富山鹿島町教会

クリスマス記念礼拝説教

「我らの中に宿られた真の光」
創世記 1章1〜5節
ヨハネによる福音書 1章1〜14節

小堀 康彦牧師

 クリスマス、おめでとうございます。この一年も守られて、今、共々にクリスマスの祝いの礼拝をささげることの出来る幸いを、心から感謝しています。クリスマスを心から喜び祝うことが出来る。それは、私共に信仰が与えられているからでありましょう。信仰がなければ、クリスマスの祝いは忘年会と少しも変わらないことになってしまうでしょう。私は20才で洗礼を受けて以来、このクリスマスの迎え方が全く変わりました。それまでは、家でテレビを見ながら、ケーキを食べる。それだけのことでした。我が家にサンタクロースが来たという記憶もありません。クリスマスで何がうれしいのか、何が楽しいのか、どうして皆が浮かれて騒いでいるのか、少しも判りませんでした。「ばっかじゃなかろうか」と、白けた気分でテレビを見ていたのを思い出します。ところが、洗礼を受け、キリスト者となって以来、本当にクリスマスがうれしくなりました。その喜びは、自分一人で喜んでいれば満足というような喜びではなくて、皆、いっしょに喜びたい。まだこの喜びを知らない人には、ぜひ知ってもらいたい。そういう喜びです。その喜びは、押さえようのない、はじけるような喜びであります。この時期、「クリスマスはクルシミマス」などという冗談が出る程忙しいものであります。しかし、その忙しさは、喜びにつつまれた忙しさです。皆が共に、この喜びに与る為に労する、楽しい忙しさです。どうして、クリスマス・カードを出すのか。どうして、クリスマス・プレゼントをするのか。どうして、キャンドル・サービスのチラシを配るのか。どうして、キャロリングをするのか。どうして、祝会の準備をするのか。どうして、子どものクリスマス会をするのか。それが無ければ、こんなに忙しくはないかもしれません。しかし、それがなければ何とも味気ないクリスマスになるのではないかと思います。私どもが、それらのことを労苦を厭わずに為すのは、全て、一人でも多くの者と共に、この喜びに与りたいからであります。クリスマスの喜びとは、そういうものなのでしょう。

 今朝与えられている御言葉の中に、ヨハネによる福音書1章の9節「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。」とあります。この光とは、主イエス・キリストご自身を指しております。主イエス・キリストが全ての人を照らすのです。暗い、希望のない、喜びのない、不平と不満、不安と恐れとがフツフツと湧いてくる、そんな人も、明るい、希望と喜び、感謝と平安とに満ちた人に変えてしまう。そんな光です。そのまことの光であるキリストが来られたのです。だから、最早、闇は退かなければならないのです。キリストが来られた以上、私共は明日を信じて良いのです。どんなにしんどい日々の歩みをしている人も、全てを良きものに変えて下さる主イエス・キリストの力と導きと守りを信じて良いのであります。主イエスはまことの光です。イルミネーションの光でも、ちょっとした風で消えてしまうような、ローソクのともし火でもありません。太陽のように、全ての者を照らし、暖め、全ての木々を生長させる、力のある光です。ただ、この光に照らし出される為には、閉め切った雨戸を開け放たなければなりません。もう太陽が昇ったのに、まことの光である主イエスが来られたのに、まるで今も夜が続いているかのように雨戸を閉め、暗い部屋の中でゴソゴソしていてはダメなのです。心の雨戸を開け、キリストの光をカビ臭い部屋の中いっぱいに迎えましょう。私共がクリスマスを祝うのは、雨戸を閉めたままになっている家に向かって、もう朝ですよ、まことの光が昇りましたよ、雨戸を開けましょう、そう声を掛けるようなものなのでしょう。
 私はクリスマスが来るたびに思う。クリスマスの喜びは、圧倒的な力を持っている。私共は皆、不安や悩みを抱えています。しかし、クリスマスなのです。主イエスが来られたのです。全ての人を照らすまことの光が世に来たのです。クリスマスの喜びは、私共の抱えている不安や悩みが、小さなものであることを明らかにします。もちろん、私どもが抱えている一つ一つの不安や悩みは、それぞれ深刻なものです。しかし、クリスマスの喜びは、それらをなぎ倒していくのです。不安や恐れの中にある者をクリスマスの喜びが覆い尽くすのです。それはちょうど、ブルドーザーがその圧倒的な力で雪をかき分けて道を造るように、クリスマスの喜びが、全ての不安や恐れを、道の脇へと押しやってしまうようなものです。大雪が降ると、私どもはスコップで雪を除きます。一時間やって、汗まみれになって、やっと10メートルほどの道を造る。ところがそこに、後ろからゴーッという音を立ててブルトーザーがやって来ます。「そこをどけ」と言うのです。ブルトーザーは、あっという間に、雪を両脇に寄せ、道を造ってしまいます。クリスマスの喜びは、このブルトーザーの除雪のように、私どもの不安や恐れを道の脇へと押しやってしまうのでしょう。クリスマスとは、そんな圧倒的な力をもっている出来事なのです。

 もちろん、まだ全ての人の心が、まことの光である主イエス・キリストに向かって開かれている訳ではありません。10、11節を見ますと、「言(ことば)は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。」とあります。この「言」とは、神の独り子である神、造られずして父なる神と永遠の交わりの中におられた、キリストを指しています。「言」とは、ギリシャ語でロゴスと申しますが、このロゴスというのは、言葉という意味には違いないのですけれど、ただ言葉というだけではなくて、理性とか知恵とかいうニュアンスがあるのです。神様の知恵、神様の心としての神様のロゴス、神様の言葉がキリストなのです。このキリストは父なる神と共におられ、父なる神と共に世界を造り、保っておられました。そのキリストが、イエスとして、処女マリアより生まれたのです。しかし、世はこのイエス・キリストを受け入れず、この方が誰であるかを知らず、十字架にかけて殺してしまいました。しかし、世の全ての人がこの方を受け入れなかった訳ではありません。聖書は続けて告げます。12、13節「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」神様に選ばれし者は、この方を 信じ、神の子となる資格が与えられたのです。まことにありがたいことであります。そして、この恵みに与ったのが私共なのであります。
 今日、一人の方が洗礼を受けられ、まさに神様によって新しく、神様の子として誕生する訳であります。キリスト者になるということは、神様によって新しく、神の子として生まれる、生まれ変わるということであります。キリスト者の子は自動的に神の子となる訳ではありません。誰の子であるかというようなことは、一切意味を持ちません。血によってではなく、神によって生まれなければならないのです。それは、神様によって信仰が与えられ、信仰を告白し、洗礼を受けなければならないということであります。主イエスを信じるということは、主イエスの中に自分を委ねるということでしょう。信じ込むのではないのです。信じ込むというのは、自分の中に取り込んでいくことです。自分の考える信仰というものに、神様を押し込めていくことです。しかし、神様が私共に与えて下さる信仰は、神様の救いのご計画の中に、自分の全てをおゆだねし、自分を新しく生んで下さった方の御心に従って生きていこうと志すのであります。ここに自由があり、喜びがあり、平安があります。神様によって新しく生まれた者は、自分の人生の主人が自分自身ではなく、神様であり、主イエスであることを知るのであります。まことの光である主イエスの光に照らし出され、自らの罪と決別し、神の子、神の愛の中に生きる者となる。神様が、自分に悪いことをされるはずがない。だから、大丈夫。その安心の中で生きる者となるのです。
 今日、洗礼を受けられるAさんは、昨年、お母さんを天に送り、この教会で葬式を行いました。お父さんはその前に天に送られています。Aさんは一人っ子でありますから、家族がおりません。しかし、この洗礼から後、Aさんは天の父なる神様の子となります。この天の父は、肉の父よりも力があります。全能の力をもって、これからAさんを守り、支え、導かれます。ですから、そのことを信頼し、日々、祈りを忘れることなく、この父なる神様との交わりの中に歩んでいっていただきたいと思います。そうすれば、必ず神様が守って下さいます。使徒パウロが、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピの信徒への手紙4章6〜7節)と言っている通りであります。

 永遠のロゴス、キリストは、クリスマスにイエスとして肉を取り、処女マリアより生まれ、私たちの間に宿られました。それは、肉体を持つ私共と共にある為でした。14節の「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」とありますが、この「宿られた」という言葉は「天幕を張って住んだ」という言葉です。天幕というのは、移動式の住居です。私共がどこに行こうとも、天幕ごと移動して、主イエスは私共と共にいて下さるのです。主イエスが肉体を取った、人間になられたというのは、私共罪ある人間の身代わりとなる為でありますが、同時に私共と全く同じ姿を取ることによって、私共と共に歩む為でもあられたのであります。クリスマスは、確かに二千年前の出来事ですけれど、クリスマスによって私共に示された神様の恵みの現実は、今も少しも変わりません。クリスマスにおいて、私共の間に宿り、私共と共に歩んで下さった主イエス・キリスト。この方は、今も聖霊として私共と共におられ、私共の歩みを守り、支え、導いて下さっているのです。クリスマスは、昔々の出来事を思い出して喜んでいるのではないのです。あの二千年前の出来事によって私共に与えられた恵みの中に、私共は今も生きているのです。だからうれしいのです。クリスマスのこの時、私共は神様が私共と共にいて下さるという、インマヌエルの恵みを喜ぶのであります。
 私共は、この後に、洗礼に続いて、聖餐に与ります。この聖餐の出来事の中に、インマヌエルの恵みが現れているのです。私たちの間に宿られたキリストは、聖餐において、自らの体を「取りて食べよ。」と私共に差し出されているのであります。共々に聖餐に与り、主イエス・キリストが私共と共にいて下さる恵みに与りたいと思います。

[2005年12月25日]

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