富山鹿島町教会

礼拝説教

「山上の変貌」
列王記 下 2章1〜14節
ルカによる福音書 9章28〜36節

小堀 康彦牧師

 十字架。それはただ一つの栄光への道であります。それ以外に栄光への道はありません。この道は、主イエス・キリストご自身が身をもって私共の為に拓いて下さった道であり、「わたしに従いなさい。」と言って、私共に先立って歩んで下さる道であります。
 主イエスは、ペトロが「あなたは神からのメシアです。」との告白をすると、ご自身の十字架と復活の予告をなさいました。そして同時に、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と言われました。ご自身が苦しみを受け、殺されるという予告にとどまらず、弟子達も又、「十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と告げられたのです。この言葉が一体何を意味しているのか、弟子達はこの時良く判らなかったのではないかと思います。私共もこの言葉を聞く時、それは何か恐ろしい、とんでもない道へと自分が引きずり込まれるような感じを受けるかもしれません。出来れば聞かない振りをしていようと思うかもしれません。確かに、この「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」という、主イエスの言葉は大変厳しいものであります。私共は、それを割引きすることは出来ません。しかし、この言葉はそこで終わっていないのです。こう続くのです。24節「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」不思議な表現をしていますが、ここで「命」と言われているのは、この肉体の命と永遠の命が重ねて使われているのです。つまり、自分のこの肉体の命、年と共に衰え、朽ちていくこの命だけを考え、この自分の命だけを救おうとする者は、朽ちず、汚れず、滅びることのない、父なる神様と永遠に共にある栄光の命、永遠の命を失うが、主イエスの為にこの地上での命を失う者は、永遠の命を救い、これに与ることが出来ると言われたのであります。つまり、天の命と地上の命、永遠の命と肉体の命が対比されているのです。天の栄光の命へと至る道が、ここに示されているのです。この天の栄光の命への道が十字架であることを主イエスは告げられたのです。しかし、これを聞いた弟子達は、それを悟ることはなかったのではないかと思います。それは、弟子達はまだ主イエスの復活を知らなかったからです。多分、この時弟子達は、主イエスが苦しみを受け殺された後、三日目に復活すると告げたにもかかわらず、初めの「苦しみを受け、殺される」という言葉の強烈さの中で、その後に語られた「復活」という所にまで思いをめぐらせることが出来なかったのではないかと思うのです。それは、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」という言葉も同じで、その前の「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」という強烈な言葉に飲み込まれて、きちんと受けとめることが出来なかったのではないかと思うのです。
 避けることの出来ない十字架への道、しかしその後に続く復活の栄光。この正反対の、しかし一つながりの道を主イエスは示されたのです。この十字架と復活の道は、単に主イエスだけが歩まれた道ではありません。そうではなくて、これは主イエスが弟子達に、そして私共の為に拓いて下さった道なのです。ですから、主イエスはこの道をどうしても弟子達に教え、伝えなければならなかったのです。

 そこで主イエスは、弟子の中からペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を選んで山に登り、共に祈り、そこで神の栄光に輝く姿、まことの神の子としての姿、十字架の後で見ることになる栄光の復活の命に輝く姿を弟子達にお見せになったのです。昔から「山上の変貌」と言われるこの場面、これは天の窓が開かれ、弟子達が天の国の栄光を垣間見た所なのではないかと私には思えるのです。ま白い輝く服に身を包んだ主イエス、それは主イエスが天的存在であることを示しています。その神の子としての栄光をはっきりと弟子達にお見せになったのです。そして、そこには旧約を代表するモーセとエリヤが共にいました。旧約聖書は「律法と預言の書」と言われていました。この律法を代表する人としてのモーセ、預言を代表する人としてのエリヤです。この三人が何を話していたか。31節に「二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。」とあります。これは、このルカだけが記しているものです。マルコとマタイにはありません。モーセとエリヤと主イエスが三人で、エルサレムでの十字架における死について話していたというのです。それは、主イエスの十字架が、旧約以来の神様の救いのご計画の成就であるということを意味しているのでしょう。
 ここで、少しヘソ曲がりな人は、この時どうしてペトロ達は二人がモーセとエリヤと判ったのかと言います。こういう問いは、つまらないことだと言って済ませても良いのですが、私はなかなか面白い問いだと思います。私は天の国とはそういうものだと思っているからです。私共はやがて天の国に招かれて行くことになるのですが、そこでイエス様を捜し出す必要は無いのだと思うのです。私共はイエス様に会ったことがありません。それに絵に描かれている主イエスのお姿は、ニセモノであることは間違いありません。ユダヤ人のイエス様が金髪であるはずがないからです。しかし、私共はこの方がイエス様だと判るはずなのです。そうでなければ困ります。天の国とは、そういう所であるはずなのです。だから、モーセとエリヤも判ったのです。私はそう思います。もっと言えば、ルターだってカルヴァンだって、アウグスチヌスだって判るに違いないと私は思います。
 さて、この時弟子達は、大変なものを見てしまったと驚き、喜びました。まさに、聖なる体験、神体験と言うべきものをしてしまったのです。主イエスの神の御子としての本当のお姿を見、天の国を垣間見てしまったのです。モーセは千数百年も前、エリヤは八百年も前の人です。その彼らが生きている。ここで弟子達は、栄光に輝く永遠の命に与っている人と出会ってしまったのです。これは、まさに主イエスの復活に出会う前の、前振りのようなものではなかったかと思います。このような栄光の命があることを、弟子達はこの時、初めて知ったのでありましょう。
 ペトロは驚き、喜び、興奮して、「仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」と言いました。これは、言うなれば、「こんなすごいことはありません。これを記念して、ほこらを三つ建てましょう。」そんなことではなかったかと思います。私も、その場に居たら、同じようなことを思ったかもしれません。しかし、神様が主イエスの栄光に輝く姿を弟子達に見せたのは、そんなことの為ではありませんでした。後にペトロは、この時のことを思い起こして、ペトロの手紙二1章16〜19節に「 わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子。わたしの心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明けの明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください。」と記しました。後になって、ペトロにとってこの山上の変貌の出来事は、永遠の神の国を確信させ、福音を力強く宣べ伝えていく根拠となったのです。実に、神さまが弟子達に主イエスの栄光のお姿を見せられた理由もそこにあります。この栄光の姿、永遠の命を知った者として、弟子達に十字架の道を歩ませる為だったのです。ですから、神様はモーセとエリヤの姿を雲の中に包むと、雲の中から、「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け。」と言われたのです。「これに聞け」とは、「このわたしの子であるイエスに聞け」ということです。そして、この主イエスが弟子たちに告げられたことこそ、「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」ということだったのであります。つまり、ここで神さまは弟子達に対して「この私の愛する子であるイエスが歩む十字架への道は、復活の命へと続く。そしてあなた方も、この主イエスに聞き、従い、十字架を背負って行くならば、まことに栄光に輝く、永遠の命へと至る。」そう、神様は弟子達に告げられたのであります。

 私は、この山上の変貌の場面を思い描くとき、他の二つの主イエスの生涯の場面と重なってきます。この山上の変貌の場面は、主イエスが弟子達と共に祈られたときの出来事でした。その間連で思い起こすのは、ゲツセマネの園における主イエスの祈りの場面です。マタイ・マルコの福音書によるならば、この時も主イエスと共にいたのは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人でした。そして、主イエスはその時、次の日の十字架を思い、血の滴りのような汗を流し、切に祈りました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」この山上の変貌の時の祈りの姿とは、正反対と言っても良いような姿でした。しかし、主イエスのゲツセマネの祈りの姿と、山上の変貌の時の姿とは、ネガとポジのような、同じ主イエスというお方を別の面から光を当てているような、二枚で一対になっているものなのではないかと思うのです。それは、まことの神の子としての栄光の姿と、まことの人の子としての苦しみの姿。復活の栄光の命と十字架の死。この二枚がセットになって、まことの神にしてまことの人という、救い主イエス・キリストの姿になるのだと思うのです。

 そして、もう一つの場面は、主イエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた場面です。この時も、天から「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者。」という声がありました。この山上の変貌の時の神様の言葉と同じです。主イエスが洗礼をお受けになったのは、これからいよいよ、救い主としての公の生涯、それは、十字架への歩み以外のものではありません、その歩みを歩み出される時だったのです。そして、この山上の変貌の時は、この直後、9章51節から主イエスがエルサレムへと向かう歩みへと踏み出されるのです。この「これはわたしの子」という言葉、神様が主イエスを「我が子」として宣言されたこの言葉は、どちらも十字架へと主イエスが歩み出そうとする直前に、神様から与えられたものだったのです。それはまるで、十字架へと歩み出そうとする主イエスを支え、励ましているかのように聞こえます。しかし、もっと正確に言えば、主イエスが洗礼を受けた時、この言葉を聞いたのは弟子達ではありません。主イエスが聞いたと言っても良いかもしれない。しかし、この山上の変貌の時には、この言葉は明らかに、弟子達が聞いたのです。それ故「これに聞け」との言葉が加わっているのでしょう。弟子達は、「これに聞け」との言葉を受けた。そして、主イエスが弟子達に告げられたのが、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。わたしのために命を失う者は、それを救う。」という言葉だったのです。
 この山上の変貌の場面と主イエスの受洗の場面とは、一体どんな関係があるのでしょうか。そのことを考えてみましょう。何故、主イエスは罪人と共に洗礼を受けられたのでしょうか。それは、私共罪人と共に歩まれる為であります。私共が洗礼を受け、キリストの命に結び合わされる為であります。私共が洗礼を受けることによって、主イエスと同じ所に立ち、主イエスと同じ命に結び合わされるためであります。実に、私共が自分の十字架を背負って主イエスに従って行くことが出来る秘密が、ここにあるのです。誰も苦労などしたくない。十字架なんて背負いたくない。そうでしょう。しかし、洗礼を受け、キリストの命に結ばれることによって、そのような私共の頑な心が砕かれるのです。キリストと共に、キリストの足跡を踏んで歩んでいきたいと思うようになるのです。何故か。それは、洗礼を受けることにより、聖霊が注がれ、キリストが私共の中で生き、働き始められるからであります。主イエスに聞く、主イエスに従うということは、ここからしか始まりません。私共の心のかたくなさは、主イエスの言葉を何度聞いたとしても、それが自分にとって辛いこと、嫌なことであるならば、そんなことは聞かなかったことにしよう、そんなふうに働くのです。本当に頑固なのです。聞いても、聞いても、聞かないのです。ところがそのような私共が、洗礼という恵みの手段に与る中で変えられるのです。変えられてしまうのです。そして、そこに生まれるのが、日々自分の十字架を背負って、キリストに従おうとする、栄光への歩みなのでありましょう。
 私共は、十字架への歩みが、栄光へと続くことを知っています。十字架が復活へと続くことを知っている。それ故、日々の歩みの中で、神様の為に、主イエスの為に、隣り人の為に、自分を献げて生きるという、十字架を背負って歩むことへと一歩を踏み出すことが出来るのであります。すでに、栄光のキリストが聖霊として私共の中に宿っていて下さるからであります。よいですか皆さん、私共は確かにとるにたりない、小さな、罪深い者です。しかし、私共は洗礼を受けた者です。それによって、キリストと結び合わされたのです。キリストが私共の内に宿っているのです。そこに、私共の絶大な価値があります。そして私共の思いを超えた力の源があります。我が内に宿るキリストを汚してはなりません。キリストと共に、十字架を背負って、栄光への道を、この一週も又、歩んでまいりましょう。

[2006年3月12日]

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