ペトロは主イエスの「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」との問いに、「神からのメシアです。」と答えました。この答えこそ、教会の二千年の歴史を貫く、信仰告白でありました。主イエスを、まことの神の子、救い主として告白する。ここに、全てのキリスト者の信仰の源流があります。キリスト者は、洗礼を受けて新しくキリスト者として生まれ変わった者でありますが、この洗礼には父・子・聖霊の三位一体の神様に対しての信仰告白がともないます。私共でしたら、日本基督教団信仰告白を告白して、洗礼を受ける訳です。そしてこの信仰告白の中心にあるのは、何といっても、主イエスをまことの神の子、救い主、メシアとして告白するということなのです。そのことは、信仰告白の歴史を見れば判ります。現在、世界中のキリスト教会、カトリックもプロテスタントもギリシャ正教などの東方教会も、全てのキリスト教会がアーメンと言って告白しているもの、これを「世界信条」とか「基本信条」と言ったりしますが、私どもがいつも礼拝の中で告白している使徒信条やニカイア信条のことです。これらには、皆、三位一体の神様への告白がなされています。しかし、元々三位一体の神様への告白ではなかったと言われています。元々は、主イエス・キリストに対しての告白だけだった。それは使徒言行録における洗礼の場面を見れば判ります。なぜなら、父なる神様については当然のことであって、ことさら告白する必要がなかったということなのだろうと考えられています。ユダヤ教とキリスト教の決定的な違い、それは主イエスをメシアとして告白するかどうかということなのです。このキリスト告白の前後に、父なる神への告白と聖霊なる神への告白が加わって、現在のような形になったのです。このことは、現在の使徒信条の形を見るだけでも判ると思います。実にキリスト告白の部分が、全体の2/3以上を占めているのです。私共の信仰は、主イエスが語った教えや普遍的な真理を信じるというよりも、実に主イエスというお方を信じるということなのであります。単に「教え」を信じるのではないのです。主イエスを信じるということは、主イエスを愛することであり、主イエスを信頼することであり、主イエスに従って生きるということなのです。
主イエスはペトロのメシア告白、キリスト告白を受けまして、誰にも話さないようにと戒められてから、ご自身の受難予告と復活予告を告げられました。多分、この十字架と復活の予告を告げられました時、弟子達は主イエスが一体何を言っているのか、さっぱり判らなかったのではないかと思います。それは、このルカによる福音書にはありませんが、マルコとマタイが同じ記事を記したところには、主イエスのこの予告を受けてペトロが主イエスを「諌めた」とあるのです。「イエス様、メシアともあろう方がそんなことを言ってはいけません。そんな事があるはず無いではありませんか。」、そんな風にペテロは主イエスを諌めたのでしょう。何故なら、弟子達はメシア・救い主とは終末における神様の審判を行い、新しく世界を造り変える神の力を持つ方としてイメージされていたからです。主イエスは、確かに救い主であられました。しかし、その救い主としてのお姿は、弟子達がイメージするようなものではなかった。そのことを明確に示されたのが、この受難予告だったのです。
主イエスは、ペトロのメシア告白、キリスト告白を受けて、受難予告を告げました。それはペトロに代表される弟子達の理解を正す為であったと考えて良いと思います。主イエスはここで自分のことを「人の子は」と言って語り出されています。主イエスはご自身のことを、決して「神の子」とか「メシア」・「キリスト」とは言われませんでした。弟子達がそのように呼ばれるのを受け入れつつ、ご自身では決してそのようには呼ばれず、いつも「人の子」と申されました。この「人の子」という言葉についても、話し始めればキリがない程、旧約以来のたくさんのイメージを語らなくてはなりませんけれど、ただ言えることは、主イエスは弟子達の救い主というイメージとは違う、本当の救い主の姿を告げようとされた時、このような「人の子」という言葉をお使いになったのではないかと思うのであります。主イエスは、ペトロのメシア告白を受けて、それを正しい形に導いていかなければならなかったのです。ですから、ペテロのメシア告白を受けながら、それに乗るのではなくて、ご自身を「人の子」と言われたのでしょう。
実に、同じメシア・キリスト・救い主という言葉であっても、それがイメージすることはずいぶん違います。もし、弟子達がイメージしていたメシア像でいきますと、主イエスはその力をもってローマと戦い、これを破り、力による新しい世界秩序を立てることになる。そうなると、主イエスの弟子達は、その新しい世界において、主イエスの側近として、あるいは大臣として力を持つ。そしてその時には、弟子達は栄華を極めるということになるはずなのです。しかし、主イエスがもたらす新しい神様の秩序とは、そのようなものではありませんでした。そもそも、メシアである主イエスご自身が十字架におかかりになるのです。とするならば、その弟子達も又、この世の栄華を極める道ではなく、苦難の道を主イエスに付いて歩まなければならなくなるのであります。主イエスに対してキリスト告白する者は、この主イエスを愛し、この主イエスを信頼し、この主イエスに従って生きる者となるということなのですから、主イエスがどのような救い主であるかということによって、どのように生きるのかということが決まってしまうのであります。ですから、主イエスはペトロのメシア告白を受けるとすぐに、ご自身の受難予告と、「自分について来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」という主イエスの弟子としての歩みを告げられたのであります。キリストの受難予告と主イエスの弟子としての歩みは、堅く結びついているのです。
ここで主イエスが告げられた主イエスの弟子としての道は、大変厳しいものであります。このような主イエスの言葉に出会いますと、私共はいささか怯んでしまいます。「私には出来ません。私はそんな生き方が出来る者ではありません。」そんな思いが、私共の心の中に湧いてくるかもしれません。しかし、これは主イエスの言葉、主イエスのご命令ですから、割り引くことは出来ません。この主イエスの御言葉を、少していねいに見てみましょう。
主イエスは、まず「わたしについて来たい者は、」と言われます。これは、主イエスを救い主・メシアとして告白する者は、と言い換えても良いでしょう。主イエスを我が主、我が神、我が救い主として告白する者は、ただ口で告白するだけでは済まないのです。主イエスにキリスト告白をする者は、主イエスを愛し、この方に従って歩む、主イエスが歩まれた道をたどるようにして歩んで行く者となるのです。私は、この主イエスの後について歩んでいくイメージを、雪道を歩く時のイメージと重ねることが出来るのではないかと思います。膝かその上まで深く降り積もった雪道を一人で歩くのは、本当に大変です。十分もしないうちに息が上がってしまいます。しかし、自分の前に誰かが歩いてくれる。その前の人が雪をかき分け、雪を踏み固めてくれるのなら、話は別です。その人のすぐ後ろを歩くのはそれ程大変ではないのです。主イエスが、「わたしについて来たい者」と言われたのは、そういうことではないかと思うのです。私共は自分で道を造っていくのではないのです。そうではなくて、主イエスが私共に先立って、道をかき分けて下さっているのです。私共は、その主イエスの後ろ姿を見ながら、そこから目を離さないようにして、主イエスが歩まれた道の上を歩んでいくのです。
そして、この主イエスの後についていく歩みは、「自分を捨てる」という歩みとなります。この「自分を捨てる」というのは、「キリストを知る前の古い自分を捨てる」ということです。自分のこの世における利益だけを追い求めるような生き方を捨てるということです。自分がかわいい、自分の楽しみ、喜びの為だけに生きる、そういう生き方を捨てるということなのであります。ここでは、「自分を捨てる」ということが目的ではありません。そうではなくて、主イエスに従うということが目的です。このことを忘れてしまいますと、「自分を捨てる」という精神修養のようなことが大切だということになりかねません。主イエスが言われた「自分を捨てる」というのは、そういうことではありません。主イエスに従う為のものです。ですから、次の「日々、自分の十字架を背負う」ということと重なるのです。この「自分の十字架」というのは、自分の病気とか、苦しみとかということを意味していません。しばしば、「自分のこの病気は、自分の十字架です。」というような言い方をする人がいますが、ここで主イエスが言われた「自分の十字架」とは、そういう意味ではないのです。この「自分の十字架」とは、神様の為、主イエスの為、そして隣人の為に自分が担う重荷のことなのです。愛の重荷です。それが、「自分の十字架」なのです。主イエスは、自分の為に十字架の苦しみを担われたのではない。私共の為に十字架の苦しみをお受けになったのです。十字架とは、そういうものです。愛の労苦なのです。ここで「日々」と主イエスは言われました。何も大それたことを、主イエスは私共に求められたのではありません。毎日毎日の歩みの中で、神様の為に、隣り人の為に、愛の重荷を担いなさいと告げられたのです。これは、「自分の十字架」ですから、人と比べて、自分の十字架は大きいの、小さいの、重いの、軽いのと言うようなものではないのです。自分だけの、自分が神さまにそこに召されて担う重荷です。そして、それは「日々」担わねばならないものなのです。まことに、日常的な営みの中でなされていくものなのです。一世一代の大それた十字架が求められているのではないのです。まさに、日々の歩みの中で、愛の労苦をいとわない、その歩みが主イエスに従っていくということなのであります。
以前、「夢を語る会」の中で、ある長老が「一日一伝道」と言われました。今日は誰々に葉書を書いた。誰々の所をお見舞いした。電話をかけた。誰々にイエス様の話をした。そして、誰々の為に祈った。そんな風に、一日一つは伝道しようと言われました。私もなる程と思いました。これも又、一つの「日々、自分の十字架を背負って主イエスに従う」ということの具体的な展開なのだと思います。
主イエスを救い主として告白する者は、この自分の十字架を背負い、自分を捨てて、主イエスに従うという中で、最早、自分の利益の為に、それだけの為に生きるということが出来ない者とされてしまうということなのであります。それは、別の言い方をすれば「献身」、身を献げるという生き方をするようになるということなのであります。「献げる」という生き方は、実に新しいのです。主イエスをキリストと告白し、この主イエスに従って歩もうとした時に生まれてくる、新しい生き方なのです。キリストを知るまで、私共は自分の手に何かをつかむ、手に入れる、その為に努力し、生きるという日々を送ってきたのだと思います。ですから、その頃の私共の願いは、何かを手に入れるというものだったのではないかと思います。そして、それは多くの場合、目に見える何かであったのではないかと思います。富であれ、地位であれ、名誉であれ、家であれです。しかし、主イエスと出会って、私共はそういうものが一切欲しくなくなったとは言いませんけれど、それ以上に、献げるという生き方へと召されたのではないでしょうか。手に入れるのではなく、手放す。その最たるものが、自分の富であり、自分の時間でしょう。富と時間を、神様の為に、隣り人の為に献げる。これが、十字架にかかった主イエス・キリストに従って生きる者の新しい生き方なのです。何故なら、主イエス・キリストご自身が、私共の罪の赦しの為、私共の永遠の命の為に、十字架の上でご自分の命を献げて下さったからです。主イエス・キリストが十字架において私共に新しく拓いて下さった道、それが「献身」という歩みなのであります。牧師だけが献身者なのではありません。少なくとも、万人祭司である福音主義教会に生きる私共にとっては、全てのキリスト者が、献身者なのです。
この献身の歩みは、歯を食いしばって、なかなか捨てられない自分をそれでも何とかして捨てて、必死になって歩んでいくということではないと、私は思います。この献身の歩みは、キリストを知り、この方による罪の赦し、永遠の命を受ける者とすでにされている喜びの中で、軽やかに捨てていく、喜んで献げていく、そういう明るい、楽しい歩みなのであります。それは、この主の日の礼拝へと集う時の足どりと似た軽さを持つものなのではないでしょうか。日曜日の朝、礼拝に集う皆さんの足取り、表情を見ていると、暗い顔をして、重い足取りで来る人はあまり居ない。礼拝は、この時間をただ神さまを拝むためだけに使う。神さまに時間を献げるのでしょう。それは、喜びの時、楽しみの時ではないですか。
それは、こう言っても良いでしょう。主イエスの十字架は、十字架では終わらない。復活へと続いている。主イエスの十字架は、この復活の光に照らし出された十字架です。私共の献身の歩みも同じなのです。この地上での歩みを突き抜けて、天上へと、神の国へとつながっている歩みです。神の国の光に照らし出されて新しい歩みなのです。
3月1日(水)から、レントに入っています。受難節、四旬節とも言いますが、イースターの前、日曜日を除く40日間、主のご苦難を覚える日々として代々の教会が覚えてきました。古くはこの期間は断食がなされました。私共は別に断食をする訳ではありません。しかし、主イエスが私共の為になして下さったあの十字架の業を覚えて、日々、自分の十字架を背負い、神と人とを愛し、神と人とに仕える歩みをなしてまいりたいと思います。
[2006年3月5日]
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