富山鹿島町教会

礼拝説教

「ただ主の祝福を信じて」
創世記 13章1〜18節
コリントの信徒への手紙二 4章7〜18節

小堀 康彦牧師

 アブラハムの物語を読み進めております。神様の御前におけるアブラハムの歩みと、私共の信仰の歩みが重ね合うようにと願ってのことであります。
 アブラハムとロトとは、旅を続けておりました。旅と言っても、彼らの仕事は羊や牛を飼うことですから、この家畜を飼いながら、家畜のえさである草を求めながらの旅ということだったでしょう。彼らの財産は増えました。財産というのは、主に家畜の数です。当時の家畜の飼い方は放牧ですから、その土地に生えている草の量で、飼える家畜の数は決まってしまいます。家畜が多くなりすぎれば、当然のこととして、少ない草場をめぐっての争いが起きます。アブラハムとロトの家畜を飼う者の間にも争いが起きてしまったのです。これは、実に象徴的なことではないでしょうか。アブラハムとロトは、財産が少ない間は仲良くずっと一緒に旅をしてきていたのです。ところが、財産が増えると、それが出来なくなってしまったというのです。財産が増えるということは、私共は良いこと、嬉しいことと思っておりますけれども、単純にそうとばかりは言えないことがあることを知っておくべきなのでしょう。財産が増えれば、それが原因で親族の間での争いが起きる。そういうことがあるのです。
 さて、アブラハムはこの時、ロトに対して一つの提案をいたします。アブラハムは伯父、ロトは甥です。ロトの父はすでに亡くなっていました。ですから、アブラハムはロトにとって父親代わりのような者であり、アブラハムはロトを心に掛け、彼と一緒に旅をしてきたのです。その二人が家畜の草場をめぐって争うというのは、いかにも醜いことです。神様の御心にかなわないことであることは明らかでしょう。しかも、周りには、カナン人やペリジ人といった土地の人も住んでいる。きっと彼らの間でもこのことは評判になってしまうかもしれません。これでは証しになりません。アブラハムは、ここで別れよう、お互い別の方向に行こう、そう提案いたします。ただ、この時アブラハムは、自分はこっちへ行く、お前は向こうへ行け、とは言わなかったのです。伯父であるアブラハムの立場としては、そう言うことも出来たかとも思いますけれど、彼はそうしませんでした。ロトに選ばせるのです。ロトが右へ行くなら自分は左へ、ロトが左へ行くなら自分は右へ行く。そう提案したのです。この時、アブラハムとロトの前には、東へ行けば低地のヨルダン川が流れる緑の豊かな土地、西へ行けば山が続く赤茶けた痩せた土地が広がっていました。
 ロトは東の緑の豊かな土地を選びました。これは当然の選択であったと思います。そして、アブラハムはそれとは反対の西側の土地へと進んで行くことになったのです。ここで少しパレスチナの地図を思い出して欲しいのですが、パレスチナは西は地中海に面し、この沿岸は平らな所で、緑もあります。そこから東へ行くと、そこは山地であり、しかもこの山地は、日本のような緑におおわれた山を考えてはいけないので、水の少ない、赤茶けた大地がどこまでも続き、そして所々に草がある。そんな所です。さらに東へ行くと低地となり、ヨルダン川が流れ、緑が豊かな土地があるのです。ロトはここで、このヨルダン川の流域をとったのです。そしてアブラハムは中央の山ばかりの土地へ進むことになったのです。ロトは良い方を選んだ。当然のことです。しかし、人の目には良い所に見えた所は、ロトには大変きびしい結果をもたらすことになりました。これは、もう少し後の所を読めば判るのですけれど、そこは豊かな土地でしたから、すでに多くの人が住んでいたのです。14章においては、ロトは全財産を略奪され、アブラハムが318人の手下を連れてそれを取り返したということが記されています。そして、18、19章では、ロトが移り住んだソドムは悪が満ちていた為に、神様によって滅ぼされることになってしまったのです。アブラハムはこの時も神様に願って、ロトの家族を助けるのですが、ロトの妻は後ろを振り返ってはいけないというのに後ろを振り返って、塩の柱になってしまったということが記されています。あの有名な箇所です。もちろん、この時ロトはそのようなことは知りません。

 ここで、ロトは豊かな方を選んだ。アブラハムはその結果として痩せた土地へ行くことになりました。ここを、ロトは一見豊かに見える所を選んだが、それは間違いだった。アブラハムは貧しい方を選んだが、それが正解だった。そういう風には読まない方が良いと思います。そういう読み方をしますと、私共は自分の人生においても「犯人捜し」をしかねません。つまり、私はあの時こっちを選んだけれど、その結果、こんなひどいことになった。あの時、別の方を選んでいれば良かったのに。そんな風に考えかねない。このような理解の仕方は、私共の人生に対しての誤解、間違った理解の仕方なのではないでしょうか。もし、あの時に別の方に行けば、もっとひどいことになっていたかもしれないのです。私共の人生は、どちらを選んだか、そんなことで決まってしまうようなものではないのです。どちらを選ぶべきか、どっちを選んだ方が将来得か、成功するか、そういうことをここで読むべきではないのです。人は誰も、将来何が起きるのかは判らないのです。この時点では、ロトの選択は10人いれば10人がそうする、当然の選択をしただけだったのだと思うのです。アブラハムにしても、自分からわざわざ山地の痩せた土地を選んだわけではありません。ロトが低地を選んだので、その結果自分は山地の方に行くことになったというだけです。問題はこの後なのです。ロトと別れた後、アブラハムは主なる神様からの祝福の言葉を受けます。14節以下ですが、「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから。」という言葉です。そして、18節で、アブラハムは主の為に祭壇を築いた。つまり礼拝したのです。アブラハムにとっては、豊かな土地であろうと、痩せた土地であろうと、どちらでも良かったのです。神様が共にいて下されば、神様と共に歩んでいければ、それで良かった。自分の将来は、この神様の御手の中にあるからです。神様の御手の中にある祝福こそ、自分の将来の全てであることを、アブラハムは知っていたからです。アブラハムは、今、自分の目に豊かに見えるかどうか、その土地に将来性があるかどうか、そんな判断によって生きたのではなくて、神様の御手の中にある祝福だけを信じ、それだけを頼って生きたということなのであります。このことこそ、このアブラハムとロトとの別れの場面において決定的なことだったのです。私共は、このことをここから読み取らなければならないのです。
 私共の人生の歩みも、そのようなものでありたいと思うのです。私共も人生において、右か左か決断しなければならないことがあります。若者は、どこの大学へ行くか、どこの会社に就職するか、まるでそのことによって自分の人生の全てが決まってしまうかのように考える。しかし、全くそんなことはないのです。いいかげんで良いと言っているのではありません。真剣に考えなければなりません。しかし、自分が見える所、判ること、それは本当にわずかなことなのであって、それよりも全てを知り全てを導いて下さる方がいることを私共は知っている。私共の将来は、この方の御手の中にある。私共はこの神様の御手の中にある祝福をいただくこと、このことに全てをかけなければならないということなのであります。それが、信仰を与えられている私共の生き方なのであります。アブラハムは、そのことを知っていたのであります。

 使徒パウロも又、このことを知っていました。彼は、このことを先程お読みいたしましたコリントの信徒への手紙二4章7節で、このように言い表しました。「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」 私共は土の器です。弱く、愚かで、もろく、罪に満ち、やがて時が来れば死を迎えるしかない器なのです。しかし、この土の器には、宝が納められている。この宝とは信仰であり、福音と言っても良いでしょう。私共は、この宝を宿した者として、神様の御業に仕える器、道具とされたのであります。まことにありがたいことです。まことに栄光に満ちた、恐れ多いことであります。私共は信仰を与えられた。それは、私共が救われた者とされたということでありますけれど、単に自分は救われたという所にとどまりません。私共が神様の救いの御業にお仕えし、用いられる者にされたということであります。このように申しますと、それはアブラハムやパウロのような偉い人の場合であって、自分のような者はそんなことはないと言う人がいるかもしれません。しかし、そうではないのです。この宝を我が身に宿した者は、誰でも皆、この宝によって、この宝の力によって、どんな状況の中でも生きることが出来るし、生かされる者とされているのです。
 私共は自分の力を信じなくて良い。そんな力は私共にはないのですから。しかし、私共の中に宿った宝の持つ力を信じて良いのです。パウロは言います。8、9節「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」これはパウロの日々の歩みの上から出た言葉でしょう。確かに、四方から苦しめられることはある。途方に暮れることもある。虐げられ、打ち倒されることもある。しかし、行き詰まらず、失望せず、見捨てられず、滅ぼされることもないのであります。私共の中に宝があるからです。この宝は、私共を復活させる程の力を持つものなのであります。
 私共は、信仰というものを、自分の心の一部、考え方や生き方の一部のように思っているかもしれませんが、そんなものではないのです。それは、まさに、この土の器に宿った宝なのです。私共は、この宝を、又、この宝を宿している自分自身を、驚きを持って見つめざるを得ないのではないかと思います。私共は年をとる。体も弱くなり、耳も目も足腰も弱くなる。それは、私共が土の器だからです。しかし、この土の器に宝が宿っている。土の器であることは、誰に言われなくても判ることです。しかし、私共の本当の価値、本当の力は、この土の器の中に宿った宝にあるのです。私共は、ただの土の器ではない。宝を内に宿した器である。この宝は、私共に罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命を備えるものなのです。それ故に、この宝を宿した者は、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ者とされるのであります。「見えないものに目を注ぐ」とは、まことに日本語としては変なのですが、そういうことなのです。自分の中に「宝」あることを知らされた者は、この「宝」は見えないのですから、この見えない「宝」よって自分の価値が大いなるものになることを知らされたのですから、「見えないもの」に目を注がざる得ない。見えないものに目を注ぐことを学ぶのです。見えないもの、それは私共に隠されている、神様の御手の中にある祝福です。それは、究極的には、終末において与えられる、罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命ということになりますが、それだけに限定しなくても良いでしょう。私共には、明日は隠されているのですから、私共に隠されている明日、将来のことをも含んでいるのです。この「神様の御手の中にある」もの、ここに目を注ぐのです。私共はその祝福を信じて良いのですし、それを信じて今、自分の出来ること、しなければいけないことを、精一杯していけば良いのであります。

 アブラハムにしてみれば、豊かな低地でも、痩せた山地でも、どちらでも良かったのです。神様の祝福は、どちらに行かなければ約束されないというようなものではなかったからです。どちらにしても、主の祝福はある。そして、その神様の祝福こそが、自分の全てであることを、アブラハムは知っていた。そして、そこに自分の将来の全てを掛けた、委ねた。そのことの故に、アブラハムは、信仰の父と呼ばれるようになったのでありましょう。 私共の神様は、私共がどこにいても、何をしていても、共にいて下さる方です。ここでこれをしていなければ、神様の祝福に与ることは出来ない。そんなことはないのです。だから、私共は安心して、喜んで、たとえつまらないと思えるような中にあっても、精一杯、誠実に、真実に、為すべきことに励んでまいりたいと思うのであります。その歩みこそが、神様の恵みを証しすることになるのであります。神様の恵みの証し人として生きるということは、主の御手の中にある自分の明日を信じ、安んじて、今やるべきことを誠実に、真実に為していくということなのであります。

[2005年10月23日]

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