富山鹿島町教会

召天者記念礼拝説教

「天の故郷を求めて」
ヘブライ人への手紙 11章13〜16節

小堀 康彦牧師

 今朝の礼拝は、召天者記念礼拝です。先にこの地上での生涯を終え、天の父なる神様の御許に召された方々を覚えまして、礼拝をささげております。皆様のお手元には、先に天に召されました、この教会の信仰の先輩方の名簿があるかと思います。昨年の召天者記念礼拝の時から、又、四名の方の名前が加わりました。その方々のご遺族も、今日、この礼拝においでになっておられます。後ほど、ご紹介させていただきたいと思います。
 毎年、この召天者記念礼拝を迎える度毎に、私は、改めてこの教会というものが何であるかということを教えられる思いがいたします。私が育ちました教会も、前任地であった教会も、この召天者記念礼拝の時には、すでに天に召された方々の写真を飾ることになっておりました。大きなものではありません。普通のサイズの小さな写真を飾るのです。前任地の教会でのことですが、私が赴任した頃は、一つのテーブルの上に並べるだけで十分だったのですが、だんだん増えて、三段に並べる為の専用のタナが必要になりました。そして最後には、テーブルも一つでは足りなくて、二つのテーブルを置いて、その上に三段のタナをおいて、写真を並べるというような具合になってしまいました。その数は、いつの間にか、毎週礼拝に来られている人達の人数より多くなってしまいました。写真の数は増える一方で、減ることはありません。そこで当たり前のことに気が付きました。教会という所は、目に見える人達の交わりよりも、すでに天に召された方々の方が多いということです。この鹿島町教会では、この召天者の方々の名簿に載っている人達の数は、まだ教会員より少ないですけれど、やがては、この召天者の名簿に載っている人達の方が何倍も多いということになるのだろうと思います。そんなことを考えながら、天の故郷、つまり天の父なる神様の御許を思いますと、そこはなかなかにぎやかなのではないかと思いました。教会という所は、逆氷山と申しますか、「氷山の一角」という言葉がありますが、これは氷山というのは水の上に出ているのはほんの一部で、大部分は水の下に隠れている、見えないことの方が大きいのだということを示している言葉ですが、その氷山をさかさまにいたしまして、一部分はこの地上の教会として姿を現しているけれども、その大部分は、天にあって私共の目には隠れている。逆氷山と申しますか、さかさま氷山と申しますか、それが教会というものなのではないかと思うのです。私共の目に見える教会というものは、まさに氷山の一角ということなのでしょう。
 私は以前、年配の牧師にこう言われたことがあります。自分が責任を持っている教会の礼拝出席が少し下がった時、自分の無力さを思いまして、ある年配の牧師と話をしている時に、そんな思いがポロッと出た時のことです。その牧師は、こう言われました。「小堀君、教会の日曜日の礼拝というものは、目に見える、今、元気に教会に来ている人達だけでささげているのではないのだよ。年をとって教会に来られなくなっている人、そして、すでに天に召された数え切れない聖徒達と共に、礼拝を守っているのだよ。目に見える、氷山の一角のことで、クヨクヨしなさんな。」そう言われたのです。まさに、私にとっては、目からウロコでした。頭では判っている。いや、判っているつもりでした。しかし、判っていない。目に見えることに、目も心もうばわれてしまう、私の愚かさ、私の弱さを思わされました。

 私共は、いつも目に見えることばかりに目をうばわれて、見えないものに目を注ぐということを忘れております。しかし、この召天者記念礼拝の度毎に、私共は改めて、目に見えない交わりの中にあるということを知らされるのであります。先に天に召された方々は、写真を飾ろうと、名簿を作ろうと、見えないことに変わりはありません。しかし、教会というものは、目に見える交わりだけの存在ではなく、この先に天に召された方々を含めた聖徒の交わりなのであり、私共はその目に見えない交わりこそ、本当の交わり、永遠の交わりであるということを信じているのです。私共は、日曜日にここに集って礼拝をささげる度に、この目に見えない天上の教会の人々と共に礼拝をささげているのであります。そう考えてみますと、私共の前には、壮大な世々の聖徒達の群が現れて来るのではないでしょうか。その群の中には、もちろんこの名簿にある人々の顔があります。しかし、それだけではありません。旧約聖書に出てくる人々、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ギデオン、サムソン、ダビデ、ソロモン、イザヤ、エレミヤがいます。そして、新約聖書に出てくる、ペトロ、ヨハネ、パウロ、マグダラのマリア、そしてザアカイもいるでしょう。そして又、二千年間の教会の歩みを共にした人々、アウグスチヌス、キブリアヌス、バシリウス、グレゴリウス、フランシスコ、ルター、カルヴァン、ツウィングリ、エコランバデウス、植村正久、トマス・ウィン、アームストロング女史、田口牧師がいる。そして私共の愛する、先に天に召された方々も、その壮大な群の中にいるのであります。
 今朝与えられている聖書は、「これらの人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでした。」と13節に記されています。私共のこれらの信仰の先達は、信仰を持ってこの地上の生涯を送ったわけですが、彼らはその地上の歩みにおいては、約束のものを手に入れることは出来なかったのです。この約束のものとは、「罪の赦し」であり、「体のよみがえり」であり、「永遠の命」というものであります。これは私共の救いの完成を言い表したものです。勿論、それらは皆神様によって約束されたものでありますから、必ず与えられることになります。しかし、この地上の歩みの中では、まだそれを手に入れることは出来ませんでした。それは私共も同じでしょう。この地上の歩みの中で、完全に罪を犯すことがない者となるということは、あり得ないのです。ですから、私共のこの地上の歩みというものは、実にそれらを手に入れる為の営みである、そう言っても良いだろうと思います。神の民のこの地上での歩みは、皆、この天にある完全な救い、救いの完成を求めての旅だったのです。全ての神の民の生涯は、この天の故郷を目指しての旅なのです。神の民、それは、天の故郷を目指して旅を続ける、旅人の群なのです。

 信仰の父と呼ばれるアブラハムは、まさに文字通り、旅をもって生涯を貫いた人でした。彼には故郷がありました。しかし、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。」との、神様の言葉を受けて旅立ちました。その時彼はすでに75才でした。彼は生涯、自分の家を持つことなく、ただ神様の言葉に従って旅を続けたのです。旅人であった彼は、どこの地でも「よそ者」であり「仮住まいの者」でありました。ここには、その後四千年にわたって続く、神の民の原型があります。もちろん、この地上にあって、私共は皆文字通りの旅人として生きるわけではありません。家を建て、そこに住み、仕事をなし、その土地に根を張って生きるのでありましょう。しかし、旅人であることを止めたのではないのです。天の故郷を目指して、私共は旅を続けているのです。私共は、やがて帰るべき本当の故郷、天の故郷、天国と言っても、神の国と言っても同じです。私共はそれを持っている。私共は、この目に見える地上の生涯が全てではないことを知っているのです。この地上の生涯は、やがて迎えられる天の故郷へ行く為の備えの日々であることを知っているのです。だから旅人なのです。
 人生を旅に見立てるのは、聖書の専売特許ではありません。松尾芭蕉を始め、多くの日本人も又、人生を旅に見立ててきました。ですから、人生を旅にたとえるのは、日本人にとって親しみのあるものだろうと思います。ただ違いますのは、どうも日本人が人生を旅に見立てる場合、人生は死に向かっての旅であり、結局人は何をやっても空しいという所に落ち着いてしまうということがあるのではないかと思います。ですから、この人生を旅としてイメージする場合、その旅はどこかうら寂しい、そんな印象をぬぐえません。しかし、聖書が告げる、私共の人生という旅は、天の故郷、神様が用意して下さった天の都という、まことに輝かしい、喜びと祝福とに満ちた約束の地に入ることを目指す旅なのであります。この約束の地に比べれば、この地上の栄華は、全てかすんでしまう程の輝きに満ちた、栄光につつまれた都です。この天の都においては、私共の一切の罪はぬぐわれ、永遠の命が与えられるのです。地上における私共は、悩みがある。悲しみがあり、不安がある。年をとれば、体のあちこちが痛むのです。しかし、私共には天の故郷があるのです。そこには、父なる神様がおられ、主イエス・キリストがおられます。そして、私共の愛する人々を含めた、世々の聖徒達がいるのです。しかも、一切の罪をぬぐわれた者として、神様の御心を自分の心として生きる者達としているのです。そこを目指す旅でありますから、その旅は明るい、希望に満ちた旅なのであります。

 私は今、私共に備えられている天の都に比べるならば、地上の全ての栄華はかすんでしまうと申しました。まさに、このことが大切なのです。それは、どのような状況の中にあっても、これが全く正しい、最高だ、これで良いとは完全に思い込むことはないということなのです。ある人は、これをキリスト教の健全な批判精神と申しました。天の故郷を知っているが故に、そこから見れば、この世界の欠けというものが見えてくる。もっと言えば、罪が見えるということなのであります。そして、世の中とはこういうものだと言って、簡単にあきらめないのです。もちろん、私共自身の中にも罪があります。天の故郷を目指す者になったからと言って、罪が無くなるわけではありません。ですから、しばしばキリスト者に対する批判として、言っていることは良いのに、やっていることはメチャクチャじゃないかというものがある。家族から、こう言われることが多いと思います。
 私共は、これに反論しても仕方がないのですし、出来ない所があります。当たっているからです。しかし、それでもなお、私共は天の故郷を知らない者のように生きることは出来ないのです。この社会に、正義と公平が満ちなければなりませんし、愛が破られていって良いはずがないのであります。神様が神様として重んじられ、人間の一人一人が大切にされなければならないのです。確かに、私共には欠けがあるのです。弱さを持っている。しかし、神様はそのような私共の神と呼ばれることを恥とはなさらないのです。喜んで私共の神と呼ばれ、私共のつたない歩みの全てを、守り、導き、支えて下さるのです。誠実に真実に天の故郷への道のりを歩んでいこうとする私共と共にいて下さるのであります。この神様が共にいて下さるということが、私共の天の故郷への旅において、最も重要なことなのです。私共は神様が共にいて下さることを知っていますので、弱っても、困りはてても、それでも、この旅を途中で止めることはないのです。この主が共にいて下さること、ここに、私共の平安が、安心があります。この旅は、途中で止めてしまえば、始めなかったのと同じになってしまうからであります。今朝、私共が覚えて礼拝を守っている、先に天に召された一人一人は、皆、今私共が歩んでいる旅を最後まで歩み通し、輝きに満ちた天の故郷の都へと迎えられた人々です。私共も又、この方々の足跡にならって、それぞれ与えられた場において、天の故郷への旅を続けてまいりたいと思います。

[2005年10月30日]

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