礼拝説教「キリストに触れた者」イザヤ書 6章1〜7節 ルカによる福音書 8章40〜48節 小堀 康彦牧師
主イエスはゲラサの地方から戻ってまいりました。そこには、主イエスを待っている人々がいました。悩み、苦しみを抱えた人々が主イエスを待っていたのです。その中に、12才くらいの一人娘が死にそうになっている、ヤイロという会堂長がおりました。ヤイロは主イエスの足もとにひれ伏し、自分の家に来て欲しい、自分の家に来て一人娘を助けて欲しい、そう願ったのです。主イエスは、このヤイロという会堂長の願いを聞き入れ、この人の家へと行くことにしました。事件は、その途中で起こりました。12年間出血が止まらない女性が、後ろから主イエスに近づき、主イエスの服の房に触れ、いやされるということが起きたのです。
さて、この主イエスにいやされた女性ですが、多くの注解者達がこの女性の病気は、婦人病の一種ではなかったかと考えています。「月のもの」が止まらない。そして12年もの間、医者に診てもらいながらも治らない。その間に、全財産を使い果たしてしまったというのです。この女性の病気が、婦人病の一種だとすると、律法に従って、この女性は12年の間、人前に出ることが出来ない、通常の人との交わりを断たれていたということになります。月のものがある間は、女性は汚れているということになっていたからです(レビ記15章)。12年にもおよぶ肉体の病気。しかも、社会生活から閉め出された12年間の日々。それがどれ程この女性を苦しめ、そして又、この家族を苦しめていたか、私共は少し想像することが出来るのではないかと思います。長い病気というものは、本人だけではなく、家族も苦しめるものです。この女性は、その治療の為に全財産を使い果たしたというのですから、この家族は本当にこの女性を親身に看ていたのだと思います。しかしそうであるが故に、家族に対して申し訳ないという思いも又、彼女を強く苦しめていたに違いないと思うのです。彼女は、主イエスの噂を聞き、この方なら私をいやして下さるのではないか、まさにワラをも掴む思いで、ここに来たのではないかと思います。彼女は、会堂長のヤイロのように、堂々と面と向かって、主イエスに願い出ることは出来ませんでした。汚れた者として、人前をはばかる思いがあったからです。だから、彼女は後ろからそっと近づき、主イエスの服の房に触れたのでしょう。
この女性が主イエスの服の房に触れると、たちどころに、この女性の病はいやされました。この時、この女性は自分から、自分が主イエスに触れたのだと思っていました。しかし、ここで起きたことは、実はその逆なのです。この女性が主イエスの服の房に触れた時、主イエスがこの女性に触れたのです。この女性は、神の子キリストに触れられたのです。触れたつもりが触れられていた。この逆転は大切です。この逆転を、パウロは、ガラテヤの信徒への手紙4章9節で、「今は神を知っている、いや、むしろ神から知られている。」と申しました。パウロは、自分が神さまを知っていると言った途端に、それを打ち消し、神さまに自分は知られていると告白しているのです。信仰とは、こういうものでしょう。私共も自分の信仰が揺れますと、せめて主イエスの衣の房にでも触れたい、主イエスを実感したい、そう思うのではないでしょうか。せめて衣の房にでも。しかし、私共が主イエスの衣の房に触れたいと願った時、実は、私共がすでに主イエスに触れていただいている、捉えられているということなのです。 主イエスは、この女性の話を聞いて、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と言われました。ここで私共は、一体、この女性にどれ程の信仰があったのかと思うのです。この女性は、主イエスの服の房に触れれば、自分の病はいやされるのではないかという、それこそ、ワラをもつかむ気持ちで、主イエスに触れたのでしょう。とても、立派な信仰がこの女性にあったとは言えません。いうなれば、あるか、ないか判らないような信仰であります。しかし、主イエスは、そのような「あるか、ないかの信仰」をも受け取って下さり、「あなたの信仰があなたを救った。」と言って下さっているのであります。実に、私共も又そうなのであります。私共の信仰も又、人に誇れるようなものではない。あるか、なきかの信仰であります。しかし、主イエスは、そのような信仰をきちんと受け取って下さるのです。救われるに十分な信仰として、お受け取り下さるのであります。そして言われます。「安心して行きなさい。」あなたのそのあるか、なきかの信仰を、私はちゃんと受け取った。あなたは私のもの。だから、安心して行きなさい。そう、主イエスは言って下さるのであります。病気が治った。それで、彼女は十分だと思ったことでしょう。しかし、人生というものは、一つの山を越えれば、それで万事がうまくいくという訳にはいかないのです。次から次へと、越えねばならない山が目の前に現れてくるものなのであります。主イエスは、ここで、この女性が立ち向かわねばならない事柄に対しても、大丈夫、安心して行きなさい。私が共にいる。そう言って下さったのであります。この主イエスの祝福の中で生きる者となる。このことこそ、主イエスがこの女性に本当に与えたかったものであり、私共に主イエスが与えて下さっているものなのであります。
先ほどイザヤ書6章をお読みいたしました。ここにはイザヤの召命の記事が記されています。イザヤは神殿で聖なる神様の現臨に触れ、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者」と告白します。すると、セラヒィムのひとりが、祭壇から火鋏で取った炭火を持って飛んで来て、それをイザヤの口に触れさせて言いました。「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された。」イザヤは、聖なる神さまにセラヒィムを通して聖なる神さまに触れられ、罪を赦されたのです。実に、この12年間出血が止まらなかった女性の上に起きたことも、これと同じことだったのではないでしょうか。聖なる神の御子、イエス・キリストに触れられて、罪を赦され、「安心して行きなさい」という主イエスの祝福を受けたのです。これこそ、主イエスがこの女性に与えたいと願ったことだったのであります。 [2006年1月22日] |