富山鹿島町教会

礼拝説教

「誰が一番偉いのか」
申命記 10章12〜22節
ルカによる福音書 9章43b〜48節

小堀 康彦牧師

 主イエスの御苦難を覚える、受難節の日々を過ごしております。この時期、私共は主イエスが私共の為にその身に負うて下さった御苦しみを、改めて心に刻むのであります。この主イエスの御苦難は、父なる神様の私共への愛、御子イエス・キリストの私共への愛が最も明確に示されたものです。それは、父なる神様と御子イエス・キリストによる、私共に対しての究極のサービス、奉仕と言っても良いでしょう。この日曜日に私共がささげる礼拝は、サンデー・サービスと言います。礼拝はサービスなのです。サービスというと、あの店はサービスが良いとか悪いとか、サービスにティッシュをくれた、そんなイメージを持つかもしれません。もちろん、そのような意味もありますけれど、礼拝をも意味しているのです。この私共の礼拝がサービスなのです。結婚式の披露宴などで、最近はキャンドル・サービスと称して、新郎・新婦が各テーブルのローソクに火を付けるということが行われています。キャンドルに火を付けるサービスをするからキャンドル・サービスと言っているのでしょうけれど、あれはひどいと思います。キャンドル・サービスと言えば、ローソクを使った礼拝を指す言葉です。サービスという言葉が礼拝という意味で使われることのない日本を表しているのでしょう。サービス、礼拝はお仕えすることなのです。ここで、礼拝においてサービスするのは、一体誰かということがはっきりしていなければなりません。説教者か、司会者か、奏楽者か、あるいは礼拝をささげている会衆であるか。もちろん、この礼拝に集う人は、全てお仕えする、サービスするのですけれど、第一に仕えて下さっているのは、サービスして下さっているのは、父なる神様であり、御子イエス・キリストに他なりません。神様がまず私共の為に愛する独り子を十字架におかけになるというサービスを私共に与えて下さった。御子が私共の為にその命を捨てるというサービスを私共に与えて下さった。この究極のサービスがあって、私共のこの礼拝、サービスが成り立っているのです。私共が、サービスする、神様を礼拝し、神様にお仕えするということは、まず神様の方からのサービスがあって、初めて成り立つものなのであります。ですから、この礼拝において第一に大切なことは、この神様のサービスを心に刻み、神様に感謝することであり、神様をほめたたえることなのであります。
 実に、私共は神様のサービスに応えて、サービスする者として召されている者なのです。神様にお仕えし、隣人にお仕えする者として召されているのです。仕えるということは、私共キリスト者にとりまして、神様に倣う、キリストに倣うということであり、私共の根本的な生き方、あり方を示すものなのであります。私共は仕える者として召され、仕える者として生きることにおいて神の国へと歩んでいくのであります。

 主イエスは、今朝与えられた御言葉において、二度目の御受難の予告を弟子達にいたしました。44節です。「この言葉をよく耳に入れておきなさい。人の子は人々の手に引き渡されようとしている。」弟子達は、この言葉の意味が判りませんでした。そして、その意味を主イエスに尋ねることもしませんでした。聖書は、それは弟子達が怖がったからだと告げています。弟子達は、何を怖がっていたのでしょうか。それは、その次に記されている46節以下を見ると、少し判るかと思います。46節「弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。」とあります。弟子達の心にあったのは、自分達弟子の中で、一番偉いのは誰かということであったというのです。どうして、弟子達はそんなことを議論していたのでしょうか。それは、「自分達はイエス様の弟子だ。イエス様は救い主としてローマをやっつけて、神の国をお建てになる。その時にはイエス様の弟子である自分達が、その世界を支配することになる。その時には、誰が一番偉くて、誰が二番目なのか。そのことをちゃんと決めておかなければならない。」そう考えていたからなのだろうと思います。ところが、イエス様は「人の子は引き渡されようとしている」と言う。どうも、自分達が考えていることと違う。まるで違う。しかも、主イエスは少し前に23節で「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言われている。十字架は罪人が殺される時の処刑の道具です。ということは、主イエスが言われたことは、主イエスも殺され、自分達も殺されるということなのか。だから、弟子達は怖くて主イエスに尋ねることも出来なかったのでしょう。
 こう言っても良いと思います。主イエスが建てられる神の国は、この地上の国とはその根本から違っているのに、弟子達は神の国も又この地上の国と同じ様なものとしてしか考えることが出来なかったということなのです。この地上の国においては、仕える者と仕えられる者がおり、仕えられる者が偉いのです。弟子達は偉くなりたかった。仕えられる者になりたかったのです。しかし、主イエスによって建てられる神の国の秩序は、それとは全く逆のものだったのです。

 弟子達の議論は、まことに直接的であり、幼稚でさえあります。私共はこのようなことを口にすることは、まずないだろうと思います。しかし、この時の弟子達の議論を、子供じみていると言って笑うことは、私共には出来ないと思います。口にこそ出しませんが、「誰が一番偉いのか」という心の動きは、私共の中にもあるからです。「誰が一番偉いのか」という心の動きは、もっとはっきり言えば、「自分が一番偉い。自分は人より上に立ちたい。」という思いであります。私共は小さい時から、このような思いと無縁に生きている人はいないのです。幼稚園の「かけっこ」で一番になるという所から始まって、高校はどこに行くのか、大学はどこか、会社に入っても同期の中で誰が最初に課長になるのか。どこかで、自分と他人と比べて、優越感にひたったり、逆に劣等感を持ったりする。親が我が子を見る時もそうです。自分の子が「かけっこ」で一番になるとうれしいのです。これは素朴にうれしい。自分の子が一生懸命している姿が嬉しい。そうは言っても、やっぱり一番になると嬉しいのです。この、人と比べるという心の動きは、本当に根が深いと思います。これは兄弟同士においてさえ起きるのです。兄に比べて自分はどうだ、こうだとやるのです。
 主イエスが「自分を捨てて我に従え。」と言われたのは、この他人と比べて自分がどうのこうのという心の動きを捨てよと言われたのではないかと私は思うのであります。  主イエスは、弟子達が議論している時の心の内を見抜かれて、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせました。そして、こう言われたのです。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」 「わたしの名のために」というのは、名というのはその人自身を指す言い方ですので、これはイエス様の為に、イエス様がおっしゃっているから、イエス様の御心にかなう為に、ということです。ここで、主イエスが「子供」を受け入れると言われていますが、この「子供」というのは、私共は小さくて、かわいらしい代表のように考えてしまいますけれど、そうではありません。この時代、「子供」というのは、何も出来ない、つまらない、小さな者の代表なのです。「子供人権」などという発想は、この時代にはありません。イエス様は「受け入れる」という言い方をされていますが、これは消極的には「その人をジャマだと思わない、いない方がいいと思わない」というようなことでしょう。そして積極的には、「その人の存在を喜び、これに仕える」ということだと思います。主イエスは、ここでは積極的な意味で言われていると思います。つまり、「イエス様が言われるのだからという理由で、何も出来ない、世の中では無価値と思われる者を喜び、大切にし、これに仕える者は、私を受け入れること、私に仕えることと同じだ。そして、それは、神様を受け入れ、神様に仕えることと同じことなのだ。」 と主イエスは言われたのです。
 私共は、ここに毎週集まって、神様を礼拝し、神様に仕える、という営みをしています。この神様に仕えるということは、何も出来ない、世の中では軽んじられている小さな者を受け入れ、これに仕えるということへと連動していくということなのであります。神様に仕えることと、隣人に仕える、小さな者に仕える、ということは切り離すことが出来ないのです。そのことを思いますと、教会において重んじられる人は、子供であり、老人であり、病人であるということになるのではないでしょうか。これは教会としては、まことに当たり前のことなのであります。しかし、この世においては当たり前ではないでしょう。ここに、世の光としての教会の意味があるのだろうと思うのです。
 主イエスは更に、「あなたがたで最も小さい者こそ、最も偉いのである。」と言われました。ここには、偉いということに対しての、逆転があります。この世の秩序において偉いということが、神の国の秩序においても偉いということにはならないのです。これは、神の国においては、仕える者が偉くて、仕えられる者が小さい者と言い換えても良いでしょう。私共はこの地上に生きながら、しかし神の国からの光の中を歩み始めた者です。そして、神の国からの光に照らし出されているところが、この教会というところなのです。

 ここで、いくつもの具体的な例を挙げることが出来るでしょう。私共は、長老教会の伝統に生きている教会ですが、この教会における長老とは何か。牧師も長老の一人ですが、長老とは何よりも、神様にお仕えし、この教会に集う人々にお仕えする者だということになるでしょう。それはもう、日常的にそうなのですけれど、一つの目に見える「しるし」としてあるのは、聖餐式における配餐です。私共の聖餐の守り方は、会衆が席に座っていて、長老達がパンと杯を皆さんの席にまで運んでいくのです。これは、給仕の役割を長老がしているということなのです。これは、とても大切なことだと思います。
 又、結婚についても言えることです。一夫一婦制というのは、主イエスによって立てられたと言って良いと思います。それまではユダヤにおいても、一人の男性が複数の女性と結婚することがありましたし、夫は妻が子を産めないと判ると自由に離婚することも出来ました。しかし、主イエスによってそれは正しい結婚のあり方ではないことが示されたのです。エフェソの信徒への手紙5章21〜25節を見てみましょう。結婚についての聖書の代表的な教えが記されています。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」とあります。この中心にあるのは「仕える」というあり方です。まず妻に対して、「夫に仕えなさい」と言われます。ここだけを見ますと、まるで妻に対して一方的に言われているように見えますが、そうではありません。続いて、夫に対して「 キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」と言われています。最初に申しましたように、キリストの十字架は、究極的なサービスです。夫にも、妻を命をかけて愛せ、命をかけて仕えよ、そう言われているのです。夫婦という関係においても、その最も根本にあるのは「互いに仕える」というあり方なのであります。「互いに仕える」、それが「互いに愛し合う」ということなのであります。

 仕える為には、私共は小さくならなければなりません。謙遜にならなければ出来ないことです。しかもそれは、難しいのです。自分の中の小さなプライド、小さな優越感が邪魔をするのです。ですから、小さな者に仕えるといっても、最初は何か自分の心を偽って、無理してやるという所があるかもしれません。何故なら、自ら人に仕える者として生きるということは、私共の生まれつきの、自然の心の動きに全く逆らっているからです。私共が自然に「仕える者となる」ことを求めるなどということはないからです。しかし、「イエス様が言われるのだから、やってみよう。世の中で軽んじられている人よりも小さくなって仕えてみよう。」、そう思って一歩を踏み出してみる。そうすると、私共は初めて判るのです。人と自分を比べるという心の動きから自由にされるということを。私共は、この小さな者を受け入れ、これに仕える中で、自分の小さなプライド、小さな優越感から解放されるのです。そしてそれは、主イエスと共に自分が歩んでいるということの確かな喜びと言うべきものさえ伴うのです。
 皆さん、私共は仕える者として召されています。それは、私が低く、小さくなっていく道です。しかし、その道は主イエス・キリストが歩まれた道であり、私共を神の国へと導く道なのです。神の国、天国は、私共が高く昇っていく所にあるのではなく、私共が低く下っていく先にあるのです。レントの日々、改めて仕える者として召されていることを心に刻みつつ、この一週も又、キリストと共に、神の国に向かっての歩みを共々になしてまいりたいと願うのであります。

[2006年3月26日]

メッセージ へもどる。