今朝は伝道礼拝ですので、どうして私共キリストの教会では日曜日のたびごとに礼拝を守っているのかを、まずお話しいたしましょう。キリストの教会は、どこの教会でも日曜日のたびごとにこのように集まりまして、礼拝をささげております。国境を超え、民族を超えて、世界中の教会で、今、主の日の礼拝がささげられているわけであります。今、私は「主の日の礼拝」と申しました。日曜日のことを、キリストの教会は「主の日」と呼んできたのです。それは、この日曜日の朝、主イエス・キリストが復活されたからです。主イエス・キリストは金曜日に十字架におかかりになり、日曜日に復活されました。主イエスの勝利の日、死に打ち勝ち復活された日、それが日曜日なのです。私共は、日曜日のたびごとに、キリストの勝利を祝い、礼拝をささげているのです。もちろん、主イエスが復活された日は、イースター、復活祭として、毎年春に祝われるわけですけれど、イースターではない日曜日も、私共は主イエスの復活の出来事を喜び祝い、礼拝をささげているのです。私共は、日曜日にここに集うたびごとに、主イエス・キリストのご復活を思い起こし、自分も又、やがて時が来れば死を迎えねばならないのですが、しかしそれで全てが終わるわけではなく、キリストと同じように復活することを、心に刻み礼拝をささげているわけです。主イエス・キリストの復活の出来事は、二千年前に起きた不思議なことということではなくて、主イエスが復活されたのだから、私も復活するという、私の命の問題と結びついていることなのです。もし、主イエスが復活しなかったとするならば、私も又、この肉体の死をもって全てが終わる。しかし、主イエスは日曜日の朝、復活された。だから、私も主イエスと共に必ず復活する。この希望を心に刻む為に、私共は毎週日曜日、ここに集って礼拝をささげているのであります。
死は、人類の歴史が始まって以来、人類にとっての最大の問題でした。人類は、少しでも長く生きる為に、様々な薬を発明したり、食事に工夫したりしてきました。その結果、現代の私共は、70才、80才を過ぎても元気でいられる長寿を手に入れることが出来るようになりました。「人生七十古来稀なり」と唐の詩人、杜甫は歌いましたが、70才の古希の祝いをする人は、少しも稀ではなくなりました。しかし、死がなくなったわけでもありませんし、死が遠くに行ってくれたわけでもありません。死は相変わらず、私共のそばに居座っています。
もう20年程前になるでしょうか、医療の分野でターミナルケア、もうガンなどの病気が進行していて手のほどこしようがない、死を待つしかない、そういう人達の最後の時をどのように看取っていけば良いのか。そういうことが盛んに論議されたことがありました。その結果、いくつもの病院でターミナルケアの専門病棟が建てられたりもいたしました。私も宗教者として、いくつものシンポジウムに参加して、話を聞く機会がありました。そこで、興味深い話をいくつも聞きましたが、その中で、現代人は死を自分達の目が届かない所に隠してしまった。その結果、現代人は死というものを意識することなく、まるで不意打ちにあったかのように、自分の、そして家族の死に立ち会うことになってしまったというのがありました。なる程と思います。現代人のほとんどの人は、どこで死ぬかと言えば病院でしょう。しかし、ほんの少し前まで、多くの人は自分の家で死んでいった。おじいちゃんが死ねば、それを息子も孫も死んでいく姿を見たのです。死というものがどういうものか、見たのです。しかし、今ではそういうことはほとんどなくなりました。死を見ないで、大人になる人が増えているのです。しかし、死というものは、まことに厳しいものです。病院の白い壁の中に閉じこめても、やがて自分の上に、又自分の愛する者の上におおいかぶさってきます。今朝、私が皆様に申し上げたいことは、その時になってあわてるのではなくて、前もって備えをしておきましょうということなのです。死への備えと言っても、何も遺言書を書いておきましょうと言うのではないのです。私共は死によっては終わらない命があるということを知っておきましょうということなのです。
死というものは、良く判らない所があります。死んだらどうなるのか。これについて、絵に描いてお見せするようなことは出来ません。ただ、死で全てが終わるのではないということは、はっきり申し上げることが出来ます。
今、お読みいたしましたヨハネによる福音書の11章。ここには、主イエスの愛したラザロが死にまして、すでに死んでから四日たっていた。そこに主イエスが来られてラザロを甦らされたということが記されております。聖書の中には、主イエスが死んだ人を甦らされたという記事は、他に二つあります。けれどその中でも、このラザロの復活の記事が一番くわしくその様子が記されております。このラザロの復活は、主イエスの復活とは少し違います。何故なら、ラザロはここで復活しましたけれど、その後ずっと死ぬことはない者となったというわけではないからです。何年後か何十年後か判りませんけれど、ラザロはやはり死を迎えなければならなかったのです。しかし、このラザロの復活は、主イエスというお方には、人を復活させる力があるということを私共に示しています。そして、主イエス・キリストというお方は、自ら十字架の上で死んで三日目に甦られました。この主イエスの復活は、二度と死なない者として、死を打ち破った者としての復活でした。主イエスは復活され、40日間、その復活の姿を弟子達に示して後、天に昇られました。そして、今も、復活の体をもって天におられます。主イエスは、復活して天に昇ることによって、私共の為に天への道を拓いて下さったのです。私共が後からついていくことの出来る道を拓かれたのです。私共は皆、時が来れば死にます。例外はありません。しかし、ラザロを復活させられた主イエスの力が私共の上にも注がれ、私も甦るのです。そして、主イエスがおられる天に新しく生まれることになるのです。それが私共に与えられている希望の約束です。
死んだ者が甦る。しかも、二度と死ぬことのない者として、キリストの復活の体と同じ体をもって甦る。これは、まことに信じがたいことでありましょう。しかしこれが、聖書が私共に告げている約束なのです。信じがたいことでしょう。しかしこれが本当なら、こんなにありがたいことはないのではないでしょうか。このありがたい約束が、私共に与えられていると聖書は告げているのです。ただ、ここで確認しておきたいことは、私共の復活というものは、単に生き返るということではなくて、キリストに似た者として甦るということです。私共の一切の罪が清められた者として甦る。そうでなければ救いにはなりません。ただ長く生きるというだけでは、救いにはならないのです。この罪ある者が、その罪のままで永遠に生きるとしたら、それは救いと言うよりも、永遠の裁きなのではないでしょうか。
主イエスは、25節で兄弟ラザロが死んで嘆きの中にあるマルタに対して、こう言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」主イエスを信じる者は、死んでも生きる。不思議な言葉です。「死んでも生きる。」死んだら生きていないだろう。何を言っているのか判らん。そう思われる方もおられるでしょう。主イエスは「これを信じるか」と言われました。これは信ずべきことです。何らかの形で証明されるようなことではありません。信ずべきことなのです。確かに、命というものがこの肉体の命しかないのであれば、この主イエスの言葉は何を言っているのか判りません。しかし、私共の命はこの肉体の命だけではないのです。私共は、自分の命についてそれほどよく知っているわけではないのではないでしょうか。そもそも、私共の命というものは神様によって与えられたものです。自分のものではないし、自分で自由に出来るようなものでもないのです。私共は、この世に生まれようとして生まれてきたわけでもなく、気がついたら生まれていたということでしょう。それが、神様によって与えられたと言うことです。この神様と私共の命との関係は、この肉体の死をもっても終わることはないのです。何故なら、神様はこの天と地とあらゆるものを造られ、永遠に生き給う方だからです。この永遠に生き給う神様との関係は、私共の肉体の死を超えており、無から有を造られる神様は、その御心のままに、やがて時が来れば再び私共に命を与えられるのです。このやがて来る復活の時、それをキリストの教会は「終末」と言ってきました。この世界の終わりですが、新しい時の始まりでもあります。裁きの時でありますが、救いの完成の時でもあります。この終末において与えられる命、それが復活の命です。主イエス・キリストの復活は、私共が終末の時に与えられる復活の命の先駆けなのです。私共は永遠に生きることは出来ません。しかし、神様は永遠であります。この永遠である神様が、私共と永遠に変わることのない愛の交わりを結んで下さいました。それ故に、私共は神様の御手の中で、永遠に生きる者とされるのです。
私は牧師として、何十人もの人達の死に立ち会って来ました。牧師の死との関わりは、死んでからではありません。亡くなりましたと家族から電話があり、葬式をする。それが牧師と死に行く者との関わり方ではないのです。死を前にした時から、病床にある時から、その人が死を迎える日まで、共に歩んでいくものです。それは心が重い、辛い時であります。そういう中で、死を目前にして、洗礼を受けたいと申し出られた方に洗礼を施したことも、何度もあります。その中に、末期のガンにおかされ、病室に訪ねていくたびに、やせ衰えていかれている方がおりました。その人の娘さんから連絡を受けました。「父が洗礼を受けたいと言っている。洗礼を授けてくれないか。」わたしは何人かの長老と共にすぐに病室を訪ねました。その方は、もうベッドの上に起き上がることも難しい状態であったのに、私が来たという知らせを受けますと、ベッドの上に正座いたしまして、背筋をピンと伸ばされ、まるで今から切腹をする武士のような面持ちで、私を迎えられました。そして、洗礼を受けさせていただきたいと深々と頭を下げられました。この方は、ガンで入院されるまで、何年間か教会に通って来られていたのですが、洗礼を受けたいとは言われない方でした。お墓のこと等、色々考える所があったのでしょう。しかし、いよいよ自分が死を迎えるということが明らかになった時、私が病室に見舞いに行きますと、「自分のような者でも、神様は受け入れてくれるのだろうか。」と言われました。それは、自分の人生の全てを神様の前に差し出した者の、すがるような目でした。私は、「もちろんです。イエス様はあなたの為に十字架にかかり、あなたの一切の罪を背負って下さいました。ですから、あなたはその主イエスの救いの御業を信じるなら、あなたは一切の罪を赦され、神の子となり、永遠に生きます。」と答えました。娘さんから電話があったのは、それから数日後のことでした。この方は洗礼を受け、1ヶ月程して天に召され、私が葬儀をいたしました。
又、こんな方もいました。両親がクリスチャンでしたが、長いこと教会に背を向けていた人でした。お姉さんが教会員で、良く面倒を見ておられました。この方は肺気腫で、だんだん動くことが出来なくなってきました。ついに病院に入院ということになりました。その病室にも何度も訪ねました。そして、亡くなられる二ヶ月程前に、洗礼を申し出られました。身体中に、管がつながれている状態で、洗礼を施しました。そして、聖餐式を守りました。この方は、「これはキリストの体です。」と言って差し出された小さなパンを、食い入るように見つめ、アーメンと言って食べられました。あの目を、私は忘れることは出来ません。あれ程真実な聖餐式はなかったのではないかと思います。自分のこの肉体の死を超えた命がここにあるのか。キリストの体を食べ、キリストの命が私の中に入る。自分の人生の全てを、神様の御手に委ね、受け入れられた者の安堵が、その聖餐に与った顔には表れていました。その人の目から涙があふれていました。
教会という所は不思議な所で、私の葬式の時には、この讃美歌を歌って欲しいというような会話が平気でなされます。教会の外でこんな話をしますと、「縁起でもない」と言われるでしょう。しかし、教会では平気です。それは、死で全てが終わるとは考えていないからです。もちろん、死は悲しいものです。つらいものです。しかし、それで終わりではない。死では終わらない命があることを、私共は知らされているからです。
私共は毎週ここに集い、礼拝を守りながら、ある意味、死への備えをしているということなのだろうと思います。この会堂には、十字架だけがあります。十字架は主イエスの死を意味するものです。ここに来ればいつも、死を意識せざるを得ないのです。しかし、このキリストの十字架の死は復活に続くのです。私はここで礼拝を守りながら、神様の御手の中に生かされている自分を発見する。そして、この神様の御手は、私が死んでも、私の愛する者が死んでも、決して私を、愛する者を、捕らえて離さないことを心に刻んでいるのでしょう。私は神様に愛されている。この神の愛は、私の死を打ち破り、永遠の命を与えて下さいます。神の愛は死よりも強いのです。その確かな「しるし」が、主イエスの復活であり、ラザロの復活という出来事だったのであります。主イエスのラザロへの愛は、ラザロを甦らされました。このラザロを生かした愛が、私共の上にも注がれているのです。この神の愛、主イエスの愛、これが私共を、死を超えて生かすのであります。
祈ります。
[2005年10月16日]
へもどる。