富山鹿島町教会

礼拝説教

「裁き主が来られる」
創世記 19章1〜29節
マルコによる福音書 13章1〜13節

小堀 康彦牧師

 アドベント第二の主の日を迎えております。アドベントに入りますと、すでに週報にも記してありますように、クリスマス会が始まります。又、教会学校ではクリスマスの劇の練習も始まり、聖歌隊は練習を続けています。まだクリスマスは来ていないのですが、すでにクリスマスの喜びの中に入っている。クリスマスのリースやクランツを作ることから始まりまして、クリスマスへの備えが、あわただしく、しかし喜びの中でなされています。
 私はアドベントというものが何なのか、洗礼を受けてからも長い間、良く判りませんでした。何となく、クリスマスの準備の為の期間、そんな風に考えておりました。それも間違いではないのですが、問題は何をどのように備えるのかということであります。実は、ここには一年間を信仰の理解において区切っていく、教会の暦、教会暦というものがあるのです。カトリックや聖公会は、この教会暦というもので一年間を過ごします。この教会暦の中心にあるのは、その日に読まれる聖書の個所です。アドベント第一の主の日に読まれる聖書の個所は、旧約はここ、福音書はここ、手紙はここ、詩編はこれ、全て決まっているのです。私共改革派の伝統にある教会は、この教会暦という考え方を捨てまして、連続講解説教という形を取りました。そこで、アドベントという期間が何なのか、少し判りにくくなった所があるのではないかとも思います。教会の暦では、このアドベントをもって、一年の始まりとするのです。つまり、クリスマスまでの一ヶ月間を、主イエスの来られるまでの旧約の民の歴史と重ね合わせると同時に、主イエスが再び来られることを待ち望む、終末への信仰を確かにする。そういう期間として定められているのです。そこで、このアドベントの期間に必ず読まれることになっている聖書の個所の一つは、終末、あるいは神様の裁きについて記されている所なのです。このことは、少し意外に感じられる方もおられるのではないでしょうか。ワクワク、ウキウキした気分で過ごすアドベントに、神様の裁きについて思いを至らせるというのは、何となくそぐわない。そんな気がするかもしれません。しかし、そうではないのであります。アドベントとは、実に主イエスが再び来られる、そのことを心に刻み、その日を待ち望む信仰を確かにする為に教会が定めた期間なのです。ややもすると、「もういくつ寝るとクリスマス」という気分が先行してしまいそうになりますが、このことはわきまえておかなければならないでしょう。あのアドベント・クランツにおいて、ローソクを一週ごとに一本ずつ火をともしていくということも、実は主が再び来られる時までの時間は、刻一刻と近づいている、そのことを覚えて心に刻む為のものなのであります。

 今朝与えられております御言葉は、主によって、ソドムの町が滅ぼされたということが記されております。この記事は、神様が人間の罪というものを、そのままにしてはおかれない方であるということ、敢然と裁きを行う方であるということを明確に示しております。先週見ました様に、アブラハムはこの町に10人の正しい人がいれば、この町を滅ぼさないという約束を取りつけました。しかし、残念なことに、この町には、10人の正しい人もいなかったのです。
 神様の裁きをなす為に遣わされた二人の御使いは、ソドムの町に入ります。彼らは、アブラハムの甥のロトの家に招かれました。すると、どこで聞きつけたのか、ソドムの町の男達がやって来て、この二人の御使いを出せ、なぶりものにすると言うのです。実に、ソドムの町というのは、神なき世界。神に敵対し、自分の欲だけで生きている世界の象徴的町なのです。ロトは必死で、この二人を守ろうとします。何と、自分のまだ結婚していない二人の娘を代わりに差し出すとまで言うのです。しかし、男達はそんな申し出を聞きません。ロトの家の玄関で、そんなやり取りがしばらく続きます。男達は、戸を破って、ロトの家に押し入ろうとしました。その時、二人の御使いは、ロトを家の中に入れ、男達に目つぶしを食わせました。二人の御使いは、自分達が、神様に遣わされて、この町を滅ぼしに来たことを告げます。そして、ロトと妻、それに二人の娘を町の外へ連れ出しました。ところが、残念なことに、この時ロトの二人の娘の婿となるはずの二人の男にも、いっしょに逃げるように勧めるのですが、この二人はロトの言うことが冗談だと思って、逃げなかったのです。
 このことは、大変象徴的なことではないかと思います。神様の裁きというものは、冗談としか受け取れない人が居る。そして、その人は神様の裁きからまぬがれることが出来ない。今でもそうなのです。人間、死んだらおしまいだ。だから、おもしろ、おかしく、楽しく生きれば良い。そう思っている人は少なくないのです。しかし、神様はそのように人に侮られるような方ではないのです。使徒パウロがこう言った通りです。(ガラテヤの信徒への手紙 6章7節)「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。」私共は、神様の永遠の裁きがあることを知っています。知っているということは、ただ知っているだけではだめなので、ソドムから抜け出すということにならなければならない訳です。もちろん、私共はこの現代日本の社会から抜け出すことは出来ません。しかし、その中にあっても、神の子、神の僕とされている者としての歩みを確かにしていくということは出来るのです。その指針が十戒なのです。

 さて、ロトと妻と二人の娘はソドムを後にして山に逃げるように言われました。この時「後ろを振り返ってはいけない。」と言われました。ところが、ロトの妻はその戒めに反して、後ろを振り返ってしまい、塩の柱となってしまったのです。これはどういうことでしょうか。神様の裁きをのがれ、救いに与ろうとしていたその時に、後ろを振り返ってしまった。それ故ロトの妻は救いに与ることは出来なかったというのです。これも又、まことに象徴的な出来事であります。これと同じようなことを、私共は出エジプトの旅の中で何度も見ることが出来ます。神様によって奴隷の地、エジプトから救い出されたイスラエルでありますが、彼らは約束の地に入るまでに、何度もエジプトをなつかしむのです。なつかしむどころか、こんなつらい旅をするくらいなら、エジプトに居た方が良かったと言い出すのです。それも、一度だけではありません。何度も何度も、そんなつぶやきをくり返すのです。彼らは約束の地にたどり着くことなく、40年に及ぶその旅の途中で死に、その次の世代がヨルダン川を渡って約束の地に入ることになったのです。
 私共は主イエスと出会い、その救いに与りました。しかし、それで全てがうまくいくようになったという訳ではありません。この地上の生涯を歩んでいく中では、なお数々の困難にも出会うのです。あるいは、信仰を持ったが故の困難さということだってあるのです。そういう時に、エジプトの肉鍋を思い出し、ソドムの町を懐かしむ。そういう事も起きるのでありましょう。しかし、主イエスは言われました。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない。」(ルカによる福音書 9章62節)主イエスの救いに与り、約束の地、神の国への旅を始めた私共は、最早、後ろを振り返らないのです。ただ、主イエスが再び来たり給うその日を目指して歩んでいくのであります。主イエスが再び来たり給うとき、私共はキリストに似た者に変えられ、永久の命を与えられる。その栄光の姿を心に思い描きながら、その日を目指しつつ、その日に向かって、後ろを振り返ることなく歩んでいくのであります。私共が、クリスマスを祝うというのは、単に二千年前に救い主が来られたことを喜び祝うというだけではないのです。この私共の為に十字架にかかり、三日目によみがえり、天に昇られた主イエスが、再び来られる。このことを心に刻む為なのです。主イエスというお方は、昔おられ、今もおられ、そしてやがて来られる、そういう方なのです。主イエスは、昔も今も、とこしえに変わることはないお方なのです。

 さて、最後に、ロト達がソドムから救い出された時、聖書は何と告げているかを見てみましょう。29節です。「神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された。」と聖書は告げています。神様はロトが救いに値する者であるから救われたのではないのです。神様はアブラハムを御心に留め、アブラハムの故にロトを救われたのです。ロトはアブラハムの甥です。アブラハムがソドムの町が滅びないようにと、神様にかけあい、神様は10人正しい人が居るならソドムを滅ぼさないと約束いたしました。残念ながらソドムには10人の正しい人が居なかったので、滅ぼされることになってしまったのですけれど、神様はそのアブラハムの思いを受け取り、甥のロトは助け出されたのです。アブラハムという存在がなければ、ロトは救い出されることはなかったということであります。このアブラハムは、主イエスというお方を指し示していると言って良いでしょう。ここで、アブラハムの所に「主イエス」を、ロトの所に自分の名前を入れて読み替えてみると、そのことが良く判ります。やってみましょう。「神は主イエスを御心に留め、小堀康彦を破滅のただ中から救い出された。」まさにその通りです。アーメンであります。

 私共は終末について、絵に描くように全てが判っている訳ではありません。これは人間には判ることが許されていない神の秘義に属することなのでありましょう。しかし、判っていることはあります。それは聖書が明らかに告げていることです。第一に、終末においては神様の完全な裁きが行われる。第二に、その時には主イエスが裁き主として来られる。これが主イエスの再臨です。第三に、主イエスの救いに与った者は復活し、永遠の命に生きる者とされる。これが救いの完成であります。この三つのことは、一つながりのことでありますから、いつでも、いっしょに考えなければならないことです。主イエスは再び来られ、生ける者と死ねる者とを裁かれます。しかし、そのことによって、私共に復活の体が与えられ、永遠の命が与えられるのです。裁きと救いは、一つの出来事なのです。救いとは、神様の裁きから救われることです。裁きがなければ、救いもないのです。このことはどんなに強調しても良いと思います。私共は、救いの言葉を聞きたいと思っています。しかし、その救いとは「裁き無き救い」ではないのです。裁きはあるのです。絶対にあるのです。しかし、私共は主イエスの故に、救われるのであります。
 主イエスご自身、先程お読みいたしましたマルコによる福音書13章におきまして、終末の預言をしておられます。7〜8節「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる。これらは産みの苦しみの始まりである。」とあります。終末とは、戦争とか、地震とか、飢饉とかではないのです。それらは起きるのです。今も、世界中でそのような出来事が起き続けています。しかし、それは終末ではないのです。終末がいつ来るのか、それは判りません。しかし、主イエスは10節で「まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。」と告げられています。終末が来る前に、主イエスが再び来られる前に、まず福音が全世界に宣べ伝えられなければならないのです。ということは、終末をまじめに受け取る私共が第一になさなければならないことは、この「福音を宣べ伝える」ということであるということになるでしょう。今年も、12月24日に行われるキャンドルサービスの案内のチラシと葉書が多数印刷されました。私共は、これを用いて福音を宣べ伝える業に仕えたいと思います。そして、後ろを振り返らずに、主の再び来たり給うを待ち望みつつ、最後まで耐え忍び、恵の信仰に留まり続けたいと思います。

[2005年12月4日]

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