礼拝説教「求めよ、さらば与えられん」イザヤ書 55章1〜7節 ルカによる福音書 11章5〜13節 小堀 康彦牧師 主イエスは弟子達に「主の祈り」を教え、祈るということを教えられました。何を祈ればよいのか判らない弟子達の為に、そして私共の為に、このように祈りなさいと、「主の祈り」を与えて下さいました。その上で、更に主イエスは祈る時の心のあり様とでも言うべきものを弟子達に教えられた。それが、今日私共に与えられている御言葉です。ここで告げられていることは、「主の祈り」と内容的に深く結びついています。「主の祈り」を与えて下さったイエス様が教えているのですから、当たり前のことなのですが、私共が祈りというものについて思いを巡らす時には、いつも「主の祈り」に戻っていく、そういうことが大切なのだと思うのです。
さて、今朝与えられている御言葉が私共に示している第一のことは、安心して、神様を信頼して祈りなさいということです。私共は、祈る時に、どれほど祈りに期待して祈っているでしょうか。私共が主イエスを知らなかった時、大して期待している訳ではないけれど、祈ってそれが叶えられたならもうけものだ。そんな思いで祈っていたのではないかと思います。私は、自分が主イエスを知る前の祈りを思い起こすときには、いつも初詣のことを思うのです。毎年、何千万人という人が正月になると神社に祈る為に集まる訳です。私もその内の一人だったわけですが、その内どれだけの人が自分が祈る祈りに対して、本気で期待しているだろうかと思うのです。祈りに対して、本気で期待する。そこには、自分の祈りを聞いておられる方に対しての信頼がなければなりません。自分の祈りは聞かれている。このことに対しての信頼、安心、自信がなければ、祈りに対して本気で期待するということは起きないのであります。
神様は、私共に良いものを与えて下さいます。悪いものを与えられるのではありません。それを信じて良いのです。しかし、祈りが叶えられなかったという経験は誰にでもあるでしょう。それはどういうことなのか。これは以前にも申し上げたことがあるかと思いますが、私共の祈りが聞かれない場合が三つあります。一つは、私共が求めているものが良いものでなかった場合です。蛇やさそりを求めても、父は子にそれを与えることことはありません。魚や卵のように、その子にとって、必要な良いものなら必ず与えて下さいます。しかし、私共はしばしば、自分にとって良いもの、必要なものを知らない、思い違いしているということがあるのです。神様は全てをご存知ですから、その中で判断して下さいます。このことについては、後でまた触れましょう。二つ目は、時が満ちていない場合です。その祈りは叶えられるけれども、まだ神様の御心の中で時が満ちていない。そういう場合は、祈りが聞かれなかったように私共には思えることが多いのです。しかし、この場合には、長い時を経て、自分がこのことを祈ったことさえ忘れてから、叶えられるものなのです。三つ目は、神様がもっと良いものを用意されている場合です。こういう場合も、私共の祈りはそのまま叶えられることはありません。もっと良いものが備えられているからです。恋をした若者は、この恋が実るようにと、祈ります。しかし、それは、しばしばそうならない結果となります。それは、もっと良き出会いが備えられているからなのです。
さて、主イエスは弟子達に祈ることを教える為に、ここで一つのたとえ話をなさいました。旅行中の友達が自分の所に立ち寄ったが出すものがない。そこで友人の所にパンを三つ貸してもらいに行った。もう日は暮れ真夜中です。戸は閉まっていた。子供も寝ている。友人は、「起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。」と断る。そういう時にどうするのかということです。ここで「ああ、そうですか。」と言って帰ってしまえばそれまでです。パンを手に入れることは出来ません。しかし、執拗に頼めば、何度も何度もあきらめずに頼めば、友人は起きて必要なものを与えてくれるだろうというのです。友人でさえそうであるならば、神様ならなおのこと、与えて下さらないはずがない。そう、主イエスはこのたとえで教えているのです。
愛、それは聖霊の賜物です。聖霊なる神様が私共に宿り、そこで与えられるものであります。とするならば、聖霊こそが私共がなくてはならないものとして、良きものとして求めなければならないものなのでありましょう。先程、私は「私共はしばしば、自分にとって良いものというのを、思い違いしている。」と申しました。それは、このことなのです。私共は、しばしば、目に見える何かを求めます。それが自分にとって良いものだと思うからです。自分の願いが叶うことを求めるものなのです。この大学に受かりますように、良い就職が出来ますように。それは、自分のことではなくても、自分の子や孫の為の願いである場合もあります。もちろん、そうなったら、それはそれで良いでしょう。うれしいでしょう。しかし、私共がもっともっと願わなければならない大切なことがあるのです。それは、聖霊を求めることです。13節に「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」と言われています。私共は、自分の為に、家族の為に、そして「我ら」のために、聖霊を求めるのです。聖霊は、私共に良きもの全てを与えます。ガラテヤの信徒への手紙5章22節にはこうあります。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」もちろん、これにとどまりません。信仰も希望も、聖霊の賜物であります。神様の御心にかなう良きものは、全て聖霊によって与えられるものなのです。だから、私共は何よりも聖霊を求めなければならないのであります。聖霊は、私共の力で、自分の努力で手に入れることは出来ません。そして、自然に自分の中から生まれてくるものでもありません。ただ神様によって与えられるのです。そして、聖霊なる神様が私共の中に宿って下さるならば、私共は本当に他に何もいらないと言える程に満たされるのです。皆、様々な課題、心配事があります。そのような中で、聖霊なる神様が共にいて下さるならば、何も恐れるものはないのです。つらい、試みの時を過ごさねばならない時、聖霊なる神様が共にいて下さることが判るなら、そのことを確信することさえ出来るなら、大丈夫です。私共の体がおとろえ、死の影が近づいて来ても、天に備えられている、朽ちず、汚れず、しぼむことのない永遠の命という希望を確信することが出来るならば、私共は大丈夫なのです。私共にとって、いつまでも気がかりなのは、我が子のことでありましょう。自分のことはもういい、しかし、我が子のことは。それが親の思いでありましょう。その我が子の為に私共は何を願い求めるのか。それは聖霊なのです。聖霊なる神様が共にいて、一切の歩みを守って下さることであり、聖霊なる神様の導きの中で、正しい信仰を生涯保ってくれることなのではないでしょうか。人を愛し、人に愛され、神を愛し、神に愛され、神と人とに仕える者として生きて欲しいのです。そして、この願いは、聖霊なる神様が我が子と共にいて下さることによってしか、叶えられることはないのであります。 [2006年8月27日] |