主イエスに遣わされた72人の弟子達が主イエスのもとに戻ってきました。彼らは、主イエスの名によって悪霊を追い出すことが出来たことを、喜んで主イエスに報告いたしました。彼らは、主イエスに報告しながら、少なからず興奮していたに違いありません。冷静に淡々と報告したというようなことではなかったと思います。まるで、幼稚園や小学校に行っている子が、家に帰ってきてお父さんやお母さんに、今日学校であった球技大会で勝った様子を話す時のように、喜びながら興奮して報告したのではないかと思います。その弟子達の報告を受けながら、主イエスも又、喜んだのです。喜びにあふれたのです。どうして、主イエスは喜んだのでしょうか。ご自分の名によって、悪霊が出て行ったからでしょうか。そうではありません。主イエスにはそんなことは判り切ったことだったのです。主イエスがここで喜んでおられるのは、弟子達がこの経験を通して、主イエスが誰であるのか、主イエスとはどういうお方なのかということを判った。そのことの故に、主イエスは喜んだのです。
主イエスが誰であるかが判る。それは、神様が判るということであります。神様は目に見えず、その心を人は知り尽くすことは出来ません。しかし、主イエスというお方が、まことに神の子であり、神様そのものであることを知る時、私共は神様というお方が得体の知れない、摩訶不思議な存在というような方ではなくて、私共を愛し、私共と共にいて下さる方、その力をもって私共を守り導いて下さる方であることを知るのであります。まさに、全能の父なる神であることを知るのであります。主イエスが誰であるかが判る時、私共は神様そのものと出会っているのであります。聖なる神様と出会う。それは罪ある人間には、本来不可能なことであります。何故なら、罪人である人間は、聖なる方と直接出会うならば、その聖さに打たれて滅びるしかないからであります。それはちょうど、太陽が明るすぎて、私共は直接肉眼で見ることが出来ないのと同じです。しかし、神の独り子キリストは人となり、私共人間と同じ姿をとり、神様の方から私共に近づき、私共の中に住んで下さった。インマヌエルの出来事となって下さったのであります。そのことによって、私共は神様と出会い、神様を知り、神様との交わりに生きることが出来るようにしていただいたのであります。
神様が判る。神様を知る。それは、人間が求めている最高の知識と言って良いでしょう。人類の築いた文明は、全てこの知識を得る為に営まれてきたといっても過言ではありません。占いも、科学も、哲学も、究極的な知識としての神を知る。そこに向かって営まれてきたのです。もちろん、全ての宗教も又、そこに向かっての営みであったと言って良いでしょう。それは人間存在の究極、この世界の根源に関わる、最も深い知識なのです。それは神の秘義、神の奥義と言って良いものです。人はそれを求め研究し、あるいは修行をし、何とか手に入れたいと願い求めてきました。しかし、それを手に入れた人はいませんでした。何故なら、それを手に入れることは自らが神になるということだったからです。しかし、この神様を知るという道は、私共が考えていたのとは、全く別のあり方で拓かれました。それは、人間が神に近づくのではなく、神様が人間となり、私共に近づいてきて下さるという、全く人間が考えてもいなかった道が拓かれたのです。
弟子達はこの時、主イエスによって選ばれ、立てられ、遣わされることによって、主イエスが誰であるかを知ったのです。そしてそれは、神を知るということだったのです。彼らは、神の奥義を知らされたのです。彼らは、無学な者でした。彼らは自らの知恵に頼り、力に頼り、神の奥義を知ったのではありませんでした。彼らは知らされたのです。神の奥義が、彼らの前に啓かれたのです。主イエスはこう言われました。21節「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。」幼子のような者。これは弟子達のことを指している訳ですが、彼らが幼子のように純真であるということではありません。「知恵ある者や賢い者に隠して」とありますから、「幼子のような者」というのはその反対のことを意味しているのでしょう。つまり、知恵のない者、賢くない者ということです。知恵のある者や賢い者に隠されて、幼子のように知恵のない、賢くない弟子達に知らされた、明らかにされた。それは、実に御心に適うことであったというのです。神様は、知恵ある者や賢い者に対して差別をしているのでしょうか。そうかもしれません。知恵ある者、賢い者は、自らの知恵に頼り、神様を知ろうとする。そこには、何よりも神様の御前における謙遜がないのです。自らの知恵に頼って神を知ろうとする者は、自らの知恵の中に神様を取り込もうとします。それは必ず、自らが神となる道を歩むことになるのです。それが御心に適わないことは明らかでありましょう。神様は、どこまでも神様であられます。神様は自由であり、私共の知恵の中に取り込まれることを、拒否されるのです。神様は、自らがまことの神であることを、自らが人間となられるというあり方でお示しになったのです。一人の人間であるイエスというお方が神である。これは、どう考えても理屈に合いません。天地を造られた全能の神が、一人の人間というあり方で現れる。無限がどうして有限の中に入り得るのか。理解不能です。しかし、神様はそうすることによって、人間の知恵の愚かさを示されたのであります。自らの知恵をもって神に至ろうとする人間の高慢を笑ったのです。
この主イエスの言葉と同じことを、使徒パウロはコリントの信徒への手紙一1章18〜31節でこう語っています。少し長いのですが、お読みいたします。「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。…知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこにいる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。世は自分の知恵で神を知ることができませんでした。それは神の知恵にかなっています。そこで神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです。ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」これは、主イエスの御言葉の最も良い注解であると言って良いでしょう。主イエスの弟子達も、コリントの教会の人々にも、知恵ある人、学者などは居なかったのです。私共もそうです。私共が救われたときのことを思い起こしてみてください。万巻の書を紐解き、遂に主イエスが神の子であるという認識に至ったということではないでしょう。聖書を読み、教会に集っている中で、このことが明らかにされたのでしょう。福音が判る、主イエスが判る、神様が判るということと、私共人間の知恵とは、何の関係もないのです。主イエスは、22節「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに、子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」と言われました。実に神様が判る者は、御子イエス・キリストとイエス・キリストによって神を知るようにと選ばれた者でしかないのです。キリストの弟子達は、私共は、神さまに選ばれ、この神の奥義を知らされたのです。
信仰を求め、教会に来はじめた方の多くは、何を学べば信仰を得られるのかと問います。その前提には、信仰というものは自分が何か信じるべき内容を学ぶことによって得られると考えている所があるのかもしれません。しかし、キリスト教の信仰というものは、何かを学ぶことによって得るというものではないのです。だったら、何も知らなくて良いのか?もちろんそういうことでもありません。神様はどういう方か、イエス様はどういう方か、それは聖書を読んで学ばねばなりません。しかし、聖書をこれだけ読めば、あなたも立派なクリスチャンという具合にはいかないのです。主イエスと出会う。神様に触れる。いや、自分が神様に触れられていることが判るということが起きなければならないのです。それは、牧師が起こせるようなものではありません。だったら、牧師は何をするのか。聖書の言葉を語りかけ続けるのです。一緒に聖書を読むという形で行われることもあるでしょう。しかし、何よりもこの礼拝に集っていただく中で、聖書の言葉に触れ、それによって、主イエスに触れ、神様に触れていっていただくことを待っているのです。自分が神様に愛されている、そのことがはっきり判る。それに気付けば良いのです。しかし、それは神の出来事です。人が起こすことは出来ません。しかし、神様は人を用いて、その救いの出来事を起こして下さるのです。私はそのことを信じておりますし、その為に用いられることを、何よりの誇りとしているのです。
さて、主イエスは弟子達に向かって、「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」と言われました。これは、弟子達が見ている、主イエスによる救いの御業、弟子達が聞いている主イエスの御言葉こそ、旧約の預言者達が告げていた神様の救いの出来事であるということであります。多くの預言者達が主イエスによってもたらされる神様の救いの時を預言しました。その時が今来ていると主イエスは言われたのであります。それは、今、私共の所にも来ています。私共は肉の目、肉の耳によって、主イエスを見たり、主イエスの言葉を直接聞いたりしている訳ではありません。しかし、霊の目、霊の耳、信仰の目、信仰の耳によって、主イエスの救いの出来事を見、主イエスの御言葉を聞いているのでしょう。
今朝の聖書の言葉は、主イエスがお語りになった言葉です。この言葉を、私共は神の言葉として聞いている。これは実に主イエスの弟子達の上に起きた出来事が、私共の上にも起きているということに他ならないのであります。とするならば、私共は主イエスの弟子達と同じ幸いに与っているということなのであります。神の国が、もう私共の所に来ているのであります。私共は、神の国の住人とされているのであります。私共は、この世に生きながら、すでに神の国に生き始めているのです。この弱い肉体をまといながら、すでに永遠の命の中に生き始めているのです。愚かさと罪の過ちを犯しつつも、主イエスを「我が主よ」と呼び、神様を「我が父よ」と呼ぶことが出来る者とされているのです。ここに、私共の救いの確かさがあります。ここに、私共が神様の全き救いに与る者として選ばれているという確かな「しるし」があるのです。神様の選びに与っていなければ、主イエスを我が主、神様を我が父と呼ぶことは出来ませんし、主イエスの言葉を神の言葉として聞くことなど出来ないのです。
私共は、しばしば救いの実感というものを欲しがります。自分が本当に神様に選ばれているのか、救われる者とされているか判らなくなり、不安になるのです。しかし、何があれば私共は救いの実感を味わうことが出来るのでしょうか。私は、私共が主イエスに対して、「我が主よ」と呼ぶことが出来、神様を「我が父よ」と呼ぶことが出来る以上の「しるし」はないと思っています。この「しるし」が、どれ程大きな「しるし」であり、神の奇跡そのものであることを、私共はこの恵みにあまりに慣れてしまって、忘れているのではないかと思うのです。私共はまことに忘れやすいのです。だから、毎日祈らねばなりませんし、毎週ここに集い、礼拝をささげねばならないのです。神の言葉を聞くことの幸い、主イエスを、父なる神さまを、信仰のまなざしを持って見上げる幸いを、心と体に刻みつけ続けなければならないのであります。
神の愛は、神の賢さはどこにあるか。私共のような罪に満ちた知恵なき者に、主イエスが誰であるかを示して下さったことに現れています。神の奇跡はどこにあるのか。私共のような者が、神の子、神の僕とされ、選ばれ、立てられている、このことの中にあります。何か特別なものを求める必要はありません。私共がキリスト者とされている。ここに神の愛と神の力と神の永遠の選びが現れているのです。まことに、ありがたいことです。この恵みに感謝しつつ、この恵みを与えて下さっている主をほめたたえつつ、この一週も又歩んでまいりたいと思います。
[2006年6月18日]
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