富山鹿島町教会

礼拝説教

「御国が来ますように」
詩編 8編1〜10節
ルカによる福音書 11章1〜4節

小堀 康彦牧師

 「主の祈り」の学びの三回目になります。今日は、第二の祈り「御国を来たらせ給え」と第三の祈り「御心が天になるごとく地にもなさせ給え」について見てみましょう。第二の祈りと第三の祈りを一回で行うというのは、この二つの祈りが内容的には重なっている所が多いからであります。このことは、ルカによる福音書においては第三の祈りが欠けているという所からも判ると思います。第三の祈りは、マタイによる福音書の主の祈りにはあるのですが、ルカによる福音書の主の祈りにはないのです。それは、第二の祈りである「御国が来ますように」という祈りの中に、内容としては、第三の祈りである「御心が天になるごとく地にもなさせ給え」も含まれているからなのだろうと考えて良いと思います。御国とは、神の国のことです。神様の御支配ということです。天というのは、神様がおられる所ですから、これも同じと考えて良いと思います。つまり、この第二と第三の祈りは、この地上に神様の御支配がなされますように、御心のままに為されますようにという祈りなのです。
 第一の祈りである「御名が崇められますように」というのは、神様の為の祈りであることを先週見ましたが、この第二と第三の祈りも又、私共の家族や自分自身の健康とかを直接祈るものではありません。ここでも祈られることは、神様の御支配であり、神様の御心がなることなのです。いつになったら、自分の為に祈ることが出てくるのかと思われるかもしれません。しかし、この「主の祈り」において、私共は「祈るということ」を教えられているのです。この「主の祈り」を自分の祈りとしていく中で、私共は自分の祈りが変えられていくということが起きるはずなのです。主の祈りを教えられた私共は、神様の御支配を求め、神様の御心がなることを求める者となる。そういう中で、私共の祈りが変えられていくはずなのです。「家内安全、商売繁盛」という祈りをしないというのではないし、してはいけないということでもありません。これは私共が教えられなくても私共の中から自然に出てくる祈りでしょう。しかし、祈りというものはそういうものだけで良いのか、もっと大切な祈りがあるのではないか。主イエスは、そのことを「主の祈り」によって私共に教えて下さったのであります。

 もう少していねいに、この「主の祈り」の第二と第三の祈りについて見てみましょう。「御国が来ますように」という祈りは、御国がまだ来ていないからこのように祈らなければならないのでしょう。神の国がまだ来ていない。ここで私共は主イエスが福音を宣べ伝え始めた時の第一声、これはマルコによる福音書の第1章にあります、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」、この言葉を思い起こすと良いでしょう。この言葉は、マタイによる福音書4章17節では、「悔い改めよ。天の国は近づいた。」となっています。細かいことですが、マルコでは「神の国」で、マタイでは「天の国」です。マタイは「神」と言うべき所を、直接「神」と言うのは畏れ多いと考え、「天」と言い換えているのです。ですから、「神の国」も「天の国」も全く同じです。ということは、第三の祈りの「御心が天で行われるごとく」というのも、「御心が神の国で行われるごとく」と言っても良いということになるのです。第三の祈りも、この地上においては、神の国のように神様の御心が行われていないではないか。神の国がまだ来ていないではないか。だから、こう祈らざるを得ないということなのでしょう。しかし、神の国は全く来ていないのかと言えば、そうとも言えないのです。「神の国は近づいた。」と訳されている言葉は、ほんのそこまで来ている、あるいは、もう来ているけれど完全に来ているのではない、そういう感じの言葉なのです。時が満ち、主イエスが来られた。主イエスと共に新しい神の支配が始まったのです。しかし、それはまだ完成していない。そういうことなのです。
 ここで、神の国というものを考える時に、私共は「未だ」と「すでに」という二つの視点で理解しなければならないことを覚えておきましょう。「神の国は主イエスと共にすでに来た。」という面と、「神の国は未だ完全には来てはいない、完成してはいない。」という面です。もし、全く神の国が来ていないのなら、私共は神の国を知りようがないのです。知らなければ、神の国が来るように、御心が天に行われるように、とは祈ることは出来ないはずなのです。しかし、主イエスが私共にそのように祈りなさいと言われたのは、私共が完全にではないけれど、すでに神の国が来始めているが故に、私共は神の国をおぼろげにでも知っており、御心を完全に出はないけれども既に知らされている。だから、このように祈れるはずだということなのではないかと思うのです。
 私共が神様に向かって、「父よ」と呼ぶことが出来、まさに親しい交わりを与えられている。ここに神の国はすでに来ているのであります。私共は天国に行ったことはありませんけれど、主イエスを信じ、父なる神様との親しい交わりの中に生かされる中で、すでに天国を垣間見ているのであります。神の国に生き始めているのであります。主イエスの言葉を聞き、主イエスの歩みを知らされ、神様の御心がどのようなものであるのか、完全にではないにせよ、知らされているのであります。だから、この地上の社会が神様の御心にかなってはいないことを知っているのであります。どんなに、地上の楽園と言われる所があっても、そこがまことの神の国ではないことを知っているのであります。国と国とが争い、人種による差別があり、貧富の差があり、支配する者と支配される者がいる。そういう社会が、神様の御心にかなわないこと、神の国ではないということを知っているのであります。そのような現実の中を生きる私共の為に与えられたのが、この「主の祈り」なのです。御心にかなっていない。そういう現実を知り、その中で生きる時、これは仕方がないこと、現実とはそういうもんだとあきらめるのではなく、祈ることを主イエスは教えてくれたのです。

 そして、この祈りは、私共に希望を与えます。この御心にかなわない社会の現実が、未来永劫続くものではないということに気付かせられるからです。御心にかなっていないのですから、それはやがて終わる時が来るのです。私共は、この祈りの中で「絶望しない者」「あきらめない者」へと変えられていくのです。そしてこの希望の中で、私共は耐え忍ぶことを学ぶのであります。やがて神の国が来る、やがて御心が完全に行われる日が来る。そのことを信じ、今日という日を生きる者となるのであります。そしてこの希望は、死の悲しみをも超えさせていく力となるのです。何故なら、神の国には死はないからです。永遠の命を私共は与えられるからです。この神の国の希望は、愛する者の死という、私共がこの地上の歩みにおいて最も悲しい現実をも乗り超えさせていくのであります。神の国の希望。それは終末的希望であります。神の国が完全に来るのは、神の国が完成するのは、主イエスが再び来られる終末においてだからです。この終末を待ち望む信仰が、この「主の祈り」において養われていくのであります。
 キリスト者となるということ、キリスト者であり続けるということは、「主の祈り」を自分の祈りとして祈り、この祈りと共に生きていくことだと何度も申し上げてきました。この「主の祈り」には、私共を造り変えていく力があるのです。「主の祈り」に導かれていく時、私共の祈りは変わっていきます。そして、祈りが変わるということは、自分自身が変わっていっているということなのです。私共は、自分で努力して変わろうとしても、なかなか変われません。生まれ持った性格、何十年という人生で造られてきた自分というものは、なかなか変わらないのです。しかし、「主の祈り」はそのような頑な私共自身を根本から造り変えていくのです。そういう力がある。私共は、この祈りの力を信じて良いのです。「主の祈り」に導かれて、まことの祈りへと歩み出して行く中で、自分が変えられていく、そのことを信じて良いのであります。

 さて、この「御国が来ますように」「御心が天になるごとく地にもなりますように」と祈る者は、ただ希望が与えられるだけではありません。御国が来るように、御心が行われるように、その為に自分自身が生きるようになるのであります。もちろん、私共が努力して、その結果として神の国が来る訳ではありません。神の国がいつ完成するのか、終末がいつ来るのか、それは誰にも判りません。ただ、父なる神様だけが知っていることであります。しかし、私共はただ何もすることなく、ぼーっとして、神の国が来るのを待っている訳ではありません。この世界が少しでも御心にかなう世界となるように、出来るだけのことを為していくのであります。「待ちつつ、しかし、急ぎつつ」です。この神の国を知らされ、そこに憧れ、そこに向かって歩む者は、この地上の世界がどうでも良いとは決して考えないのです。何故なら、神の国は他でもない、私共が生きているこの世界にやって来るからであります。御心が天になるごとく地にもなるようにと祈りつつ、この地上のことはどうでも良い、そんな風には生きられないのであります。ここに、「主の祈り」の持つ、革命的力があります。ある人は、「主の祈り」の政治的力と言いました。この祈りを祈りながら、平和を求めない者はいません。差別をそのままにしておけば良いと言える者はいません。貧困を捨てておいて良いと言える者はいません。生きる権利が奪われた人を放っておくことは出来ません。それは、理想主義でもないし、ヒューマニズムでもありません。私共は自分の理想や思想の実現に生きようとしているのではないのです。大切なのは、御心です。神の国です。これこそが重大なことなのです。そして、それを求める者は神様の御心が打ち捨てられている現実を無視することは出来ないということなのです。信仰と政治は、決して無関係ではないのです。それはもちろん、キリスト者であるならばこの政党を支持するはずだなどというつまらないことではないのです。そうではなくて、祈りの中で御国を求め、御心を求める者は、そうなっていないこの世の現実を無視することは出来ないということなのであります。この世界には、様々な人と人とを隔て、対立させる垣根があります。国境であり、人種であり、好き嫌いの感情であり、イデオロギーであり、利害関係であり、数え上げればきりがありません。しかし、それらのものは皆、御心にかなわないこと、神の国においてはそのようなものは存在しないことを私共は知っています。エフェソの信徒への手紙2章14節においてパウロが言っているように、キリストが十字架において、「敵意という隔ての壁を取り壊し」たからです。このキリストの御業によって立てられる国こそ、神の国であり、このキリストの御業が前進していくことこそ、御心にかなうことだからです。
 独裁国家と言われる国においてキリスト教が自由に伝道出来ないのは、理由があるのです。キリスト教徒は、主の祈りを知り、これを祈り、この祈りに生きようとするからです。いかなる国家であれ、独裁者であれ、神様以外のものが神のように自分達の上にあることを、「主の祈り」を知る者は御心にかなわないことだと知っているからなのです。国家の権力さえも相対化してしまう自由の中に生きるからです。
 しかし、この祈りを知る者は、この世界を、御心にかなっていない、神の国はこのようなものではないと非難していれば良いということではないのです。そうではなくて、御心がなされていないこの世界の為に、御心がなされますようにと、神様に執り成しの祈りをささげるのであります。それが、御心がなされていないということを知っている者の務めなのです。そして又、先程の主イエスの宣教の第一声「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」との関係で考えるならば、神の国が近づいていることを知っている者は、何よりも自ら悔い改めるのであります。そして、この世界に対しても、悔い改め、福音を信じることを宣べ伝えていくのであります。

 「主の祈り」とは、まことに壮大な祈りです。天地創造から終末に至る、神様の御業と関わる祈りだからです。この祈りに導かれていく中で、私共は自分自身も、そしてこの世界も、壮大な神様の御手の業の中にあり、この時代は終末に至る1ページであることを知るのであります。この「主の祈り」は、実に御国に向かって歩む神の民の、その旅を続けていく上での祈りなのであります。この祈りに導かれ、神の民は自分の旅が、どこに向かっての旅であるのかを心に刻んでいくのであります。
 今日から始まる、新しい一週間の旅も、この祈りと共に、この祈りに導かれて歩んでまいりたいと願うものであります。

[2006年7月23日]

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