富山鹿島町教会

礼拝説教

「神の国にふさわしい者」
サムエル記上 23章14〜28節
ルカによる福音書 9章57〜62節

小堀 康彦牧師

 信仰の歩みとは、「主イエス・キリストにお従いすること」。この一事に尽きます。私共はこのことを神と会衆との前で誓い、洗礼を受け、信仰告白をしたのです。主イエスにお従いするということは、人生のある一時期のことではなくて、私共がこの地上の生涯を終えて天に召されるまで、どのような人生の場面においても貫かれていなければならないものであります。まさに、生きるにしても、死ぬにしても、キリストのものであるということであります。主イエス・キリストにお従いするということが、私共の人生を貫いている硬い棒のようなものであるということでありましょう。

 しかし、主イエスにお従いして生きていこうとする時に、様々な誘惑が私共を襲います。一つは、人生の困難とでも言うべきものです。主イエスに従う。それが神様の御心に従う道であるならば、神様に守られて全てが順風満帆、万事がうまくいく。そういうことであるならば、何も問題がない。人にもそう言って勧めることも出来るでしょう。キリスト教を信じたら、仕事がうまくいきます。事業も成功します。家庭もうまくいきます。そう言って人に勧める。そういう勧め方が全く間違っているとは言えないとも思いますけれど、しかし主イエスはそのようにはお語りになりませんでした。57〜58節「一行が道を進んで行くと、イエスに対して、『あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります』と言う人がいた。イエスは言われた。『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。』」主イエスに従っていきたいと申し出た人に対して、「それは良かった。何も心配しないで大丈夫。全てはうまくいきます。」とはお答えにならなかったのです。主イエスは「狐には穴があり、鳥には巣がある。」動物にさえ、心も体も休ませることが出来る家があるけれど、しかし「人の子、つまり私には、枕する所もない。」私は安心して寝る家さえない。あなたは、そういう私に従いたいと言っているのですよ、大丈夫ですか、覚悟はいいですか。そう言われたのであります。
 そんな風に言われたら、「ハイッ、私には覚悟は出来ております。」そう答えることが出来る人は、そういないだろうと思うのです。どうして、主イエスはそのようなことを言われたのでしょうか。51節を見ますと、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」とあります。主イエスは、この時はっきりと御自分が歩まれる十字架への道をエルサレムに向かって歩み出された時だったのです。ですから、何も知らずに主イエスに従ってこようとする人に対して、ご自身がこれから歩もうとする道をここでお示しになったのでありましょう。
 私はここで、神の民イスラエルの王として神様に選ばれておりながら、サウル王によって命をねらわれ逃げ回らねばならなかったダビデを思い起こすのであります。ダビデは王となるようにすでに神さまによって選ばれ、油を注がれておりました。しかし、彼は何事もなく、すんなりと王になったのではないのです。自分の王としての地位を奪われると感じたサウル王によって、執拗にその命をねらわれたのです。ダビデ王も又、王になるまでの間、まさに枕する所なく逃げ回ったのです。聖書はこの時のことを、このように告げております。14節「ダビデは荒れ野のあちこちの要害にとどまり、またジフの荒れ野の山地にとどまった。サウルは絶え間なくダビデをねらったが、神は彼をサウルの手に渡されなかった。」確かにサウルは絶え間なくダビデをねらったのです。しかし、神様は彼をサウルの手に渡されなかったのであります。何度も何度も、もう駄目だというような事態に遭遇しながら、しかし彼は守られたのです。何故、ダビデがこのような困難な目に会わねばならなかったのか。神様は何故、サウル王を廃して、すぐにダビデを王にしなかったのか。それは判りません。それは、私共の人生でも同じであります。私共は何の困難もなく、ただ神様の恵みと平安だけを受けて生きて行きたいのです。しかし、誰の人生においても、困難な時はやって来るのです。ただ、それにもかかわらず、神様の守りはそのような時にも私共を捕らえて離さないということを、私共は忘れてはならないのであります。「神は彼をサウルの手に渡されなかった」のであります。
 主イエスは確かに、「人の子には枕する所もない。」と言われました。そしてその言葉通り、主イエスは十字架への道を歩むことになりました。しかし、だからといって神様は主イエスを見放していたということではないのであります。人の子は枕する所もないような歩みをした。しかし、それにも関わらず、人の子イエスは神様と共に歩まれたし、神様はその時も主イエスと共におられたのであります。主イエスに従うということは、まさに人生の困難という場面にさしかかっても、主イエスが十字架への歩みをなされた時にも神様が主イエスと共におられたことを思い起こし、信仰を失わないということなのでありましょう。私共が「枕する所がない」ような歩みをする時、私共は自分自身を主イエスの歩みと重ね合わせて良いのです。そして、主イエスの十字架への歩みが復活へと続いていたように、私共のこの歩みも、やがて復活の出来事へと続く、そのことを信じて良いのであります。この主イエスの「人の子には枕する所もない。」という言葉は、主イエスに従おうとする人をおどかしたり、覚悟しなさいとだけ言っているのではないのです。もし、そうであるのならば、続いて59節に記されている主イエスの言葉「わたしに従いなさい。」との御言葉を言う必要はないのです。主イエスは自分に従って歩んで欲しいのです。全ての人が、私共が、主イエスに従って歩んでいくことを望んでおられるのです。そこに、まことの命があるからであります。主イエスに従わなければ、この地上でどんな栄華を手に入れようとも、それは空しいからです。復活の命、永遠の命へとつながっていかないからです。ですから、この主イエスの「人の子には枕する所もない。」という言葉は、あなたが枕する所がないという状況の中を歩まねばならない時、それでも神様の御手の中にあることを信じなさい。私がその保証です。そう言っておられるのではないかと思うのであります。主イエスに従うということは、この主イエスご自身が保証となって下さった神様の守りの御手の中にある自分を発見し続けていくということなのでありましょう。

 次に私共を待ち受けている誘惑は、家族の問題であります。主イエスに従う時に、ここで二人の人が同じようなことを申します。59節b「主よ、まず、父を葬りに行かせてください。」61節b「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください。」この二人の申し出は、まことに当然のことでありましょう。父の葬式を出す。これは子として当然の務めであります。あるいは、主イエスに従っていけば、家を空けることになるのだから、家族との別れの時を持つというのも、まことに当然のことでありましょう。しかし、この時主イエスは「あなたの言っていることは当然だ。その通りにしたらよい。」とは言われなかったのであります。主イエスは「まず、父を葬りに行かせてください。」と言う人には「死んでいる者達に、自分たちの死者を葬らせなさい。」と、「まず家族にいとまごいに行かせてください。」と言う人には「鋤きに手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない。」と言われたのです。しかし、これを主イエスの言葉なのだからと、私共が文字通りに実行いたしますと、大変なことになってしまうでしょう。キリスト教は、自分の家族を捨てさせるものだ。そんな噂が立てられることでしょう。それでは世間を騒がせている「カルト」と少しも違わないことになってしまいます。キリスト教は、決して家族を破壊するような宗教ではありません。十戒の第五の戒は「父と母を敬え。」であります。キリスト教の信仰に基づいて人が生きる時、家族は本当にうるわしいものになるということを、私は信じて疑いません。だから、私は結婚式の司式をすることが出来るのです。
 だったら、この主イエスの言葉はどのように理解すれば良いのでしょうか。家族は大切です。ある意味では、自分自身より大切であるかもしれません。それ程に大切な自分の家族。しかし、その家族との関係、あるいは家族のあり様そのものが、主イエスに従う中で変えられていかねばならないということなのではないかと思うのであります。
 ここで注目すべきは、この二人の人が言った、「まず、父を葬りに行かせてください。」と、「まず、家族にいとまごいに行かせてください。」との言葉で共通している「まず」という言葉です。大変小さな言葉ですけれど、これは「第一に」とも訳すことが出来る言葉です。主イエスはここで、第一に自分の家族との関わりの中に生きようとする者に対して、第一としなければならないのは神様とのことではないか。そう言われているのではないでしょうか。ここで、主イエスが山上の説教において告げられた、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」(マタイによる福音書6章33節)との御言葉を思い起こして良いでしょう。「何よりもまず」という言葉のこの「まず」というのが、「第一に」という意味の同じ言葉なのです。
 主イエスに従う歩みにおいて、何よりも大切なのは、何を「第一」とするかということなのです。そして、神さま・イエス様を第一にして生きていこうとするときに、私共の家族というものが、しばしばこの「第一の座」を主張するのであります。家族だけではありません。様々なものが、神さま・イエス様を蹴飛ばして、「第一の座」を主張し始めるのであります。この日本の社会の中において、「神様を第一とする」という生き方を貫くのは、そう簡単ではないのです。周りとの軋轢を生むこともあるでしょう。私は、「神さま・イエス様が第一」ということを貫こうとするならば、知恵や工夫が必要だろうと思うのです。
 少し具体的に考えてみましょう。先週私は、「季刊教会」の原稿の締め切りが来ていて、お尻に火がついていたのですが、与えられた課題は「福音の土着化」というテーマでした。この原稿を書きながら、私は前任地での一つの経験を思い出しました。それは、若い教会員の夫婦が、我が子の「七五三」を教会でしてもらえないかと言って来た時のことです。若い夫婦はどちらもクリスチャンホームではありません。おじいちゃん、おばあちゃんが、初孫に「七五三」の晴れ着を着せたいと言ってきている。若い夫婦は神社に行って祈ってもらうのはイヤだと言う。当然ですね。神様を第一にしたい訳です。しかし、おじいちゃんやおばあちゃんの思いも無視することが出来ない。無視したくない。それも判ります。皆さんの中にも、同じ様な経験をされた方がいるのではないかと思います。皆さんならどうするでしょうか。この若い夫婦は、牧師の所に来て、七五三の祝福の祈りをして欲しいと言ってきたのです。この時に、「キリスト教には七五三はありません。」と答えることも出来たでしょう。無いのは当たり前です。しかし、そうは答えませんでした。そのように答えて済む問題なのかと思いました。もし、そのように答えれば、この若い夫婦を困った状況に追い込み、きっとこの若い夫婦は神社に行かなければならないことになったのではないかと思います。私は、長老会にはかりまして、「七五三」ということではなくて、希望者に対しては幼児祝福式を礼拝の中で行うことにしました。教会学校から案内も出しました。そうすると、その若い夫婦以外にも、奥さんだけが教会員という家庭の子もお願いしますということになって、とてもにぎやかな祝福式となりました。いつもは、決して礼拝に来ることのないおじいちゃん、おばあちゃんが、その日の礼拝には来られました。これは、一つの「神様を第一にする」ということを、この日本の中で、家族の交わりを大切にしながらも貫いていく為の一つの知恵であり、工夫であろうかと思います。これは、決して妥協ではないのです。第一のものを第一とする為の知恵なのです。このような工夫が、この日本では、どうしても必要とされるのだろうと思います。

 私共は主イエスに従う者となりました。神様を、イエス様を第一とする者となったのです。そして、このことだけが、私共を神の国にふさわしい者とするのであります。その歩みは、神の国に向かっての、永遠の命に向かっての歩みです。イスラエルの民が出エジプトの旅において、エジプトの肉鍋をなつかしんだ様に、振り返ってなつかしむ、いとまはありませんし、それは神の国にふさわしい者のあり方ではありません。しかし、この歩みは自分の信仰の熱心さや、強さによって貫かれていくものではありません。ペトロが主イエスを三度否んだときも、自分はどんなことがあって主イエスに従っていきますと明言したのです。しかし、それは出来ませんでした。主イエスに従って行くということは、実に神さまの守りと導きがなければ貫くことは出来ないことなのです。そして私共は、神様を第一としていく中で、どんな状況の中にあっても、神様の守りと導きと祝福が私を離さないということを信じる者として召されているのであります。それは、実に神様の祝福への招きなのです。
 私共は、ただ今から聖餐に与ります。この聖餐に与る中で、キリストが私共の中に入り、私共の中に住み、私共の歩みを導き、たとえ私共が枕する所がないような歩みをしなければならない時であっても、私は主と共にいるという恵みの事実の中に留まることが出来るようにして下さるのであります。そして、いつでも、どこでも、誰に対しても、神様を第一とする歩みに私共を堅く立たせてくれるのであります。キリストは、自ら肉を裂き、血を流して、この弱く、愚かな私共が主イエスに従っていく者であり続けることが出来るようにして下さったのです。この恵みの中に留まり続けることの出来る幸いを、心から感謝したいと思います。

[2006年5月7日]

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