共々にアブラハムの生涯をたどりながら、信仰の歩みについて思いをめぐらしております。このアブラハムの生涯をたどりながら思わされますことは、信仰の父アブラハムの生涯、それはいわゆる完璧な、欠けのない信仰者の歩みというようなものではなかったということです。アブラハムは神様の言葉を信じます。神様と契約をします。それでもアブラハムは信じ切ることが出来ずに揺れるのです。しかし、私共がアブラハムの生涯の歩みを振り返りながら知らされることは、それにもかかわらず、アブラハムを選ばれた神様は決してアブラハムを見捨てず、その選びを無かったことにすることもせず、その揺れるアブラハムの為に、信仰を支える手立てを次々と繰り出されたということであります。アブラハムの揺れる信仰に対しても、神様は決して揺れないのです。ここにアブラハムの信仰の歩みにおける、最も重要な点があるのです。私共もそうなのでしょう。私共が信仰の父アブラハムの子孫であるということは、私共が神様を信じたという所にだけあるのではないのです。アブラハムと同じように、たとえ信仰が揺らぎ、それでもキリスト者かというような日々を送ったとしても、それでもなお神様は私共を選ばれたことを反古にすることなく、様々な出来事を通して、私共を恵みの中に置き続け、信仰の歩みを全うさせて下さる。この神様のあわれみの中に生かされていることにおいて、私共は確かにアブラハムの子孫なのであります。
先週、私共は創世記15章におきまして、アブラハムが満天の星を見上げ、自分の子孫がこのようになるという神様の言葉を信じて義とされた。そして、更に神様との間に契約を結んだということを見ました。これはアブラハムにとって、決定的に重大な信仰の体験であったと言って良いでしょう。彼は聖なる体験をしたのであります。このことによって、アブラハムの信仰は確かなものとされ、揺るぎないものとなるはずだったのです。しかし、今日与えられております創世記16章には、そのような信仰を確かにされた者としてのアブラハムの姿はありません。アブラハムは、自分と妻サラとの間に子が与えられないという現実の中で、妻サラの女奴隷ハガルとの間に、子をもうけるという企てを為したのです。
この計画は、確かにアブラハムが言い出したものではありません。2節を見ると「サライはアブラムに言った。『主はわたしに子供を授けてくださいません。どうぞ、わたしの女奴隷のところに入ってください。わたしは彼女によって、子供を与えられるかもしれません。』」とあります。これを、アブラハムは信じていたけれど、妻サラが信じられず、アブラハムはサラの申し出を受け入れただけだと言うのは、アブラハムへの贔屓が過ぎるでしょう。妻サラの申し出を受け入れたアブラハムは、やはりサラと同じように考えていたのではないでしょうか。このことのカギとなるのは、3節にある「十年後のことであった」という一句です。アブラハムが12章で神様から言葉を受け、ハランを出発して、もう十年もたっていたのです。ハランを出発した時、アブラハムは75才。この時、すでにアブラハムは85才になっていたのです。妻のサラは十才年下ですから、この時すでに75才になっていたということになります。神様はアブラハムに対して約束は与えましたけれど、それが実現するような気配は、この十年の間少しもないわけです。彼らは、ただ一年一年、年をとっていきました。彼らが、このままではどうなるのだ、自分達に出来る手立て、方策を考えたとしても不思議ではないでしょう。ここでアブラハムが、神様は自分の子孫が空の星ほどになると言われたけれど、それは自分と妻サラとの間に子が与えられると言われたわけではなかった。だから、自分と妻とではない関係において子が与えられるということではないのか。そう解釈し、女奴隷ハガルとの間に、子をもうけた。それは当然のことだったのかもしれません。この時代、妻との間に子が出来なければ、他の女性との間に子をもうけるのは、普通のことだったのです。そして、女奴隷の子は、その主人の子となったのです。ですから、サラの申し出は、当時においては驚くことではなかったのであります。もちろん、このようなあり方は女奴隷の立場からすれば、とんでもないことであるに違いありません。そして、それは決して神様の御心にかなうことではなかったと言って良いだろうと思います。
女奴隷ハガルはアブラハムの子を身ごもります。すると、主人であるアブラハムの妻サラとの間が険悪になってしまいました。主人の子を宿したハガルが、子を産めないサラを見下したのかもしれません。まるで、テレビの大奥のようなことになってしまったのです。女主人のサラはハガルにつらく当たるようになり、ハガルはいたたまれなくなって、家を出ます。すると、神様の御使いがハガルに現れ、「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい。」と告げるのです。そして、ハガルの子も祝福を受け、数えきれない程の子孫を与えられるとの約束を受けたのです。この子がイシュマエルです。それはアブラハム86才の時のことでした。
そして、更に13年が過ぎました。アブラハム99才の時です。神様は再びアブラハムに現れて、同じ約束を繰り返されました。アブラハムとの間に契約を結び、子孫を増やすというのです。そして、今度は、契約のしるしとして割礼をいうものを与えたのです。アブラハムの子孫も、奴隷も皆、男子は割礼を受け、それが神様との契約のしるしとなる、という約束です。そして、こう言われました。17章15〜16節「あなたの妻サライは、名前をサライではなく、サラと呼びなさい。わたしは彼女を祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る。」神様はすでに生まれたイシュマエルではなく、これから妻サラとの間に生まれる子がアブラハムの祝福を受けつぐというのです。ここで神様は、あくまでも、アブラハムとサラとの間に男の子が生まれるのだと主張するのです。アブラハムはすでに99才、サラは89才です。神様がアブラハムを召した時はアブラハム75才、サラは65才でした。この時でさえ、もうそんなことはあり得ないという約束だったのに、すでにあれから24年がたちました。しかし、神様は、まだ同じことを言われます。そして、割礼という契約のしるしまで与えるのです。
私は、神様が割礼という神様との契約のしるしを与えられたことが、16章のハガルによってイシュマエルを産んだということの直後に記されていることに意味があるのだと思います。アブラハムもサラも、神様の約束が信じられなくなったから、ハガルとの間に子をもうけたのでしょう。神様はそのことを見て、ただ約束ではなくて、今度は、目に見える約束のしるしを与えられたのです。体を傷つけ、体にしるしを刻むことによって、神様の約束、神様との契約を決して忘れることがないようにされたのだと思います。揺れるアブラハムの信仰を支える為の手立てとして、神様は割礼をお与えになったということなのであります。
私共の神様という方は、実に配慮に満ちているお方なのです。ただ、こうしなさい、ああしなさいと言うだけではないのです。ただ信じなさいと言うだけでもない。信じても、なお信じ切ることが出来ない私共の為に、信じ続けることが出来る手立てを与えて下さるのであります。私共の信仰の歩みというものは、この神様の配慮の中で、かろうじて支えられているものなのでしょう。私共の信仰の歩みとは、そういうものなのであります。自分の熱心というようなものでは、生涯、神様の恵みの中に生き切ることなど、とても出来ないのが私共なのです。そのような私共の為に神様は数々の信仰の支えとなるものを与えて下さっているのです。今、それを数え上げてみるならば、聖書がそうでしょう。あるいは、礼拝がそうです。毎週の礼拝というものは、守らなければならないものというよりも、これを守り続けることによって、私共の信仰が守られ、支えられ続けるという、神様からの恵みの賜物に他なりません。又、祈りもそうでしょう。讃美歌もそうですし、教会という存在自体がそうでしょう。皆、神様が私共の弱い信仰を支えて下さる為に備えて下さったものなのであります。これらが無かったのならば、私共は信仰が与えられることもなかったでしょうし、たとえ信仰が与えられたとしても、三年と続かなかったでしょう。私共は、神様が与えて下さった、このような数々の信仰を支える手立てによって、守られ、支えられているのであります。
先週、私共の教会に二人の受洗者が与えられました。又、今も、次に洗礼を受ける人達の為に準備会が行われています。その学びの中で申し上げていることは、この神様が与えて下さった信仰を支える手立てをきちんと用いて、信仰者としての良い習慣を付けなさいということなのです。毎日聖書を読むこと、毎日祈ること、毎週礼拝を守ること、聖餐にきちんと与ること、きちんと献金をささげること。これらのことは、皆、しなければいけないからするのではなくて、これを身に付けることによって、私共の信仰の歩みが守られ、支えられていくのです。何故なら、それらのものは全て、神様によって私共の信仰を支える為に備えられたものだからです。よく、どう祈ったら良いのか判らないという人がいます。私は、そういう人には、主の祈り、使徒信条、十戒を、毎日唱えたら良いですと答えています。意味が良く判らないということも初めはあるかもしれません。しかし、この三つの文章も又、神様が備えて下さった、とても大切な手立てで、これを毎日唱える中で、私共の中に神様との交わりがきちんと形造られていくということが起きるのです。もちろん、自分の言葉で自由に祈るということも良いことであるに違いありません。
さて、先程、コロサイの信徒への手紙をお読みいたしました。11〜12節にこうあります。「あなたがたはキリストにおいて、手によらない割礼、つまり肉の体を脱ぎ捨てるキリストの割礼を受け、洗礼によって、キリストと共に葬られ、また、キリストを死者の中から復活させた神の力を信じて、キリストと共に復活されられたのです。」ここには、私共の受けた洗礼というものが、「手によらない割礼」「キリストの割礼」であると言われています。私共は、最早、肉体に傷をつける割礼は受けません。それは、私共は肉におけるアブラハムの子孫ではないからです。肉において言えば、私共は異邦人です。しかし、キリストに結ばれることによって、霊においてはアブラハムの子孫、神の民とされたのであります。割礼が、アブラハムの信仰を支えるものであったように、洗礼は私共にとりまして、割礼と同じように私共の信仰を支える、神様との契約のしるしなのであります。肉におけるアブラハムの子孫、肉における神の民は肉体を傷つける割礼を受けたように、霊におけるアブラハムの子孫、霊における神の民は水と霊とによる洗礼を受けるのであります。この洗礼によって、私共はキリストと結ばれます。キリストと共に葬られ、キリスト共に復活する者となったのです。
アブラハムは「子が与えられる」という約束が実現されるのを、24年間も待たねばなりませんでした。神様はそのような長い時間、アブラハムを待たせ続けたからです。それは何故か。私は、この24年間という長い年月こそに、意味があったのだと思います。もとより75歳で与えられた約束は、人間の目から見ればあり得ないというものでした。しかし、ハガルからなら子が与えられました。ですから、全く不可能という訳でもない。ここで、アブラハム99歳、妻のサラ89歳となることにより、与えられる子はただただ神の御業、神様の奇跡でしかなくなる、と言うことだったのではないでしょうか。そしてこのことは、アブラハムがいよいよ不可能なことを信じる、ただ神様の御業であるが故に信じる、その信仰へと導くことになったはずなのです。そして、この24年という長い年月を、不可能なことを信じて歩み続ける、そこに「信仰者の父」としての姿が形造られていったのではないでしょうか。
このことは、私共がキリストと共に葬られ、キリスト共に復活する者となったということを信じて歩む者とされていることと重なるのではないでしょうか。この信じ難いことを信じる者とされている。ここに神の奇跡があるのであり、ここに私共の救いがあります。この救いにとどまり続ける為に、この神様の奇跡の中に生きる為に、神様は私共に数々の手立てを与えて下さっているのであります。この神様の配慮の中に、私共は生かされているのであります。私共が、この配慮に満ちた神様の救いの手立てを用いて信仰にとどまり続けること、それがキリストに結ばれた者として生きるということなのであります。
私共は、アブラハムとサラが、自分達に子が与えられることを信じ切ることが出来ず、ハガルによって子を得ようとした様に、何か自分の知恵によって乗り超えようとし、それを知恵だと思ってしまう所があります。しかし、それは少しも良い結果を生みませんでした。私共に求められている知恵というものは、そのようなものでなく、神様の約束を信じ、そこに留まる為の知恵でなければならないのでありましょう。どうやって御心にかなう歩みを形造っていくことが出来るのか。そこに知恵が働かねばならないのでありましょう。その根本に、神様が私共に与えて下さる祝福への信頼、全てを導き給う神様への信頼というものがなければなりませんし、キリストに結ばれた者としての誇りと使命感というものがなければならないのでありましょう。11/23に「明日の教会」というテーマで教会修養会を開きます。この教会のこれからということを考える際にも、このことは一番の根っこになければならないものでしょう。
この一週間、配慮に満ちた神様の守りに目を向けながら、主の御国への歩みを共になしてまいりたいと思います。
[2005年11月13日]
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