富山鹿島町教会

礼拝説教

「揺るがぬ神の意志」
創世記 17章15節〜18章15節
エフェソの信徒への手紙 1章3〜14節

小堀 康彦牧師

 来週から、アドベントに入ります。昨日は、アドベントのリースやクランツを作る為の杉の枝やツルを、釜土さんの山に入って取ってきました。今年は熊が出ないということで、安心して作業をいたしましたが、山の木々が黄色や赤に色づいて、とても気持ちの良い所でした。富山の自然は大きいのです。富山に居ると当たり前のことなのでしょうが、この自然の大きさは、なかなか他では見ることが出来ません。この大きな自然を見ると、私はこれを造られた神様の大きさというものを、改めて思わされるのです。天地を造られた私共の神様、この方の御手の大きさは、私共の小さな頭の中には、とても入り切るものではありません。私共は、ただその主なる神様をほめたたえるしかないのでありましょう。それはちょうど、大きな自然の前で、ホーッと感心してただ見とれるしかないように、その大きな自然を造られた神様を思いますと、ホーッ、ハーッと、ただただ驚き、感心して、「神様は凄い!!」としか言いようがない。そういう思いの中で生まれてきたのが、教会の祈りであり、讃美歌であり、説教であり、神学なのだと私は思っています。そして、それらによって形作られているのが、私共のこの主の日のたびごとの礼拝なのです。私共は、主の日のたびごとにここに集い、「神様って凄い」「神様は素晴らしい」、その思いを新たにされているのだと思うのです。

 今朝与えられております御言葉において、アブラハムとその妻サラは、あなた方は子を産むという神様の言葉を信じることが出来ずに笑いました。17章17節「アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。『百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。』」とあり、18章12節「サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。」とあります。アブラハム99才、妻のサラ89才の時のことであります。今朝のテキストは、あえて18章の1節からではなく、17章15節からお読みしました。礼拝のテキストとしては、18章1節から読む場合が多いと思いますが、あえてそうしませんでした。それは、18章の1節から読みますと、自分達に子が与えられるという神様の言葉を、妻のサラだけが信じることが出来ずに「ひそかに笑った」という印象を与えることになると思ったからです。信仰の父アブラハムは信じた。しかし、サラは信じなかった。そんな風に受け取りかねない。しかし、そうではないのです。アブラハムも笑い、サラも笑ったのです。この笑いは、神様の言葉を信じられずに、その言葉をバカにした笑いです。嘲笑した笑い、ニヒルな笑いです。声を出した伸びやかな笑いではなく、少し口もとをゆるめただけの「フン」といった笑いです。アブラハムはひれ伏して笑い、サラはひそかに笑ったのです。「そんなバカなことが」という心の笑いです。私などですと、こんな笑いに出会いますと、すぐに腹を立ててしまいます。そして、「勝手にすればいい」と言ってその場立ち去ってしまう、その人と付き合うのは止めてしまう、そんな風になってしまうのですけれど、神様はそうはなさいません。神様はこのアブラハムとサラという夫婦を見捨てずに、17章19節「神は言われた。『いや、あなたの妻サラがあなたとの間に男の子を産む。その子をイサク(彼は笑う)と名付けなさい。わたしは彼と契約を立て、彼の子孫のために永遠の契約とする。』」、18章13〜14節「主はアブラハムに言われた。『なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。』」と言われるのです。信じないのなら勝手にしなさいではなく、神様は当初からの計画通り、男の子が生まれると改めて告げられるのです。

 ここで神様は、生まれて来る男の子の名前をイサク(彼は笑う)と名付けるように命じられたのですが、皆さんはこの名前をどう感じるでしょうか。私はここにも神様の凄さが表れていると思うのです。この名前は、アブラハム100才、サラ90才で生まれてくる男の子にふさわしい、まことの喜びの笑いを示しているのでしょう。しかし、それだけではない。アブラハムもサラも、それを信ずることが出来ずに笑ったのです。このイサクという名前には、神様の御業による喜びの笑いと、神様の言葉を信じることが出来ずに笑った不信仰の笑いとが重なっているのではないでしょうか。アブラハムもサラも、生涯イサクという愛する我が子の名前と共に、自分の不信仰とそれをくつがえされた神様の恵みの業とを、同時に心に刻むことになったのではないかと思うのであります。アブラハムの子をイサクと名付けられた神様のなさりようは、主イエスの十字架へと通じています。私共は主イエスの十字架を、徹底した神様の救いの御業、神様の恵みの御業として受け取ります。しかし、そのことは私共自身の罪というものを忘れさせるものではないでしょう。そうではなくて、私共の罪をいよいよ明確に示し、同時にその罪の赦しを宣言するのでしょう。私共の罪と同時に、神様の救いの御業の勝利を私共の前に差し出すのです。私は、このイサクという名前には、そのような二重の意味があったのだと思うのであります。ですから、神様はサラがひそかに笑ったことを見逃すことなく、18章15節で笑ったことを打ち消すサラに対して、「いや、あなたは確かに笑った。」と、サラの不信仰を言い逃れが出来ない明確さで、クギをさされたのだと思います。この主の「いや、あなたは確かに笑った。」という言葉は恐ろしい言葉でしょう。神様は何でもお見通しであるということをサラに突きつけた言葉です。サラは、この時鳥肌が立つような、背筋が凍るような恐れを覚えたに違いありません。サラにとって、生涯忘れることが出来ない出来事だったでしょう。この出来事と、90才にして出産という驚くべき喜びとが、イサクという名前によって二重に心に刻まれることになったのです。
 このことは、使徒ペトロにとって、主イエスを三度知らないと言ってしまったことと、再び主イエスの弟子として召され、主イエスの福音を告げる者として立たせられるという出来事が、主イエスの十字架と復活によって分かちがたく結ばれていたことと同じなのだと思うのです。ペトロは、自分が主イエスの弟子として立たされているという恵みの日々は、決して彼が主イエスを三度知らないと言ってしまったことを忘れさせることにはならなかったと思います。あの三度知らないと言った私が、主イエスの弟子として立たせられている。ここに恵みがあるのです。そしてペテロは、この恵みを語り伝える者として生きたのです。

 次に18章14節で主は「主に不可能なことがあろうか。」と言われました。信じることが出来ないアブラハムとサラに対しての言葉です。この言葉は、ルカによる福音書1章のマリアへの天使ガブリエルによる受胎告知の場面でも告げられる言葉です。男を知らないマリアに男の子が与えられるとガブリエルは告げ、それを信じることが出来ないマリアに対して、「神にできないことは何一つない。」と天使ガブリエルが告げたのです。神様には不可能なことはない、出来ないことは何一つない。このことは、私共は頭では判っていることでしょう。使徒信条においても「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。」と告白している通りです。神様は全能です。何でも出来る。出来ないことは何一つない。天地を造られた神様の御力をもってすれば、出来ないことは何一つない。それは頭では判り切ったことです。しかし、その力がまさに自分の上に臨むとなると、そんなバカなことはないだろう、そう思ってしまう。それは、アブラハムやサラ、更にはマリアの場合もそうでした。しかし、彼らが特に不信仰な者であった訳ではないのです。私共も又、同じなのでしょう。神様を自分の理性や理屈に合うように、小さくしてしまう。そして、つまずかない神様、毒にも薬にもならない神様にしてしまう。そういうところがある。しかし、今朝与えられている御言葉は、そのような私共の企みを、根本からくつがえし、告げるのです。「神様は神様であって、神様に不可能なことはない。」これは、神様ご自身による宣言です。神様には何も出来ないことはない。神様とはそういうお方だ、そういうお方を神様と呼ぼう、ということではないのです。神様は全能という概念によって人間が造り上げたものではないのです。神様が、ご自身でこのように宣言されているのです。私共は、この不可能なことは何一つない神様の御手の中に生かされているのであり、この方を父よと呼ぶ者とされているのであります。
 私共は、しばしば神様を小さくしてしまうのです。小さな自分の考えの中に、神様を押し込めてしまう。それは、アブラハムやサラが笑ったのと同じであります。神様は大きいのです。この富山の自然など、神様の大きさに比べるならば、まことに箱庭程の大きさもないのです。この大いなる神、全能の神様が、私共を用いて、この富山に住む人々を、日本の人々を、世界の人々を救おうとされているのであります。私共は、この壮大な神様の御手の中にある自分を発見しなければならないのでありましょう。私共は今週の水曜日に教会修養会を開きます。今まで二回行ってきました「夢を語る会」の三回目です。これから、私共の教会はどのように歩んでいくのか、そのことを語り合い、話し合う時であります。この時、私共が心しておかなければならないことは、何よりも神様を小さくしないということです。私共の教会のサイズ、人材など、私共には今出来ることと出来ないことがあります。しかし、神様には出来ないことは何一つないのです。この神様の御業によって歩んでいくのが、私共の教会の今までの歩みであったし、これからの歩みでもなければならないのであります。
 アブラハムは75才で神様に召し出されて、イサクを与えられるまで、25年の年月が過ぎました。これは、私共人間にとっては短い時ではありません。しかし、神様にとってはまことに短い時なのであります。神様は、アブラハムを召した時から、いやアブラハムが生まれる前から、このことをお定めになっておられたのです。神様の御業は、私共のスケールを超えた時の中で見られ、受け取られ、信じられていかなければならないのであります。三年、五年でどうなるか、そういうことではないのです。もちろん、そういうレベルでの計画も必要でしょう。しかし、私共が神様からいただく夢は、もっと大きいのです。それは、私共の大きさに合うのではなく、神様の大きさに合うものだからです。確かに、アブラハムの生涯において、彼が神様に召し出された後も、彼の神様への信仰は揺れるのです。しかし、神様は永遠の選びの中でアブラハムを選び、その御業の為に用いられました。神様のご計画は少しも揺らがなかったのです。私共も又、この決して揺らぐことなき神様のご計画の中で選ばれ、召され、神の子、神の僕とされたのであります。
 この神様の永遠の選びの業について、使徒パウロは、エフェソの信徒への手紙1章の冒頭において述べております。今、この所の全てを見ていくいとまはありません。ただ10節だけを見て確認しておきたいと思います。10節「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」天にあるものも、地にあるものも、全てがキリストのもとに一つになる時が来るのです。その日に向かって、私共は、今、この地上で与えられた生涯を歩んでいるということなのであります。北陸は仏教が強い。浄土真宗が強い。伝道がなかなか大変である。それは確かにそうでしょう。しかし、それは決して永遠ではありません。神様の選びのご計画の中で見るならば、それは一つのエピソードに過ぎません。私共の信仰の子孫が、「この富山にも、浄土真宗が強く根を張っていた時代があったんだって。」「へーっ」やがてそんな会話がされる時代が来るのです。そういうことになっているのです。すでに、永遠の神様のご計画の中で主イエス・キリストによる救いは決まっていることなのです。この決定は、揺らぐことはありません。アブラハムとサラとの間にイサクが生まれることになっていたように、それはすでに決まっていることなのです。ただ、アブラハムとサラとの間に、イサクはすぐには生まれず、25年という時が必要であったように、神様の時が満ちるまで、私共はあとしばらくの間、待たねばならない。しかし、私共はただ、ボーッと待つのではないのです。今出来ること、今やらねばならないことを精一杯なしながら、待つのです。それが、信じて待つということなのであります。私共が持つ夢、与えられる夢、それはこの信じて待つという中で与えられていくものなのでありましょう。聖霊が与えて下さるものであります。この日本が、富山が救われる為に神様によって立てられたこの教会が、この神様のみ心に従って何が出来るのか、何をしなければならないのか。神様に示される道を真実に歩んでまいりたいと心から願うものであります。

[2005年11月20日]

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