富山鹿島町教会

礼拝説教

「聖霊、それとも悪霊」
出エジプト記 7章8〜13節
ルカによる福音書 11章14〜26節

小堀 康彦牧師

 私共は使徒信条において「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と告白し、ニカイア信条ではもう少し丁寧に「わたしたちは唯一の神、全能の父、天と地と、見えるものと見えないものすべての造り主を信じます。」と告白しております。ここで、「天地の造り主」、あるいは「天と地と、見えるものと見えないものすべての造り主」と告白しておりますことは、私共の神様は、人間がその知恵や能力で捉えることが出来るものも出来ないものも全てをお造りになった、そして私共はその方を信頼しているということであります。この「見えるものと見えないものすべて」という言葉が指しておりますことは、「見えるもの」というのは私共が確認出来るもののことです。文字通り「見える物」のことですが、それには遠い星も、小さなウィルスも、そして何より私共自身を含んでいます。問題は「見えないもの」です。これは空気とか、重力とか、電気とかのことではないのです。確かにそれらは目には見えませんけれど、そういうものがあるということは、私共は様々な計測器を使えば判るわけです。ですから、これらは「見えるもの」に入ると考えても良いのです。この「見えないもの」というのは、実は霊の世界のこと、例えば天使とか悪魔や悪霊といったものを指しているのです。聖書の示す世界においては、この「見えないもの」というのは、あるとかないとかの議論の対象ではありません。あるに決まっているのです。それは見えないけれども、あるに決まっている。そういうものなのです。
 現代の私共日本人にとって、この「見えないもの」の世界というのは、どうもウサン臭い。そんな感じでしょう。確かに、テレビなどに出て来る霊能力者という人々が言うことは困ったものです。私はこの手の番組が大嫌いで、我が家でこのような番組を見ることは決してありません。「あなたには、悪い霊が憑いている。」などという言葉を聞くと、「悪霊に憑かれているのは、あなたでしょう。」とテレビに向かって言いたくなる。占いの霊というのは、実に悪霊の一種なのです。この「見えないもの」の世界がウサン臭いのは、見えないから何を言われても確認しようがない、それだけが理由ではないと思います。私は本当の理由は、「見えないもの」の世界の秩序が明らかにされていないからだと思っているのです。「見えないもの」の世界にも秩序があるのです。それは、「見えないもの」も神様が造ったものであるという秩序です。天地の造り主に対抗したり、これに敵対し得る力あるものは何一つないという秩序です。更に言えば、天地の造り主の霊、主イエス・キリストの霊である聖霊は、「見えないもの」の王であるということです。私共は聖霊を信じます。聖霊なる神様を信頼し、この方の守りの中にあることを信じています。これが「見えないもの」について考える場合の秩序であり、大前提なのです。この秩序が判りませんと、悪霊と聖霊の区別は出来ません。この区別が無い所では、「見えないもの」の世界はまことに怪しい世界となってしまうのであります。
 もう少し、聖霊と悪霊の区別について話しましょう。先程、出エジプト記を読みました。モーセとアロンがやることと、エジプトの魔術師が行ったことは同じなのです。つまり、現象だけを見たのでは聖霊と悪霊の区別が付かないのです。だから、主イエスが「口を利けなくする悪霊」を追い出しても、悪霊の頭ベルゼブルの仕業にされてしまったのでしょう。私は、悪霊は病気を治すことさえすると思います。自分の虜にする為です。だから、この区別が大切なのです。聖霊は神の霊、キリストの霊であります。そしてこの聖霊は、神様をほめたたえ、キリストに栄光を帰する霊なのです。一方、悪霊は自らの栄光を求めます。自分の栄光、自分の利益、それを求める霊です。ですから、聖霊を注がれた者は神さまを誉め讃え、キリストに栄光を帰するのです。しかし、悪霊に憑かれた者は、自分の栄光・自分の利益ばかりを求める者となるのです。聖霊は私共を謙遜にさせ、悪霊は私共を傲慢にさせます。聖霊が与える実は、信仰、希望、愛、平和等々です。一方、悪霊の実は、不信仰、絶望、不安、争いです。聖霊が与えるのは自由であり、悪霊は私達を縛りつけます。聖霊は命を与え、悪霊は死と滅びを愛します。このような対比は、いくらでも出来ます。長い教会の伝統の中には、天使論、悪魔論というものがあるのでする。現代では、あまりこれをする人はいませんし、神学校でも教えたりしません。それは、私共が聖霊よりも悪霊に興味を持ってしまう者だからなのです。そして、それはあまりに危険であり、良き実りを与えないからです。先週の礼拝で見たように、聖書が私共に教え、主イエスが私共に勧めているのは、悪霊や悪魔に興味を持ち、近づくことではなく、聖霊を祈り求めなさいということです。「求めよ、そうすれば与えられる。」と主イエスによって勧められ、約束されているのは、聖霊です。聖霊を求めよと主イエスは私共に勧め、この祈り・願いは必ず叶えられると約束した下さったのです。このことを私共は良く心にとめておかなければなりません。

 さて、今日与えられております御言葉において、14節「イエスは悪霊を追い出しておられたが、それは口を利けなくする悪霊であった。悪霊が出て行くと、口の利けない人がものを言い始めたので、群衆は驚嘆した。」と記されています。「口を利けなくする悪霊」を主イエスは追い出されていた。これを、文字通り「口が利けない人」が「口を利けるようにされた」と見ることが出来るでしょう。しかし、これは単にそのような出来事が起きたというだけではないのです。「口を利けなくする悪霊」と主イエスはここで戦い、これに勝利してこれを追い出したということなのです。
 「口を利けなくする悪霊」というものは、私共にも関係があります。逆に言えば、私共は、いつも自由に口を利いているかということなのです。最近、学校に行けない子が増えています。背後には「イジメ」があることが多いと言われています。学校に行けなくなった子は、学校ではまさに自由に口を利くことが出来なくなってしまったのではないでしょうか。又、家庭においても、ドメスティック・バイオレンス、DVと言われたりしますが、直訳すると「家庭内暴力」ですが、これが大変増えています。この被害に遭った人は、自分に暴力を振るった人の前では、全く自由に口が利けなくなるということが起きるのです。私は、これも「口を利けなくする悪霊」の仕業だと思います。多分、イジメを行った子も、 DVを行った人も、自分はそんな大したことをしたとは思っていないケースがほとんどだと思います。あんな大したことのないことで、どうして相手が不登校になったり、家庭において不安で怯えるようになってしまったのか、全く判らない。自分の責任にされるのは、迷惑な話だとさえ思っているかもしれない。このことは、私共は知らず知らずのうちに悪霊の影響を受け、支配されてしまうということをはっきり示しているのではないでしょうか。これは判りやすい例です。しかし、悪霊は様々な手を使って、私共を脅かします。神様よりも、社会的地位や経済的豊かさを求めること。世間体が、人の目が、神様の目より大切となる。これもまた悪霊の働きなのでしょう。
 主イエスが、悪霊を追い出していると、「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」と言う人が出て来ました。あんなに見事に悪霊を追い出しているからには、悪霊より強い力を持つ者、それは悪霊の頭、親玉である、ベルゼブルによるに違いないと考える人がいたというのです。この人は悪霊より強い力を持つ者、それを聖霊とは考えなかったのです。何故かと言えば、主イエスが行っている業を聖霊によると考えたならば、主イエスは少なくとも神様の使いと考えなければなりません。そうすれば、主イエスに対して敬意を払わなければなりませんし、主イエスの語ることに耳を傾けなければならないことになる。この人は、それをしたくなかったのです。だから、ベルゼブルの仲間にしたかったのでしょう。これに対して主イエスは、悪霊の世界にも秩序があるのだ。内輪もめをしていては、悪霊の世界の秩序が成り立たない。そう言って反論されました。そして、20節「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」と言われたのです。これは、実に素晴らしい宣言でありました。「神の国」は、死んで行く所ではありません。主イエス・キリストによって、神様の業がなされている所には、すでに来ていると言うのです。
 私共は悪霊の支配から救い出され、聖霊の支配の中に生きる者とされました。誰も聖霊によらなければ、「イエスは主である」と告白することは出来ないからです。私共が「主の祈り」を唱え、使徒信条を告白するならば、私共はすでに聖霊の御業の中にあるのです。とするならば、神の国はすでに私共のところに来ているのです。そして、悪霊は私共に指一本触れることは出来ないはずなのです。もちろん、私共はこの世から抜け出して生きることは出来ません。そうである以上、様々な悪霊の力や影響を受けることはあるでしょう。しかし、私共はそれに支配されているのではありません。私共はそれと戦い、その悪霊の支配から抜け出すことが出来るのです。もちろん、私共自身にそのような力があるわけではありません。悪霊は私共より力が強く、巧妙でありますから、知らず知らずのうちに私共をその手の内に入れてしまっているかのように見えることもあるでしょう。しかし、聖霊のご支配の中にあるならば、私共は大丈夫です。聖霊は、いかなる悪霊よりも強いからです。ですから、私共は聖霊によって守っていただき、助けていただき、私共に代わって戦っていただかなければならないのです。そして、私共はその聖霊を祈り求めなければならないのです。この祈りは必ず聞かれるのです。この聖霊が私共に注がれる時、私共の中に信仰が、希望が、愛が、平安が与えられるのです。

 主イエスは、24節以下で、悪霊が一度出ても、そのままになっていると、七つの悪霊と共に戻ってきて、もっと悪くなると言われました。これは、神様によって悪霊を追い出してもらっただけではダメで、もう決して悪霊が住まないように、聖霊なる神様が私共の中に宿っていただかなければならないということであります。教会には、何か問題があって来られる人がいます。始めは皆そうかもしれません。そして、とても熱心に神様を求めるのです。そういう中で洗礼まで行く人もいます。しかし、問題が解決しますと、もう神様を求めなくても良い。そんな風になってしまう人もいるのです。これではダメなのです。聖霊なる神様に住んでいただかなければならないのです。聖霊なる神様が住んで下さらなければ、悪霊が再び戻ってくるからです。
 では、聖霊なる神様が、私共の中に住んでいただくとは、どういうことなのでしょうか。「聖霊が私共の中に宿る」、このことを考えるときに、私は、先輩の牧師がいつも、「聖霊は御言葉と共に私共の中に宿る」と言われていたことを思い出すのです。聖霊が私共の中に宿るということは、私共が御言葉を受け入れ、御言葉を信じ、これに従っていこうと歩み続ける中で、聖霊は私共の中に宿り、私共の中に留まって下さるということなのです。御言葉も信仰も関係なく、自分の好きなことを好きなようにやっていて、神様の守りだの、聖霊なる神様が我が内におられるなどということはないのです。神様は、私共の都合の良い神ではないのです。私共が放っておいても私共の中に宿るのは、聖霊ではなく、悪霊なのです。この悪霊を追い出し、私共が神の国に生きる為には、御言葉を受け入れ、これを信じ、これに従うということがなければならないのです。そして、聖霊が私共に宿って下さるなら、私共に恐いものは何もないのであります。
 このことについて、主イエスの言葉で見るならば、23節「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。」とありますように、主イエスの御業に仕えるということです。悪霊を追い出してもらった者は、そのままでいることは出来ません。聖霊の宮となり、神様を誉め讃えつつ、神様の救いの御業、主イエスの御業に仕える者となるのです。自分の為に生きるのではなくて、神の為に生きる、主イエスの為に生きる者となるのです。このような歩みをなしていくならば、悪霊はもはや戻ってくることは出来ません。
 このことを、別の面から言うならば、聖餐に与り続けるということになると思います。洗礼は一度だけのことですが、聖餐は繰り返し与るものです。これは、神様との契約の更新なのです。聖餐は信仰によって与るものです。信仰がなければ、ただのパンとただのブドウ液に過ぎません。しかし、信仰をもって、聖餐に与るたびごとに、私共は主イエスと一つにされます。キリストの肉、キリストの血に与るたびに、主イエス・キリストご自身が聖霊として、私共の中に入り、宿って下さるのです。これが聖餐の秘義なのであります。
 いつの時代でも、どこででも、誰に対しても、悪霊は働きかけてきます。そして、私共が神様に似た者として造られた姿を台無しにしようとするのです。しかし、神様は、その全能の力をもって私共を守って下さいます。その為に神様は私共に聖霊なる神様を送って下さるのです。それは、主イエスの確かな約束です。私共は、それを信じて良いのです。

[2006年9月3日]

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