富山鹿島町教会

礼拝説教

「執り成しの祈りに生きる」
創世記 18章16〜33節
ヤコブの手紙 5章13〜18節

小堀 康彦牧師

 今日からアドベントに入ります。教会の玄関にはリースが飾られ、クランツの1本目のローソクにも火がともされました。今年は12月25日が日曜日ですので、今日を含めて4回のアドベントの主の日の礼拝の後、5番目の日曜日にクリスマス礼拝を守ることになります。このような年は、十数年に一回やってきます。それ以外の年は、私共は12月25日直前の日曜日、アドベントの第四の日曜日にクリスマス礼拝を守っている訳です。これは、主の日の礼拝に集中し、それ以外の祭をやめた改革派教会の伝統なのです。カトリックや聖公会では、毎年12月25日にクリスマス礼拝をしています。アドベント・クランツのローソクは4本でして、アドベントの一週ごとに、1本目、2本目とローソクをともしていく訳ですが、クリスマスの日には、アドベントのローソクとは色を変えた少し大きめの5本目のローソクに火をともすことになっています。このローソクは、主イエスが罪と闇のこの世界にまことの光をもたらす方として来られた、そのことを指し示しております。クリスマス・リースなどに使われる、緑・赤・金というクリスマス・カラーも、主イエスの永遠の命、主イエスの十字架の血、主イエスの栄光を表しています。私共の教会は、十字架以外のシンボルをあまり用いませんけれど、このくらいのことはわきまえておいて良いでしょう。

 さて、今朝与えられております御言葉、創世記18章16節以下におきまして、アブラハムは神様によって滅ぼそうとされる町ソドムの為に執り成しをいたします。アブラハムの神様への迫り方は実に大胆であります。「もし、ソドムの町に50人の正しい人がいるなら、それでもソドムを滅ぼされるのですか。正しい者と悪い者とを同じように滅ぼすのは、正義ではない。あなたは全世界を裁かれる方なのですから、そのような不正義をするはずがないでしょう。」そう言って、神様に迫るのであります。神様は天地の造り主、アブラハムは神様に選ばれた者とはいえ、神様に造られた者に過ぎません。神様から、「お前は私の裁きに口を出すというのか。身の程をわきまえよ。」と言われても仕方がない。アブラハムも、そんなことは百も承知であったと思います。しかし、アブラハムはひるまないのです。それどころか、神様がソドムの町が50人正しい人がいるならば、その町全部を赦そうと言われると、今度は更にそれより5人少なくても、つまり45人でもダメですか。それでも神様が良いと言われると、更に40人なら、30人なら、20人なら、とうとう、10人でも良いと言う所まで迫っていくのです。
 私共はこのようなアブラハムの行動をどう感じるでしょうか。神様に対して、何とずうずうしい、しつこい、身の程知らず。そんなあまり良い印象を持たない方もいるかもしれません。中には、バザールで値切りの交渉をしているアラブ人をイメージする人もいるかもしれません。しかし、聖書が私共に教える祈りとはこういうものなのです。ここに示されているのは、祈りの人の姿なのです。祈りとは、その静かなイメージとは裏腹に、このように神様に向かって肉迫していく、実に激しいものなのであります。私共はここで、祈りということについて、思いを巡らさなければなりません。

 教会とは祈りの共同体です。祈りとは、単に神様にお願いごとをするというような狭いものではありません。祈りというのは、私共と神様との全ての関わりにおいて生まれてくるものであり、神様と私共との全ての交わりを含んでいるのです。私共は毎週ここに集まり、礼拝をささげております。この礼拝は、私共の祈りの生活の中心にあるものです。主の日の礼拝は、祈りの形式なのです。宗教改革者カルヴァンは、礼拝式の順序を書き残しておりますが、そのタイトルは「祈りの形式」でした。皆さんは、お気付きでしょうか。礼拝は、神様からの言葉と、それに対しての私共の応答として形作られています。神様からの招きがあり、それに対して、主をほめたたえるという賛美の応答によって始まっています。その神様が言葉を告げ、それに応答するということが繰り返される構造によって、礼拝が成立しているのです。
 私共がこの礼拝においてどのような御言葉を受け、どのような祈りがささげられているか。そのことが私共の祈りを決定しているのだと思います。私共は祈りにおいて、単独者として神様の前に立っているのではありません。同じ信仰を与えられ、兄弟姉妹とされている、神の民の一人として神様の御前に立つのであります。更に言えば、神様に造られた被造物の一人として、神様の御前に立つのであります。そして、そこに生まれる祈りが執り成しの祈りです。私共は、兄弟姉妹と共に、全ての被造物と共に、彼らに代わって祈りをささげるのであります。
 私共は、祈りについて考える時、必ず主イエスが私共に与えて下さった祈り、主の祈りに思いを至らさなければなりません。では、主の祈りの中のどこに執り成しの祈りがあるのでしょうか。今、二つの点について注目したいと思います。第一には、この祈りが始めから終わりまで、「我ら」となっていることです。「私」ではないのです。この祈りは、最初から最後まで「我ら」の祈りなのです。例えば、「我らの日用の糧を今日も与え給え。」においても、「私」の日用の糧ではないということは、私の食物が与えられればそれで良いというものではないということでしょう。「我ら」の日用の糧が与えられるようにと祈る。ここで「我ら」とは、どこまで広がるのでしょうか。自分の知っている教会の人達のこと、それで終わりでしょうか。この「我ら」は、もっと広がるのではないでしょうか。世界には、今も飢えている人達がいます。私共はこの祈りを捧げながら、この人達のことを念頭から排除することは出来ないのではないでしょうか。ここには執り成しの祈りがあると言って良いでしょう。
 第二に注目すべきは、「御心が天になるごとく地にもなさせ給え。」です。これは、御心にかなわないことがこの地上においては行われているということを前提としている祈りです。弱い者が虐げられ、戦い・争いがあり、嘆きがあります。だから、御心が天になるごとく地にもなさせ給えと祈らざるを得ないのです。この祈りを捧げるとき、私共は、御心が行われていないこの地上の営みに対して、何とか神様の憐れみの中で御心がなるようにしてくださいと祈る。これは執り成しの祈りなのであります。

 私はこの執り成しの祈りの中に、キリスト教の信仰の特質が表れていると思っています。私共は自分が救われさえすれば良いとは少しも考えないのです。ここに執り成しの祈りは生まれます。執り成しの祈りの根本には愛があるのです。アブラハムが、ここまで神様に肉迫して、何とかしてソドムに住む人々を助けたい、神様の裁きによる滅びから救われるようにしたい。そう願ったのは、ソドムに住む人々を愛していたからでありましょう。ソドムに住む人々は自分とは関係ないと思っていたのなら、ソドムが滅びると聞いたときに、「ああ、そうですか。」ということで終わっていたはずなのです。しかし、アブラハムは何としても救いたかったのです。だから、神様に肉迫していったのでありましょう。
 実に、このアブラハムの姿は、主イエス・キリストを指し示しております。アブラハムは、ソドムの町に10人いれば、という所でやめてしまったのですけれど、主イエスはこの世界の中に、一人でもいればという所まで、突き詰められたと言って良いでしょう。この世界の中に、ただの一人でも正しい人が居れば、神様、あなたはこの世界を滅ぼさないですね。そう神様に執り成して下さったのであります。そして、その「ただ一人の正しい人」として、主イエスは処女マリアより肉体をとって生まれられた。それがクリスマスなのであります。この世界は、主イエスというただ一人の正しい人によって、滅びを免れているのであります。
 それ故、この主イエス・キリストによって新しくされた私共の祈りには、どうしても執り成しの祈りがなければならないのであります。この礼拝の祈りの中でも、私共は必ず自分の為だけではない祈り、執り成しの祈りを捧げるのです。そして、自分が家で一人で祈る時にも、私共は自分のこと以外のことも必ず祈る。それは、私共の為に神様に執り成して下さった主イエス・キリストによって救われ、新しくされた私共にとって、それは当たり前のことなのであります。
 私は洗礼を受けてからずいぶん長い間、祈るということが判りませんでした。祈りというものを、どこか神様に向かって自分の為の願いごとをするというあり方から抜け出せないでいました。それが、少しずつ変えられていきました。礼拝に集い続ける中で、その中で祈る祈りに心を合わせ、賛美をささげていく中で、祈るということが少しずつ判ってきたし、変えられてきたのだと思います。そして又、自分がこのキリストの体である教会に連なっている者であるということが判るにつれて、自然とこの教会に連なる人々の為に祈るようになってきました。実に、私共の信仰の深まりと、祈りの深まりとは結びついているのだろうと思います。信仰の成長と共に、祈りも成長していくのです。神様の恵みに目が開かれていけばいく程、私共の祈りの世界も又広げられていくということなのでありましょう。

 さて、教会が祈りの共同体であるということは、ただ礼拝を共にしているということだけではありません。ヤコブの手紙5章14〜16節「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」とあります。病気の人、罪を犯した人の為に、教会はその出発の時から、互いに祈るということをしてきたのです。私共も週報に誰かが入院すると、それを載せるようにしています。それは、その人の為に共に祈りを合わせたいと願っているからです。互いに祈り合い、その祈りによって互いに支え合う。そのような祈りの共同体として、この教会が建て上げられていくことを願っているからであります。日本人的遠慮というものは、そこでは無用なのだと思います。私共は祈ってもらわなければならない、執り成してもらわなければならない、そういう存在なのであります。
 このヤコブの手紙において、教会の長老というものは、何よりも執り成しの祈りをささげる者であるということが告げられていると思います。私共長老教会においては、御言葉を語る宣教長老と、長老を治める治会長老がおります。この宣教長老と治会長老と、両方にこの祈りの務めが与えられているのであります。宣教長老としての牧師は、神の言葉を語る説教をすることが第一の務めですが、それが全てではありません。この群れに集う、一人一人のことを思い、祈らなければならないのであります。牧師が知らない内に、教会員が入院し退院していたなどということがあってはならないのです。勿論、必ず見舞いに行けるとは限らないかもしれません。しかし、その人の為に祈らずに日を過ごすということなどあり得ないことなのです。
 プロテスタント教会においては、神の言葉を告げるという預言者としての役割の重要性が強調されてきました。それは、とても大切なことです。しかし、教会の務めはそれだけではないのです。他者の為に神様に執り成しをするという、祭司としての役割も又、とても大切なことなのです。私はいつも思っているのですが、日本の教会は、どれもとても小さいです。しかし、私共はその小さな群が、その町にあるということの大きな意味を忘れてはならないのであります。人口3万人の町で、20人、30人の者が集い礼拝をしている。それは、3万人の人々に代わって、その人々の為に礼拝をささげているのであります。この意義は小さなことではありません。その小さな教会が無くなっても、その町の人は少しも困らないかもしれません。しかし、その町に住む人々に代わって、その人達の為に礼拝し、祈りを捧げる者がいなくなるということは、重大なことなのです。私共もそうなのです。この富山に住む、全ての人々の為に、その人々に代わって礼拝をささげ、執り成しているのです。皆さんの中には、家族の中で、職場の中で、自分だけがキリスト者であるという人も少なくないでしょう。そういう人は、自分が家族や職場の人々に代わって、その人の為にも礼拝をささげているのです。このことを覚えて欲しいと思うのです。
 私共はアブラハムの様に、主イエスの様に、執り成しの祈りをささげる者として、神様に選ばれ立たされているのです。そして、アブラハムの祈りを受け入れ、主イエスの執り成しを良しとされた父なる神様は、私共の執り成しの祈りも又、受け入れて下さるに違いないのです。そのことを信じて良いのです。そのことを信じ、執り成しの祈りを捧げつつ、この一週間も主の御前を歩んでまいりたいと思います。

[2005年11月27日]

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