富山鹿島町教会

礼拝説教

「我らを救い給え」
詩編 103編1〜22節
ルカによる福音書 11章1〜4節

小堀 康彦牧師

 「主の祈り」の6回目です。今日は最後の祈り、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え」について、御言葉を受けてまいりたいと思います。
 私共キリスト者は、キリストのものとされた者です。自分の人生の主人が最早自分自身ではなく、イエス・キリストであることを受け入れた者です。罪や悪魔の支配から、神様の御支配の中に生きる者となりました。生きる意味も目的も手段も変わりました。神様と共に、主イエスと共に、神の国に向かって、神の栄光の為に生きる者となりました。しかし、この歩みは全く危険のない、安全な道を行くような訳にはいきません。様々な危険が、私共の歩みの上にやってきます。そして、私共の神の国への歩みをはばみ、道から外れさせようとします。ですから、私共の信仰の歩みは、この私共の信仰を危うくするものと戦うということなしに、全うされることはないのです。
 私共の周りにある多くの宗教は、これを信じれば全てがうまくいきますと宣伝します。病気も治り、仕事も成功し、家庭もうまくいき、受験にも失敗することはないと言います。もし、そうならない場合は、信仰が足りないなどと言います。私は、キリストを信じれば、自分の抱えている多くの問題は解決されると信じています。しかし、何の問題もなくなりますとは、言いません。それは嘘になるからです。
 キリストを信じる者となった。すると、そこには今まで知らなかった新しい課題が生まれてくるものなのです。それは、私共が信仰を貫こうとする所で生まれてくる課題なのです。具体的に考えてみましょう。日曜日の朝、私共は教会の礼拝に集う為に目覚めます。ところが、この日曜日というのは、日本では休日です。私共は主の日、主日、あるいは聖なる日、聖日と考えますが、世間ではそうは考えません。休日です。ですから、色々なプログラムが日曜日に入ってくるのです。私共にとって、この日曜日の礼拝を守るということは、神の国への歩みを全うする為に、どうしてもなくてはならないものです。しかし、私共以外の人は、決してそうは考えていないのです。そこに、この日曜日の礼拝を守る為の戦いというものが、私共がキリスト者になったが故の課題として、新しく生じてくるのです。これは、まことに判りやすい例ですけれど、それ以外にも、キリスト者であるが故の課題、戦いというものがあるのです。神様の御心にかなう歩みをしようとすると、それは自分にとって経済的に不利益をもたらす、そういう場合もあるでしょう。
 何が大切なことなのか。そのことが神様と共に生きようとする時、はっきりしてくる。そうすると、大切なことを大切にする為に、戦わなければならないということが起きてくるということなのであります。何が大切なことなのかということがはっきりしない時には、そのような課題は存在しなかった訳です。自分が何をしたいか、したくないか。そういうことでしかなかった。しかし、神の国への歩みを始めたとたんに、神の国への歩みを全うする為の課題が生じてくるのであります。そして、それはしばしば私共にとって誘惑という形で迫ってくるのです。

 そのような私共の為に、主イエスは「主の祈り」を与えて下さったのであります。「主の祈り」の最後の祈り、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え」です。ここで私共は、自分が救い出されなければならない者であることを知らされるのです。何から救い出されなければならないのか。それは「悪」です。私共は悪しき思い、悪しき力、そのようなものにいつも囲まれているのです。多分、私共はキリスト者として歩み始める前は、この自分を取り巻いている「悪」というものにも、気付いていなかったのではないかと思います。
 ここで私共は、主イエスが荒れ野において40日間、悪魔から誘惑をお受けになった出来事を思い起こすのです。この「主の祈り」は、「悪より救い出し給え」と訳されておりますが、この「悪」を「悪魔」と理解する伝統もあります。私共を取り巻く悪は、悪魔と言った方が良い程に、人格的であり、私共の弱い所につけ込んでくる。そういう所があるのです。主イエスがお受けになった三つの誘惑は、私共が神の国への歩みをなしていく時にも、形を変えて迫ってくる様々な誘惑の原型と考えて良いだろうと思います。主イエスは救い主として、私共のために、私共に代わって誘惑をお受けになられたのです。そして、その全ての誘惑を退けられました。この全ての誘惑を退けられた方が、私共が誘惑に出会った時に私共を守り、支え、導いてくださるのです。

 ルカによる福音書4章を見ますと、主イエスは第一に、「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」との誘惑をお受けになりました。主イエスは40日間何も食べなかったのですから、まことに空腹を覚えられていたのです。空腹の時のこの誘惑は、強力なものであったろうと思います。この時の悪魔の誘惑は、「食べることを第一にしたらどうだ。」ということではなかったかと思います。現代風に言い直せば、経済最優先ということになるかと思います。主イエスは、これに対して、「人はパンだけで生きるものではない。」と答えられました。食べることや、経済の問題よりも、大切なことがある。神様の言葉に従って生きることだと答えられたのです。私共の信仰の歩みにおいて、神様を神様とすること、神様に従って生きるということ、これを第一にしなければならない。信仰を自分が生きる上での、何か付け足しのように考えてはならないのです。神様を第一にする、その順序を間違えてはならないのであります。食べること、経済の問題、お金の問題、これらは大切ですけれど、神様以上にそれが大切だということにしてはならないのです。そのようなことになると、それは大きな悪を生み出すのでありましょう。石油や資源や経済発展を求めて、争いが起こるようなことは、あってはならないのであります。

 主イエスが遭われた第二の誘惑は、「世界の国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。もし、わたしを拝むなら。」ということでした。権力、栄誉・地位というものは、私共には大きな誘惑になります。主イエスはこの誘惑に対しても、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ。」と答えて、この誘惑も退けられました。この誘惑は、国というものも又、悪となり得るということを示しているのだろうと思います。ここ数年の間に、日本の政治はずいぶんと右に舵を取っているように思います。先週、先の大戦のことを思い起こすテレビの番組がいくつも流れました。私は、国、国家というものは、本当に大切なものだと考えています。国という枠組がなければ、私共は毎日、安心して生活することは出来ません。国家が無く、自分の力だけで日々の生活の安全を確保しようとしたら、それは大変なことになってしまいます。まさに弱肉強食のような状態になってしまうでしょう。しかし、国家は決して神ではなく、私共は国家に仕えるのではなく、ただ神様にのみ仕えるのであります。国家が自ら神のごとき主張を始めるなら、それは巨大な悪となるのでありましょう。戦争はその例であります。そのようなことを考えるならば、マスコミも又、自らの報道こそが真実であり、それによって人々の考え方や心さえもコントロール出来ると思い始めるなら、これも又、巨大な悪となり得るのだと思います。人種・民族に対する偏見、それも大きな悪であります。私共はそのような悪に囲まれておりますから、ただ主に仕えていく自由の中で生きるというのは、決して楽なことではないのです。だから、祈らないではいられないのであります。
 私は「主の祈り」を学びなから、この祈りが「我ら」の祈りであることをいつも注目してきました。この祈りにおいてもそうなのです。試み・悪というものに、私共は個人的に関わるとは限らないのです。「我ら」が集団として悪に巻き込まれるということがあるのです。国や民族、あるいは全教会という単位で試みに遭うことがあるのです。この悪に対して私共の目が開かれていなければならないのです。

 第三の誘惑は、神殿の屋根の上に主イエスを立たせ、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。天使が守ってくれるだろう。」というものでした。主イエスは「あなたの神である主を試してはならない。」とお答えになり、この誘惑も退けられました。この誘惑は、私共の信仰を直撃するものです。この誘惑は、神様を疑い、神様を試そうとするものです。神様の守りがあるはずなのに、どうして自分はこんな目に遭わねばならないのか。病気や家族の不幸という事態を始め、人生の困難に出会った時、私共の中に芽生えてくる神様に対しての疑い。この誘惑は強力なものです。そして、この誘惑に遭うことなく、人生を全うする人は誰もいないでしょう。神様がいるなら、どうして戦争が無くならないのか、飢えがあるのか、不平等の苦しみが無くならないのか。これに答えるのは簡単ではありません。そして、この問いには自分の日々の苦しみということが背後にありますから、とても強いものなのです。この誘惑の中で、信仰が揺らぐ人も少なくありません。私にもそのような時がありました。信仰の歩みをなしていく中で、私共はこの誘惑と戦わなければなりません。そして、その戦いは祈りによってなされていくものなのです。私共には、誘惑に打ち勝つ力も、悪を退ける力も無いからです。自分の中にそのような力があるのならば、祈りによらなくても、私共はこの誘惑に勝利することが出来るかもしれません。しかし、私共にそのような力がないのです。ですから、この「主の祈り」において教えられているように、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え」と祈るしかないのです。そして、この試みに勝利した時、私共に証しが生まれるのです。私は、つらい、困難な時をくぐらなければならない信徒の方を思う時、いつもこの人の中に新しい証しが生まれる時だと思うのです。まことに神がおられ、その御手の中で生かされているということを、はっきり判らせていただく。そういう時なのだと思うのです。この試みの時を、祈りをもってくぐり抜けた人の信仰は、その前よりもより強く、確かなものとされるものなのであります。
 先週、北陸伝道会の中高生キャンプに行って来ました。最近は生徒が減って、スタッフと生徒の数が同じくらいになってしまいましたけれど、そこで夏期伝道実習に来ていた神学生の証しを聞くことが出来ました。24才のまだ若い女性の神学生ですけれど、こういう証しでした。彼女は高校生になる時にアメリカに行って、アメリカの高校を卒業しました。高校2年の時に洗礼を受け、高校を卒業すると同時にアメリカの神学校に進学することにしたそうです。しかし、自分の中には、必死に神を求めるということが弱いのではないかと思い、これでいいのかなとも思っていたそうです。そして、必死に神様を求めさせて下さい、そういう信仰を与えて下さい、と祈ったそうです。アメリカの大学は、高校時代の成績だけで、特に受験勉強というものはなく入れるそうで、彼女はその神学校に入るには十分な成績だったので、安心して、他の学校は全く受験しなかったのです。ところが、結果は不合格でした。彼女は、これからどうすれば良いのか判らず、それこそ、必死に祈ったそうです。どうして落ちたのですか。これから何をすれば良いのですか。あなたが献身するように私を導いたのではないですか。来る日も来る日も祈ったそうです。そして、ある日、気が付いたのです。自分は神様に必死になって求める信仰を求めていた。それが、こういう形で神様は聞いて下さったのだ。神様は、私の祈りを聞いて下さった。そのことが判ると、彼女はいよいよ、自分は献身者としての道を進むことが御心にかなうことなのだと、以前よりももっとはっきりと確信するようになったというのです。そして、不合格になった大学にかけあって、合格にしてもらったというのです。そこで4年間勉強して、日本に戻って、東京神学大学に昨年3年編入をしたということでした。

 神様は私共を様々な試練に遭わせられます。しかしそれは、私共にいじわるをしているのではありません。そのことを通して、いよいよ強く、はっきりと神様の愛と力とを知り、神様と共に歩む者として成長させて下さる為なのです。そして、私共が巨大な悪の力に負けることなく、神様から離れることなく、神様への疑いに飲み込まれることがないように、この「我らを試みに遭わせず、悪より救い出し給え」との祈りをするようにと、教えて下さったのです。誘惑は、私共が抵抗出来ない程に強いかもしれません。悪の力は私共の生活の全てを飲み込んでしまうかもしれません。悪魔は巧妙に私共をとらえて離さないかもしれません。しかし、神様の力は、主イエスは、私共の出会うどんな誘惑も、悪の力も、悪魔をも退けることが出来ます。主イエスが荒れ野の試みの時、悪魔の誘惑を退けられたのは、その確かな「しるし」です。ですから、私共はこの「主の祈り」に導かれ、一切の悪から、罪の誘惑から、悪魔の手から、私共を救って下さい、そう祈るのです。この祈りと共に歩んでいくのならば、私共は必ず神の国にたどり着くことが出来るのです。途中で迷子になったり、道を踏み外したように見えても、この祈りが私共の口にある限り、神様の御手が、私共を包み、守り、導き、支えて下さるのです。ペトロの手紙一5章8〜10節「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです。しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。」私共はこのことを信じ、この祈りを共にささげながら、神の国への道をこの一週も又、歩んでまいりたいと願うものであります。

[2006年8月20日]

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