富山鹿島町教会

夏期総員礼拝説教

「私たちの罪を赦して下さい」
エレミヤ書 31章31〜34節
ルカによる福音書 11章1〜4節

小堀 康彦牧師

 「主の祈り」の5回目の学びです。今日は「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え」という祈りについて見てまいります。この祈りは、しばしば「主の祈り」の中で最も祈りにくい、祈りづらい祈りであると言われます。それは、「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」とあるように、私共が自分に罪を犯している者を赦す、赦さねばならない。それが自分の罪の赦しを祈る為の条件であるかのように受け取ることから起きる誤解ではないかと、私は思います。実は、この祈りについての誤解は翻訳の問題でもあるのです。聖書では、これをきちんと訳していますが、「私たちの罪を赦して下さい」が先にあるのです。英語でも、ドイツ語でも、まず「私たちの罪を赦して下さい」が先に来て、「私たちに罪を犯す人を私たちが赦すように」というのが後に来るのです。この順番は、とても大切なことを私共に示していると思います。今さら「主の祈り」の翻訳を変えることは出来ませんけれど、私共が「主の祈り」を祈る時には、このことを良くわきまえておかなければならないと思います。この祈りは、何よりもまず始めに、私共が自分達の罪の赦しを願い求める祈りなのです。

 私共は、自分の罪を赦していただかなければならない者である。このことが、この「主の祈り」において、私共が知らされる、自分の姿なのです。「自分は罪を赦してもらわねばならない者である」という自己認識は、この「主の祈り」によって与えられる、最も深い、人間の自己理解であると言って良いと思います。「悟り」という言葉はキリスト教には相応しくないのかもしれません。しかし、悟りという言葉を使っても良いとするならば、これは「キリスト教的悟り」と言っても良いものだと思います。私共は自分の罪というものに対して、まことに鈍感なのです。指摘されなければ判らない、教えてもらわなければ判らない、そういう者なのであります。これは、私共の日常においてもしばしば起きることでしょう。日本人の美徳としてでしょうか、私共はあまり「自分は傷ついた」とか、「自分はイヤだ」とか言いません。何も言わずにあいまいな笑顔で済ませてしまうことが多いと思います。言わなくても判るだろうと考えたり、そんなことを言って気まずくなるのも嫌だと思うからかもしれません。しかし、言わなくても判るだろうというのは、あまり期待通りにはいかないことが多いのではないかと思います。「言っても判らない、通じない」ことが多いのが、現代の日本の状況ではないかと思います。言わないので判らない、言っても判らない、いずれにしても判らないのです。知らずに相手を傷つける。そして、傷つけたことも判らない。それが私共です。罪というものには、相手が必ずあるのです。相手が人間であっても、それをちゃんと言ってもらわなければ判らないとすれば、相手が神様であれば、なおのこと私共が自然に自らの罪を自覚するということは、まず無いと言って良いと思います。
 皆さんが、最初に教会に来られた頃のことを考えてみたら判ることです。教会に来ると、罪とか罪の赦しとかばかり言われる。しかし、自分はそんなに赦してもらわなければならない程の罪人であるとは考えたこともなかった、だから判らない。聖書を読んでも、説教を聞いても判らない。そういうことだったのではないでしょうか。実に、キリスト教の信仰が判る、福音が判る、聖書が判る。これは、「自分の罪が判る」ということと重なっているのです。自分の罪が判らなければ、その罪が赦されるという福音も又、判らない。そういうことなのでありましょう。しかし、罪が判らないということは、罪がないということではないのです。自分の罪ということに対してまことに鈍感であるということなのです。
 私もそうでした。教会に来て、初めて自分が神様に造られた者であるということを聞きました。それまで、自分は自分で生きてきた。自分で考え、自分で決め、自分の人生を生きてきた。今でも思い出すのは、中学生、高校生の頃、よく母に「自分一人で大きくなったような顔をして」と言われました。この頃、この母の言葉を良く思い出します。「自分の子を持って知る親の恩」というものがあります。「親孝行したいと思う時に親は無し」とも言います。目に見える親に対してさえ、その恩を忘れる。それが私共です。これは忘恩という罪でしょう。まして、自分を造られた神様に対して感謝をすることがあったでしょうか。これが罪なのです。十戒の第一の戒は、「あなたはわたしのほか、何ものをも神としてはならない」ですが、私共は何と天地を造り、私共を造って下さった神様以外のものを神としてきたことでしょうか。これが罪でなくて何でしょうか。神様に造られた者として、神様の御心にかなう者として生きる。互いに愛し合い、互いに仕え合う。そのように生きることなど、少しも考えたこともなく生きてきた。これが罪なのです。神様に造られ、神様に愛されておりながら、それを知らず、それを認めず、自分の心のおもむくままに生きてきた。それが罪なのです。的はずれな生き方をしていたのです。私共は、過去に戻ることは出来ません。してきてしまったことは、取り返しがつかないのです。だから、赦していただくしかないのであります。
 しかも、それはただ昔のこと、過去のことというだけではないのです。もしそうであるのならば、私共は一度、昔の罪を赦していただけば、もうそれで大丈夫ということになるでしょう。しかし、私共は「主の祈り」においてこのように祈ることを教えられています。この「主の祈り」は、毎日の祈りです。ということは、この赦されなければならない私共の罪というものは、私共が一日生きれば、一日分の罪を犯してしまう者であるということを示しているのでありましょう。自分の罪を知り、神様に赦しを求め、洗礼を受けた。それからもう自分は罪を犯すことはなくなった。そんな人は一人もいないのです。この罪というものは、次から次へと、私共の中から湧き上がってくるのです。根こそぎ自分の罪を引き抜き、清くなる。そうはいかないのです。それが、原罪というものなのです。人と人の交わりの中で、それは露わになります。言ってはならないことを言ってしまい、してはならないことをしてしまい、相手を傷つけてしまう。しかも、そのことに対して、ほとんど気付きもしない。最も愛さなければならない人との関係において、そういうことが起きるのです。それが私共の日常でしょう。そのくせ、自分に対して傷つけた人のことを赦せず、腹が立って腹が立ってしょうがない。そういう私共でありますから、私共は日毎に神様に向かって、「私の罪を赦して下さい」と祈らなければならないのであります。

 この自らの罪というものは、神様の前に立たなければ、本当の所、判らないのです。神様が居ない所では、神様を知らない所では、人は自分と他人とを比べるという所にしか立てません。人と比べれば、人は皆罪人なのですから、あの人よりはましだ、特に自分だけが悪い訳ではない。自分がこう言ったのは、先に相手がこう言ったからだ。そんな所に落ち着くのです。私共はよく「私も悪かった。」と言います。「私が悪かった。」とは中々言わないのです。「私も悪かった。」というのは、私も悪いけれど「あなたも悪い。」という思いがあるからでしょう。そこには、真剣に自らの罪を認め、これを悔い、改めるということは起きないのです。罪は、決して自らの罪を認めないという性格があるのです。しかし、神様の前に出る時、私共は一切の言い訳が出来なくなります。ここにおいて、私共は自らの罪を認めざるを得なくなる。そして、「私の罪を赦して下さい」という祈りへと導かれるのであります。
 そして、この祈りをささげる者は、そこで主イエス・キリストと出会うことになります。主イエスが与えて下さったこの祈りは、ご自身のもとに私共を招く道を与えて下さったということでもあるのです。この祈りをささげる者は、自分の罪の赦しの為に、自分に代わって罪の裁きを受けられた、十字架上の主イエス・キリストを見上げることになります。そして、確実な、真実な、罪の赦しの宣言を受け取るのであります。例外はありません。自らの罪を認め、心からその赦しを求める者には、その罪が人の目から見て、どんなに大きく、深く、ひどいものであっても、必ず赦されるのです。このキリストの十字架による赦しを受け取った者は、新しくされます。神の子、神の僕としての新しい歩みへと、押し出されていくのです。この新しさの中でなされるのが、自らに罪を犯す者を赦すという営みなのであります。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく」というのは、「我らの罪を赦し給え」という祈りの条件ではないのです。そうではなくて、「我らの罪を赦し給え」と祈った者が、主イエス・キリストの十字架に出会い、罪を赦され、その罪を赦されるという恵みの中で新しくされた者として歩み出す、その一歩なのです。本当に罪を赦された者は、感謝の中で、赦す者として生きるしかなくなるのです。誰も十字架の主イエスを見上げながら、主イエスによる罪の赦しを受け取りながら、「しかし私は赦しません。」とは言えないでしょう。
 ここで私共は、十字架上の主イエスの言葉、「彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」を思い起こすことが出来るでしょう。主イエスは、自分を十字架につけた人々の為に、このように祈られたのです。この祈りは、私共にも向けられています。私共は罪を犯す時、それがどういうことなのか、よく判らないでいるのです。そして、それは私共に罪を犯し、私共を傷つける人に対しても言えることであります。彼らも自分で何をしているのか判らないのです。私共は、この「主の祈り」から、この十字架上の主イエスの祈り「彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです。」へと導かれていくのではないでしょうか。

 人は、なかなか自分を傷つけた人を赦すことが出来ません。何年も何十年もたっても、あの一言が心に残る。そういうことがあるのです。赦せない。これは、まことに不自由なものです。自分の中から湧き上がってくる怒り、憎しみが、自分をしばりつけるのです。しかし、この「主の祈り」は、この不自由さから、私共を解放するのです。憎しみという不自由さから私共を解放し、自由にし、平安を与えるのです。憎しみは憎しみを引き起こし、争いは報復という連鎖を生みます。この不幸の連鎖を断つことが出来るのは、「赦し」しかありません。「赦し」は情ではありません。意志です。自分の心の底から湧き上がってくる黒い力、それを押し返し、破壊する、「聖なる意志」です。それは罪の赦しを受け取ると共に私共に宿る、聖霊の力です。赦しは、この私共に宿り給う聖霊なる神の力によって、この聖霊なる神によって与えられる聖なる意志によって起こされるものなのです。悪しき力と聖なる力とが、この赦しをめぐって私共の中で戦うのです。この戦いは、五分五分の戦いではありません。この「主の祈り」に導かれていく限り、必ず「聖なる意志」が勝利するのです。それはキリストの十字架の勝利です。神様の救いの御業の勝利なのです。私共は、この神様の勝利を信じるのです。
 牧師が信徒の方から受ける相談あるいは愚痴は、この赦しに関するものが多いのです。状況は様々であり、課題も一人一人違います。しかし、その根本にあるのは、赦せないということが多いのです。赦せない時、私共はまことに平安でいることが出来ないのです。私は、話を聞きながら、この人が赦すことが出来るようにと祈るしかないのです。そして、私共が本当に赦すことが出来るためには、「私の罪を赦して下さい」と神様の前に真実に悔い改め、十字架の主イエスと出会うしかないのです。

 私は今まで、この祈りを「私の罪を赦して下さい」という形で話してきました。しかし、この祈りは「我らの罪を」です。罪は個人で犯すとは限らないのです。社会的連帯の中で犯される罪がある。すぐに思いつくのは戦争でしょう。今、中東では目をそむけたくなるような事態が起きています。戦線は拡大しています。この戦いの連鎖、憎しみの連鎖が断たれるよう祈る。その為には「赦し」しかないのです。その意味で、この「主の祈り」は、今、世界が最も求めている祈り、最も必要な、最も真剣に捧げられなければならない祈りであるとも言えるのです。
靖国の問題、歴史認識の問題が、次の首相が誰になるのかということをめぐって、毎日のように新聞に取り上げられています。ここでも、私はこの祈りが為されなければならないのだろうと思うのです。自らが罪赦されなければならない人間であり、国家であるということを忘れて、悔い改めることなく、赦し、赦されるということは起きないのではないか。そう思うのです。
 私共は、ただ今から聖餐に与ります。この聖餐は、私共がまことに罪赦されねばならない者であることを私共に示します。そして同時に、私共は一切の罪を赦された、主イエスの十字架によって赦されたということを受け取るのであります。それ故、この聖餐に与る者は、赦す者としてここから押し出されていくことになるのであります。今、共々に自らの罪を思い、赦しを求め、この聖餐に与りましょう。

[2006年8月6日]

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