礼拝説教「キリストに遣わされた者」エレミヤ書 1章4〜10章 ルカによる福音書 9章1〜6節 小堀 康彦牧師 主イエスは12人の弟子達をお遣わしになりました。これは、主イエスが十字架にかかり復活された後に、弟子達が全世界に向かって遣わされる前の、予行演習のようなものではなかったかと思います。しかし、ここには後で本格的に遣わされる時の全てが備えられておりました。弟子達はこの時はまだ判っていなかったと思いますけれど、後になって大変良い経験になっていたことを知ったのではないかと思います。イエス様というお方は、本当に弟子達を良く育てる、配慮に満ちた教育者でもあると思わされます。私共にとりまして、最初の伝道体験というものは、とても大切なのです。ここで本当に良い体験、それは素朴に伝道は楽しいという思いを持てるような経験ですが、そういう経験をいたしますと、その人の中で伝道ということに対して積極的な、前向きな姿勢というものが出来上がっていきます。逆に、最初の体験がつらい悲しい体験をいたしますと、どうしても後までそれを引きずってしまいます。伝道者にとりまして、夏期伝道とか、最初の任地というものは非常に大きな意味を持つものなのであります。これは伝道ということに限らず、教会での奉仕ということについても、同じことが言えるのではないかと思います。楽しい教会生活、楽しい伝道体験というものが、とても大切なのです。つらい、大変な思いをするのは、その後で良いのです。私は、教会員の皆さんに、何よりも楽しい伝道、楽しい奉仕、楽しい教会生活、楽しい信仰生活をして欲しいと思っているのです。
さて、イエス様は弟子達を遣わされるに当たりまして、二つのものをお与えになりました。一つは「力と権能」です。もう一つは「伝道者の心得」とでも言うべきものです。今、この二つについて見てまいりましょう。
さて、主イエスは弟子達に力と権能をお与えになりましたが、それを行使する弟子達に心得ておくべきことを示されました。三つあります。第一に旅には何も持っていかないこと、第二に一つの家にとどまること、第三に自分を迎え入れない町からは足についた埃を払い落として出ていくことです。 次の心得の、「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。」というものですが、これも第一の心得と重なってきます。弟子達は、主の言葉を告げ、いやしをなし、悪霊を追い出す。すると、弟子達を招いて家に泊めてくれる人が出てきます。しかし、その家が豊かな家とは限らない。貧しい場合もあるでしょう。そういう時も、自分への待遇がもっと良い家へと渡り歩くようなことはするなということなのです。あなた方は主の養いに生きるのであって、報酬を求めてこの業についているのではないからだ、ということなのであります。当たり前のことであります。 第三の心得は、私には長い間良く判りませんでした。「足についた埃を払い落とし」て行くというのは、「私とあなたとは関係ない」という意思表示でしょう。イエス様は、どうしてこんな冷たいことを仰ったのだろうと思っていました。しかし、伝道者になって、この言葉が何と慰めに満ちた主の言葉であろうかと感じ入りました。伝道者は伝道の成果が上がらないと、自分の能力のなさを責めるものなのです。そして、自分は牧師に向いていないのではないかとさえ思い始めます。そのような経験を一度もしたことのない伝道者は一人も居ないだろうと思います。しかし、伝道というものは、本来神様の御業です。会社の営業成績のようなものではないのです。伝道者は、そんなことは誰でも知っています。しかし、それを判っていても、やっぱり自分の能力がないからではないかと思ってしまうものなのです。主イエスの弟子達だって、行く所行く所で、いつも大歓迎された訳ではないでしょう。パウロの伝道の様子を使徒言行録は伝えていますが、そこに記されているパウロの伝道とていつも成功を収めていた訳ではありません。イエス様は、そのことも良くご存知だったのです。そして、こう言われたのです。5節「だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい。」主イエスは、「あなたの業も言葉も受け入れられないとしても、それは受け入れない人の責任、問題なのであってあなたの責任ではない。」そう言われたのでありましょう。もちろん、伝道者自身に問題があることもあるでしょう。しかし、そればかりではない。伝道は神様の業。そのことを良く良く心にとめなさいということなのであります。そうでないと、伝道の成果が上がると自分は大したものだという勘違いが起きてしまうことにもなりかねないのであります。
主イエスはこのように弟子達に力と権能を与え、伝道の心得を与え、弟子達をお遣わしになりました。主イエスは弟子達を「わたしに従う者になりなさい。」と言って召されましたけれど、それは弟子達を遣わす為だったのです。私共は毎週ここに集まり礼拝を守っています。この礼拝は、週報を見れば判りますように、「招き」から始まっています。そして、「派遣」で終わっているのです。私どもはここに集まり、礼拝し、そして派遣されていくのです。この礼拝が終わると、私共はそれぞれの場へと散っていきます。それは、思い思いの所へ行くのではないのです。神様によって、遣わされていくのです。それが家庭であれ、学校であれ、職場であれ、私共はキリストの恵みを告げ、神の御支配と守りとを証しする者として、遣わされていくのです。そしてこの礼拝の中心にあるのは、「み言葉」の部分です。この「み言葉」において、私どもは遣わされた者として生きる為に必要な養いを与えられる所と言っても良いでしょう。主イエスの弟子達は、主イエスに遣わされるまで、主イエスの言葉を聞き、主イエスの御業を見てきたのです。その養いがあって、初めて遣わされていくことが出来たのでしょう。私共は主の言葉に聞くのです。そして、その養いを受け、遣わされていくのです。 ただ今から、聖餐に与ります。キリストの体と血に与り、キリストの命を受けます。この聖餐に与る者は、キリストが共にいて下さるということを身をもって味わうのであります。このキリストが共におられることを知らされた者として、私共はここから遣わされていくのです。キリストを知らない世界に、闇が深くおおっている世界に、まことの光、光より光りである主イエス・キリストを高くかかげる者として、遣わされていくのです。 [2006年2月5日] |