主イエスに遣わされた12人の弟子達は、村から村へと巡り歩き、福音を宣べ伝え、病気をいやしました。それは弟子達にとって、驚きの体験、喜びの体験でした。今まで、主イエスがなさること、語ることをすぐそばで見て、聞いていた彼らです。その主イエスがなさった様に自分達も人々をいやし、主イエスが語った様に福音を告げたのです。これは彼らにとって、神様は生きておられ、自分と共におられ、働いて下さっていることを知らされる体験でした。彼らは主イエスのもとに帰ってきて、自分達が行ったことを、一つ一つ主イエスに報告しました。それは、喜びと興奮に満ちた報告であったに違いありません。主イエスも又、その報告を聞きながら、お喜びになったことでしょう。主イエスは、その報告を弟子達から聞くと、弟子達と共にベトサイダという町に退かれました。「退かれた」というのは、何もしない、ただ神様との交わり、祈りの為だけに一切の人との交わりから退かれたということでありましょう。日常の営みから退かれたということでしょう。伝道の日々の後で、休みを取るという意味もあったかもしれません。しかしそれ以上に、伝道の報告は、誰よりもまず神様に対して為されなければならないからであります。ただ喜び、浮かれていれば良いのではないのです。神様の前に感謝をささげ、又、自分達の欠けも冷静に見つめなければなりません。その為に主イエスは弟子たちを連れて退かれたのです。私共も神様の前に退く時というものをを大切にしなければならないのではないでしょうか。教会は様々な事を行いますが、それは全て神様の栄光を求めての業でしょう。とするならば、私共は一つの業が終わったら、退く時というものを持たねばならないのではないでしょうか。私共は事を始める前の祈りということは少し身に付いているかもしれません。教会学校が始まる前にも祈りの時を持ちますし、礼拝の前にも備えの祈りの時を持ちます。しかし、事が終わってからの祈りということはどうでしょうか。事が終わり、祈りをもって散会していく。これも又、身に付けていきたい恵みの習慣ではないかと私は思うのです。
さて、主イエスと弟子達は退いたのですが、群衆たちは主イエスが退いているのを許しませんでした。主イエスの後を追ったのです。イエス様は本当にすごい方だと思わされますのは、こういう時でも群衆を追い返すようなことはされなかったということです。イエス様にしても弟子達にしても、休むことが必要ではなかったかと思うのです。群衆は、そんなことはおかまいなしにやってくるのです。今は、大切な祈りの時です。その為に退いたのです。そういう所に人々は来ます。私などは、「少し休ませてください。」と言ってしまいそうなところです。しかし、主イエスは人々を受け入れます。11節に「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った。イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。」とあります。「イエスはこの人々を迎え」たのです。そして、福音を告げ、癒されたのです。
驚くべき事は、この日の夕方に起きました。主イエスの弟子達は、イエス様に告げました。「群衆を解散させてください。」これは、弟子達の集まって来た人々に対しての配慮から生まれたもののように聞こえます。主イエス達は祈る為に退かれたのですから、人里離れた所に来ていたのです。ですから、食べる物も、泊まる所もありません。もう日が傾いてきていますから、夜になる前に解散させて、それぞれ食べ物と泊まる所を確保させるようにしましょう。そう弟子達は言ったのです。弟子達の発言は当然のことのように聞こえます。しかし、この時の群衆の人数は、14節を見ると、「男が五千人ほどいた」とあります。男だけで5千人です。多分、女や子どもの方が多かったと思います。ですから、全体では1万人から2万人くらいの人が集まっていたと考えて良いと思います。とすると、実はこの当然と思える判断、現実的と見える配慮は少しも現実的でなかったということが判るのです。1万人〜2万人分もの食べ物は、近くの村に行っても決して手に入らないことは明らかだからです。つまり弟子達は、自分達の手に余る群衆の人数に困って、さっさと解散させて、後は自分の知ったことじゃない。そこまで言うのは言い過ぎかもしれませんが、そんな心の動きがあったのではないかと私には思えるのです。主イエスは、まるでそのような弟子達の心を見透かしているかのように、13節「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と言われたのです。私はこういう所で、すぐ計算をしたくなってしまうのですが、1人1合の米と考えるとだいたい200g、10人で2s、100人で20s、1000人で200s、1万人で2t、2万人で4tです。4tトラック1台分の米が必要ということになります。そんな食べ物が、どこにあるのか。弟子達は、主イエスのこの言葉に面食らうというか、何を馬鹿なことを言うのかと思ったに違いありません。弟子達は答えます。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません。」この五つのパンと二匹の魚という量は、主イエスと12人の弟子達が食べるにも、十分とはとても言えない量です。ひょっとすると、弟子達は群衆のことを心配してではなくて、自分達の夕食のことを心配して、「群衆を解散させてください。」と言ったのかもしれません。弟子達は、主イエスに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」と言われて、「食べ物を買いに行かないかぎり無理です。」そういう返事をします。ここには、主イエスの言葉に戸惑うと同時に、何ということを言うのかという批判めいたニュアンスも読み取ることが出来るでしょう。今からどうやって4tもの食糧を買いに行けるというのか。そりゃ無理ですよ。それが、弟子達の正直な思いであったと思います。
主イエスは群衆を50人ぐらいずつ、これも成人男子だけの人数ですから、実際には100人ぐらいずつであったと考えて良いと思いますが、それぞれ組に分けて、座らせるようにと言われました。100組ぐらいの組が出来ました。すると、主イエスは、五つのパンと二匹の魚、この魚というのは私どもの身近なもので言うとアジの干物のようなものと考えていただければ良いかと思いますが、それを手にして、神様に賛美の祈りを唱え、裂いて弟子達に渡し、配らせました。すると、どうでしょう。たった五つのパンと二匹の魚しかないのにもかかわらず、いくら配っても、パンも魚も無くならないのです。とうとう、弟子達はそこに集まった群衆の全ての人に配ることが出来たのです。しかも、人々は食べて満腹し、残ったパン屑を集めると、十二籠もあったのです。十二籠というのは、12人の弟子達が一人一つずつ籠を持って、それぞれがパン屑でいっぱいになっていたということでしょう。
皆さんは、この出来事をどう読むでしょうか。正直な所、主イエスの奇跡の中で、この出来事が最もイメージが浮かびにくいのではないかと思います。足の悪い人が歩くようになる、目の見えない人が見えるようになる。そういう奇跡は、何となくイメージ出来るでしょう。しかし、この五つのパンと二匹の魚でどうやって1万人以上の人々が満腹するように配ることが出来たのか。どうしても、この五つのパンと二匹の魚が増えなければなりません。配っても配っても無くならない程に、パンと魚が増える。ここには、私共が生活している現実の世界での常識、物理学ではこれを質量保存の法則と言いますが、物質は、形を変えても、つまり、水が氷や水蒸気のように形を変えてもその量を変えることはないという、大原則に反するのです。ですから、しばしばこの奇跡は、このように合理的に解釈されてきました。イエス様と弟子達には五つのパンと二匹の魚しかなかったけれど、それを配り始めると、人々も自分の持っていた弁当を差し出し、分け始め、ついには皆が食べて満腹になることが出来たというものです。この解釈は、まことに現実的で、人々の善意を刺激するものです。この結論は、だから私達も分け合いましょうという話になります。私は、この解釈は100%間違いだと思っています。このように理解するなら、この出来事には何のつまずきもありません。けれど、それならば、これは奇跡でも何でもないということになります。しかし、そうではないのです。この出来事は、質量保存の法則と真っ向から対立するのです。私どもの現実世界の大前提と真っ向から対立するのです。この信じ難いことが起きたのです。何故か。それは、主イエスが、まことの神であられるからです。無から有を造り出した、天地の造り主であられる、まことの神であられるからであります。この奇跡こそ、実に主イエスが誰であるかということを明確に示しているのです。
私共の手にしている聖書には、4つの福音書があります。この4つの福音書全てに記されている主イエスの奇跡は、実はこの奇跡だけなのです。それは、何を意味しているのでしょうか。それは、この奇跡が、他のどの奇跡よりも弟子達を驚かせ、深く心に刻ませたということではないかと思うのです。この奇跡において、弟子達はただ主イエスのそばで見ているだけではありませんでした。彼らは自分の手で配ったのです。そして、配っても配っても無くならない驚きを体験したのです。弟子達は、自分の手で食べ物を与えたのです。彼らは驚き、喜び、そして、主イエスというお方が誰であるかということを知らされたのです。だから、この出来事の後で、ペトロは主イエスの「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」という問いに対して、「神からのメシアです。」という信仰を告白するに至ったのであります。このキリスト教会最初の信仰告白を生み出した奇跡が、この五千人の給食という出来事だったのです。
配っても配っても無くならないパン。皆が満腹になるパン。これは後に、主イエス・キリストの体である聖餐のパンを指し示すものとして理解されるようになりました。教会は二千年の間、この聖餐のパンを与える者として立ち続けてきたのです。聖餐に与るたびごとに、弟子達は、五千人の人々にパンを配った時のことを思い起こし、それを為された主イエスというお方への信仰、まことに天地を造られた神様ご自身であるという信仰を確かにしていったのであります。
弟子達は、自分の手には、「五つのパンと二匹の魚しかない。」と言ったことを恥じたでしょう。主の御業を信じ、それに委ねることが出来ず、自分の手元にあるパンと魚でしか事を判断することが出来なかった自分を恥じただろうと思います。ここで弟子たちは、神様が共におられるならば、五つのパンと二匹の魚で十分であることを知らされたのです。教会も私共も、いつも五つのパンと二匹の魚しかないのです。主イエスが事を為せと言われるご命令を実行していくには、いつも、あまりに小さい器であり、欠けに満ち、とても出来そうにないのです。しかし、主イエスはいつも言われるのです。「あなたがたが与えなさい。」他の誰でもない、私共が自分の手であたえなければならないのです。私共が「無理です。」と神様に言う時、私共は喜びましょう。何故なら、その時私共は、自分では無理と思えることを神様が為して下さる、その神の奇跡の中に自分は歩み出そうとしているからであります。神様による奇跡の歴史。それがキリストの教会の歴史なのであります。やってみる前に、「無理だ、出来ない」と言うのをやめましょう。出来ない私共を百も承知で、神様は私共を召し、「やりなさい」と命ぜられているからです。主イエスが命じられるということは、主イエスがその御力をもって為して下さるということなのです。弟子達は、ただパンを配っただけです。パンを増やすことは弟子達のやることではないのです。主イエスが増やして下さるのです。私共はただ配るだけなのです。配っても配っても無くならない、キリストの恵み、キリストの福音、キリストの命を配っていきましょう。
[2006年2月19日]
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