今朝与えられております御言葉は、「善きサマリア人のたとえ」と言われております主イエスのたとえ話です。この話は、ルカによる福音書の15章に記されております「放蕩息子のたとえ」と並んで、主イエスがお語りになったたとえ話の中で最も有名なものであります。話の粗筋は、一度聞いたら忘れることが出来ない程印象的で単純なものです。「ある人が追いはぎに襲われて半殺しにされてしまった。その人が置き去りにされた道を祭司が通るが、祭司はその人を見ると、その人を避けるようにして道の反対側を通って行ってしまう。次にレビ人も通るが、祭司と同じようにやはり通り過ぎてしまう。しかし、次のサマリア人はその人を憐れに思って介抱してやり、宿屋に連れて行き、宿屋の主人にデナリオン銀貨二枚を出して、『これでこの人を介抱して下さい。費用がもっとかかったら、帰りに払います。』と言って去った。」この三人の中で、誰がこの追いはぎに遭った人の隣人となったのかと、主イエスは問われました。言うまでもなく、その人を助けたサマリア人でしょう。主イエスは、「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言われました。
主イエスがお語りになられたことは、実に単純です。「あなたも、行って同じようにしなさい。」つまり、この善きサマリア人のように生きなさい、ということです。このたとえ話は、とても有名なものです。しかし、この話を語ることは、又、聞くことは、少しも簡単なことではありません。それは、この話を語る者は、自分がこの善きサマリア人のように生きているかという厳しい問いの前に立たされますし、この話を聞く者は、「そんなことを言われても」という山程の言い訳が心にわいてくるからです。この主イエスのたとえ話は、私共がどのように生きているのかということを厳しく問う、そのような厳しさがあります。それは、この話を聞いて、「良い話ですね」と言って聞き捨てることを許さない厳しさだと言って良いでしょう。この話を本気で聞けば、私共は変わらねばならない。いや変わることが出来る。それは、この話が、まさに福音の力、福音の喜び、福音の自由、福音の激しさに満ちているからなのです。
さて、この話はある律法の専門家が主イエスに対して、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と問うたことから始まりました。この人は律法の専門家ですから、この自分でした質問に対しての答えをすでに知っていたのです。最近注目されているイエスという男は、どの程度の者か試してやろうと思ったのでしょう。永遠の命こそ、聖書が告げる中心のテーマです。これに対して答えることが出来なければ、イエスという男は評判程のことはない。そういうことでしょう。主イエスは、この問いに対して、逆に「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と問われました。主イエスはここで、「律法には何と書いてあるか。」と問うただけではないのです。もし、これだけならば、「律法にはこう書いてある。」と答えるだけで良いのです。これは知識の問題です。知っているか、知っていないかの問題に過ぎません。しかし、主イエスは、それに加えて「あなたはそれをどう読んでいるか」と問われたのです。この問いは、単に知識を問うているのではなくて、その神の言葉である律法に対して、どのように関わっているのか、つまり、どう生きているのかを問われたのです。律法の専門家の答えは、こうでした。27節「彼は答えた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」これは、マルコによる福音書12章28節以下で主イエスが律法学者から「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」、つまり、旧約に記されている律法の中で第一のものは何かと問われた時に、主イエスがお答えになったものと全く同じです。ですから、この主イエスに永遠の命を問うた律法の専門家は、主イエスと同じ答えを知っていたのです。多分、この答えは主イエスが初めて言ったというよりも、当時のユダヤ教の中では良く知られていたものであったのではないかと思います。主イエスは、この答えに対して、こう答えます。28節「イエスは言われた。『正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。』」あなたは正しい答えを知っている。だったら、そのように生きたら良い。そう答えられたのです。実に単純なのです。神を愛し、隣り人を愛する。それが神様の御心にかなうことであることを知っている。だったら、そう生きたら良い。
皆さんは、主イエスのこのような答えに対して、どう思われるでしょうか。「ハイッ、判りました。そのように生きていきます。」そう答えられるでしょうか。そう答える人は幸いです。神の国は、その人と共にあるでしょう。しかし、この時、この律法の専門家は、「では、わたしの隣人とはだれですか。」と更に主イエスに問うたのです。聖書は、ここで注意深く、「彼は自分を正当化しようとして」と記しています。彼にとって、主なる神を愛することは問題ではありませんでした。自分は神様を愛していると思っていたからです。あるいは、もっと深く、彼はこの二つの戒の関係を知っていたのかもしれません。神を愛することと隣人を愛することは分けることが出来ない。そこまで判っていたのかもしれません。十戒の構造を見ますと、前半が神を愛すること、後半が人を愛することということになっていますから。律法の専門家なら、そのぐらいのことは知っていたのだと思います。そうすると、具体的な隣人を愛するということを全うしなければ、神を愛することを全うすることは出来ません。ですから、彼は隣人を愛するということについて問うたのでしょう。どこまでが私の隣人なのかと問うたのです。当時のユダヤ教では、この隣人とは、「ユダヤ人のこと」、あるいは「家族、親族のこと」、というような枠を設けていたのです。この枠が狭ければ狭い程、この律法を全うすることが出来るようになる。もし、主イエスがここで他の律法の学者と同じように、この隣人とはユダヤ人のこと、自分達の同胞のこと、あるいは、もっと狭く、家族、親族のことと言ってくれれば、彼は、「自分はそのようにしています。」と答えたのかもしれません。あるいは、ユダヤ人の同胞と主イエスが答えれば、それはどこまでの同胞か、家族、親族なら、何親等までのことかと更に問いを続けたのかもしれません。いずれにせよ、この人は「隣人」を限定して欲しかったのでしょう。そうでなければ、具体的に律法を全うすることが出来ないと考えていたに違いありません。律法主義というのは、このような発想、ものの考え方をするものなのです。法律の条文の解釈と同じです。
私共は、この律法の専門家と同じ発想をする訳ではありませんけれど、隣人について限定して欲しいという思いは同じではないでしょうか。隣人は具体的です。この人は自分の隣り人なのか、そうではないのか、それを知りたい。隣り人でないのなら、放っておいて良い。でも、その人が隣り人であるとするならば、自分のようにその人を愛さなければならなくなります。もし、隣人の枠が設けられないのなら、この戒めを全うするには自分の身がもたない。そう思うのではないでしょうか。
主イエスは、そこでこの「善きサマリア人のたとえ」を話されたのです。隣り人というのをここまでの人という風に限定することによって、神様の御心は全うされるのか。そうではないだろう。そうではなくて、隣り人を愛するというのは、誰が自分の隣人なのかということではなくて、自分が出会う人に対して自分自身が隣り人になろうとするかどうか、自分が隣り人になるかどうかということなのではないか。神様を愛しているなら、神様から愛を注がれ、愛を受け取っているはずなのであって、その神様から注がれている愛を、具体的に隣り人との関わりの中で注いでいく。そのように生きるしかないのではないか。そう主イエスはこのたとえで言われたのだと思うのです。
私共は、このたとえ話の中に出てくる、祭司やレビ人の気持ちが判ります。半殺しに会って道ばたに捨てられている人。こんな人に関わったら、後々大変だ。面倒なことになる。だから関わらないでおこう。そう思ったのでしょう。理由付け、言い訳はいくらでも出来たと思います。例えば、半殺しにあった人がもし死んでいたら。死人に触れれば汚れた者となり、しばらくの間神殿でのご用が出来なくなってしまう。もっと単純に、時間がなかった、急いでいた。そう言い訳することも出来るでしょう。しかし、善きサマリア人は、この人を放っておいたら、この人はどうなってしまうだろう、そちらに心を動かしたということなのではないでしょうか。実に、神を愛する者は、そのような心の動き方が変わるということなのでしょう。この人に関われば、こんな問題に関われば、面倒なことになる、後で大変だ。だから関わらないでおこう。これは、私共全ての者の中にある心の動きでしょう。しかし、主イエスはそのような心の動きの中で、まことに自分のことしか考えることが出来ないでいる私共、それは本当に不自由なものなのですが、その不自由さから私共を解き放って下さろうとしたのです。自分がどうなるかではなくて、目の前のこの人がどうなるか。そこに心を動かし、自分が出来るだけのことをする。それが神を愛することによって、自分のことしか考えられないという不自由さから解放された者の姿なのではないか。そう言われたのでありましょう。
この律法の専門家は、何が御心であるかを知っていました。しかし、そのように生きることが出来なかったのです。その理由は、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことが出来ますか。」という問いの中に、すでに現れています。「何をすれば?」と彼は問うたのです。何かをすれば、自分は永遠の命を受けることが出来ると思っていたのです。何故なら、自分は正しい律法の専門家だからです。彼は、自分が罪人であるなどとは、考えてもいなかったのです。彼は、神様の言葉を知識として知っていました。しかし、これに打たれ、自らの罪を知らされ、主に憐れみを請うことを知らなかったのです。神を愛し、隣り人を愛せと言われれば、自分にはそれが出来ると思っていたのです。正しい人、良い人である自分が、更に良き業を加えていって、天の高みに達することが出来ると思っていたのです。神を愛すること、それは愛されるはずもない私が愛されているという驚くべき神の愛に打たれ、驚愕し、「主よ感謝します。」という神賛美の中で、新しく生まれてくる関係なのです。この神の愛に打たれた者は、「自分のように隣り人を愛しなさい。」という神の言葉の前に、新しく与えられた神様からの使命に、喜びと感謝をもって従うしかないのであります。
私共が、この「善きサマリア人のたとえ」を聞く時、多くの場合、自分はこの半殺しの人を見過ごして行った祭司であり、レビ人だと思うのではないでしょうか。そして、これではダメだ。善きサマリア人のように生きなければならない。そう考えるのかもしれません。それも正しい読み方でしょう。しかし、そのようにだけこの話を読むならば、どうしても、「そうは言っても」という言い訳を自分の中から退けることは出来ないのではないでしょうか。この譬えを何度も聞く中で、キリスト者の中には「良きサマリア人コンプレックス」とでも言うべき思い、つまり「自分は駄目な人間だ。良きサマリヤ人のように生きなければいけない。」という思い、自分を責めて、不安にしてしまうような思い。このような「しこり」のような思いを持っている人は少なくないのではないでしょうか。しかし、主イエスがこのたとえ話をされたのは、この律法の専門家や私共の中にある、この言い訳を退ける為であったことを忘れてはならないのであります。
この善きサマリア人のたとえ話は、古代教会以来、このように読まれてきました。最近はそのように読むことは問題があると言われていますけれど、私はそれは捨てられないと思っています。それは、ここで半殺しの目に遭って道端に捨てられていた人こそ、私共自身であると読むことです。そうすると、善きサマリア人は、主イエスご自身ということになります。私共は人を助けてあげられる者である前に、主イエスによって介抱され、助けていただかなければならない者なのです。この善きサマリア人のように生きたら、身がもたない。その通りなのです。主イエスは身がもたなかった。十字架の上で死んだのです。その主イエスが、私共に向かって、「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言われているのです。この主イエスの言葉は、主イエスの十字架の業と切り離せません。この言葉は、私共の為に十字架におかかりになって下さった、主イエス・キリストの言葉なのです。十字架の上から、主イエスは告げられる。「行って、あなたも同じようにしなさい。」これは「私に従ってきなさい。私に倣う者となりなさい。」ということと、同じメッセージとして受け止めることが出来るのです。私共は、この言葉が、主イエスの言葉であるが故に、言い訳しそうになる自分の心をも主イエスの御前に差し出して、「主よ、赦して下さい。愛のない私を憐れんで下さい。どうか、この私に愛を与えて下さい。このあなたの言葉に従って生きていく力を、勇気を与えて下さい。」そう、祈りをもって応えていくしかないのであります。この主イエスの戒めに対しては、言い訳など出来ず、ただ悔い改めと祈りによって応えるしかない言葉なのでありましょう。
ここに自由があります。自分のことしか考えることが出来ない私が、隣り人を愛する愛に生きることが出来る道が開かれるのです。主イエスは私共が出来るはずもない戒を新しく与えたのではありません。この戒を与えると共に、それをすることが出来る力をも与えて下さるのです。それが聖霊なる神様による力です。私共には出来ない。その通りです。しかし、聖霊なる神様なら出来ます。神様を愛するということは、この聖霊なる神様が私共の中に与えられている確かな証拠なのです。聖霊なる神様が私共の中に宿り、私共の一切の歩みを支配して下さる。ここに福音に生きる者の新しい歩みがあるのです。私共は朝ごとに、神様の愛を受け入れ、神様に愛されている喜びの中で、自分のことしか考えることの出来ないからみつく罪をかなぐり捨てて、この主の言葉に従って生きる者とされていくのであります。それは、聖霊なる神様によってなされる、私共の新しい誕生です。この神様の救いの新しさの中で、私は神様の戒めに喜んで従う者とされ続けていくのであります。
私共は今週も、多くの人と出会っていくでしょう。その一人に対して、自分の中にわき上がる言い訳に逆らって、一杯の水を差し出すことが出来たなら、私共は神様に新しくされた者として生き始めているのです。そのことを心から喜びたいと思います。出来なかったことを数え上げて自分を責めるのではありません。まして、あの人は善きサマリア人ではないと言って人を責めるのでもありません。一杯の水を差し出すことが出来たら、それを喜びましょう。困っている人の隣り人になることが出来た幸い、聖霊の道具とされた幸いを喜びましょう。主の福音は私共を責める為にあるのではなく、私共を自由と喜びへと招く為に与えられているのですから。
[2006年6月25日]
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