・教理はキリスト中心であるということであります。キリストの十字架と復活の業がなければ、私共の救いというものは成立しません。そして、イエス・キリスト抜きに、神様や聖霊を考えることもしないのです。第三に、これは第二のことと重なりますが、私共の信仰・教理はどこまでも三位一体の神によるということであります。
これは当たり前のことでしょう。今、三つのことを申し上げましたが、それを聞いて「初めて聴いた。驚いた。」そんな人は居ないでしょう。しかし、この当たり前の所に立ち続けるということは、決して簡単なことではないのです。それは、私共の信仰の歩みには様々な誘惑が必ずあるからです。残念なことですが、私共は信仰を与えられ、洗礼を受けたにも関わらず、教会から離れてしまっているという人が少なくないことを知っています。それは、この当たり前の所に立ち続けることが決して易しいことではないことを、私共に示しているのでしょう。
問一は、「あなたのただ一つの慰めは何ですか。」と問います。「ただ一つの慰め」です。しかもそれは、私共が生きている時も死ぬ時にも、慰めとなるものなのです。この「慰め」というのは、いわゆる「気休め」というようなものではありません。もっと強い言葉なのです。私共を力づけ、元気にし、励ますことが出来るものです。もっと言えば、これがあれば生きていける、これさえあれば大丈夫だと言えるものです。日本的常識で言いますと、これは、自分の家族であったり、仕事であったり、生きがいと言えるようなものを考えるかもしれません。それはそれで大変判りやすい話しです。しかし、残念ながら、それは「ただ一つの慰め」ではない、「ただ一つの慰め」にはならないと言っているのです。何故か。それは、「死」というものに対抗出来ないからであります。私共は皆、やがて死ぬのであります。そして又、愛する者の死に立ち会わねばならないのであります。この信仰問答は、はっきりそのことを意識しています。この信仰問答が作られた時代、それはどのような信仰を持つかということで、自分の命が危険にさらされる時代でした。多くの信仰の友が戦いの中で命を落とし、住む家を失うという時代でした。生まれた子どもも、三人に一人、あるいは五人に一人しか無事に大人になることが出来なかった時代でした。そのような状況の中で、なお自分達を慰め、力づけ、励ますことが出来るものとは何なのか。それは、私が、そして私の愛する者が、十字架にかかりそして三日後に復活された主イエス・キリストのものであるということだ。私には死に対抗する力はない。死は私の上に有無を言わさぬ力をもって覆いかぶさってくる。これから逃れようがない。しかし、主イエスは違う。主イエスは復活された。そして、主イエスは、死を打ち破られたその復活の力をもって、私を囲み、私を御自身のものとして、復活の命に与らせて下さる。これこそ、このことだけが力ある、唯一の慰めなのだと告げているのであります。
確かに、現代という時代は、私共にこの信仰告白が作られた時代のように、死というものを日常的に意識することなく生きることが出来る時代です。死を病院という白い建物の中に閉じこめ、見ることさえしようとしない時代と言っても良いかもしれません。しかし、それは私共が「死」を見ないことにしているのであって、死がその牙を失った訳でも何でもないのです。私は牧師をしていて、いつもこの死と向き合って生きています。昨日も夜の10時過ぎに電話がかかってきました。その瞬間に、誰が亡くなったのかとドキッとするのです。死と直面している教会員と共に生きているのです。死は、いつも圧倒的力をもって私共を襲ってきます。死を前にして、私共はまことに無力なのです。気休めの言葉など、何の力もありません。大切な家族という存在さえ、「自分が死んだらこの子はどうなるのだ」という、心残りにはなっても、本当に力づけることは出来ないのです。
この問一は、実に私共が、そのような慰めを必要としている存在であるということを示しているのでしょう。私は、死を前にした人に対して、何度も病床の聖餐を行ってきました。多くは病院の一室でした。病床洗礼も行いました。そこで聖餐と共に告げる言葉は「あなたは、キリストのものだ。」ということでありました。生きている時も、死ぬ時も、死んでからも、あなたはキリストのものであり、キリストと共にあり、キリストの御手の中にある。それ故、復活の命が、死を打ち破り、あなたを包む。それが、私共に与えられている救いの現実なのであります。
良いですか皆さん。キリスト者であるということは、何かキリスト者らしい生き方をするというようなことではないのです。もちろん、生き方も大切です。この問一の答えの最後の段落には、聖霊の御業として、「今から後この方のために生きることを心から喜びまたそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。」とあります。又、今朝与えられている御言葉、ペトロの手紙一1章17節には「また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、『父』と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。」とあります。しかし、それは「キリストのものとされている」、「キリストの尊い血によって贖われた」、その恵みの故に与えられる生き方です。この歩みは、自分の力や熱心によって為せることではないのです。信仰は、私共の救いは、私共の熱心や生き方ではなく、徹底的に、神様の一方的な恵みによって、キリストの十字架によって、キリストのものとされている。この恵みの事実の上にあるのです。これは、私共の熱心によって、あったりなかったりすることが出来るものではないのです。私共が神様を信じた。だから、主イエスは十字架にお架かりになられたのではないのです。私共が信仰を持つ前に、神様は主イエス・キリストを世に送り、贖いの業を完成して下さったのです。ですから、ペトロの手紙一1章21節「従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。」と告げられている通りです。
そもそも、「贖う」とは、どういう意味なのでしょうか。それは買い取られるということなのです。ここに一人の奴隷がいたとします。値段は100万円だったとします。この奴隷の主人に100万円を支払って、その主人から解放し、自分のものとする。それが贖うということなのです。私共は罪の奴隷でした。罪の値は死です。そして、悪魔の奴隷でした。神様に従うことを知らず、おのが腹を神としていたのです。そのような私共の為に、御子イエス・キリストは自らの十字架の血の値をもって私共を買い取り、御自身のものとして下さったのであります。それ故に、私共は主イエス・キリストの父であられる天地の造り主なる神様に向かって、「アバ、父よ。」と呼び、祈ることが出来るようにしていただいたのであります。まことに、ありがたいことであります。この天地を造られた全能の神が、私共の父であられるならば、何が私共の敵となり得るのでしょうか。実に、髪の毛一本さえも、御心によらなければ落ちることはないのであります。そして、この天の父なる神が私共の父であるならば、私共のこの地上の生涯は、実にこの天の父なる神様の御許へと歩む、その旅路であるということになるでしょう。そして、その旅を導いて下さるのが聖霊なる神様なのです。この聖霊なる神様の導きの中で、私共はこの地上での歩みを、御心にかなう、それは神様の為に生きる、神様の救いの御業、愛の業にお仕えする、心から喜んでお仕えするという歩みへと導かれていくのであります。それは更に具体的に言えば、「」喜んで」十戒に従っていくということになるのであります。ここで大切なのは、「心から喜んで」ということです。私共は、イヤイヤながら、仕方なく神様に従うのではありません。心から喜んで主にお仕えするのです。伝道もそうでしょう。愛の業もそうでしょう。イヤイヤするのではないのです。キリストのものとされた私共は、そうしないではいられないのです。聖霊なる神様が私共の中に宿られるからです。今日、皆さんがこの礼拝に集われたのは「嫌々ですか?」、それとも「心から喜んでですか?」。みんな喜んでここに集ってきたのでしょう。とすれば、私共は皆、既に聖霊なる神様の導きの中で生かされているということなのであります。
詩編の詩人は歌いました。40編3〜5節「滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ、わたしの足を岩の上に立たせ、しっかりと歩ませ、わたしの口に新しい歌を、わたしたちの神への賛美を授けてくださった。人はこぞって主を仰ぎ見、主を畏れ敬い、主に依り頼む。いかに幸いなことか、主に信頼をおく人。」ここに、キリストのものとされた者の姿があります。私共は、罪の泥沼から引き上げられたのです。私共の足は、確かな救いの道に置かれたのです。ですから、私共はただ主をほめたたえ、感謝をもって、キリストのものとされた恵みの中を歩むのです。主に信頼しつつ歩むのです。この一週間も、神の御国に向かって歩ませていただきたいと、心から願うものであります。
資料 『ハイデルベルク信仰問答』 吉田隆訳
問一 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
答
わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方はご自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。そしてまた、ご自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜びまたそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。
[2006年9月10日夕礼拝]
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