礼拝説教「揺るがぬ幸いに生きる」詩編 18編1〜51節 ルカによる福音書 6章43〜49節 小堀 康彦牧師 ルカによる福音書を読み進めております。お気付きになった方もおられるかもしれません。今日の説教の題は、「揺るがぬ幸いに生きる」です。そして、今朝、皆さんのお手許に届いた「こだま」の8月号の巻頭説教、これは7月17日の礼拝説教ですが、この題が「揺らぐことなき幸い」となっています。どちらも揺るがぬ幸いでして、ただ今日の方は、そこに「生きる」が加えられています。実は7月17日の主の日の礼拝において与えられた御言葉は、6章20〜26節でした。そして、今日与えられているのは、6章43〜49節です。この6章20節から6章49節は、マタイによる福音書では5章から7章にかけて記されております、いわゆる「山上の説教」に当たる所です。ルカでは山の上ではなく、平地でなされておりますので、「平野の説教」とも呼ばれています。分量もマタイに比べると、ずい分と少ないのですけれど、告げられていることに変わりはありません。主イエスは「貧しい人々は幸いである。」と御自分のもとに来た者達を祝福されました。これは、まことの神であられる主イエスの祝福であり、主イエスはこの祝福を実現される為に自ら十字架におかかりになられました。この主イエスの御業によって保証された祝福でありますから、この祝福の中に生かされる私共の幸いは、決して揺らぐことがないのであります。神の国は、私共の為に大きく開かれているのです。まことに、この主イエスの祝福の中に生かされるということは、一方的な恵みであります。しかし、問題はそこでは終わらないのです。この主イエスの祝福の中に生かされる私共は、どんな生き方をしても良いのかということなのです。この揺るがぬ幸いに生きるということはどういうことなのか、どのように生きなければならないのか、それが今朝私どもに与えられている御言葉なのです。主イエスは、祝福を与え、その後で、敵を愛せ、人を裁くな、そう告げられました。戒を与えられたのです。そして、今日の平野の説教の最後の部分で、47〜48節「わたしのもとに来て、わたしの言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。」とあり、逆に聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている、と言われているのです。明らかに、主イエスの言葉を聞くだけではなくて、行わなくてはならない。そうでないと、揺るがぬ幸いの中に生きることは出来ない。そう言われているのであります。揺るがぬ幸いに生きるということは、主イエスの言葉を聞くだけではなくて、行うことだと告げられているのです。 これは「信仰と行い」の関係を言われているのだと考えて良いでありましょう。私共福音主義教会の旗印は、「信仰義認」です。行いによるのではなく、ただ信仰によって神様に義と認められ救われるというものです。これが福音です。しかし、この信仰義認という私共の中心的教理が受けてきました誤解は、「行いはどうでも良いのか」というものでした。信仰によってのみ救われるのだから、どんな風に生きようと関係ない、救われるのだというものです。この様な主張は、福音主義教会の内部からも生まれて来ましたし、カトリックの側からも「だからプロテスタントはダメなのだ。」という批判として展開されてきました。信仰だけでいい、行いなどどうでも良い。そのような主張をする人々を、「無律法主義者」と言います。律法が無い、律法はいらないという人々です。これは、この主イエスの言葉、「聞いても行わない者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。」から見ても間違っていることは言うまでもありません。あるいは、旧約において十戒を与えられた神様の御心とも反しているでしょう。又、ヤコブの手紙を思い起こすことも出来るでしょう。聖書は行いはどうでも良いなどとは少しも言っていないのです。そして又、信仰義認を旗印とする私共福音主義教会も、行いなどどうでも良いなどと言ったことは一度もないのです。確かに、私共が救われるのは行いによらず、ただ主イエス・キリストを信ずる信仰によります。しかし、主イエスを我が主、我が神と告白し、信じる者は、どうして主イエスの語られたことを、どうでも良いなどと言って捨て去ることが出来るでしょうか。そんなことは出来ないことなのです。私共は主イエスを信じます。それ故に、主イエスの告げられた戒に真実に従って生きていきたい、そう願うのではないでしょうか。私共の信仰は、ただ主イエスの言葉、神の言葉を聞くだけでは終わらない。聞いて、従っていくのであります。聞いて従う。つまり、聞いて行うのであります。そもそも、私共にとって主イエスを信じるということは、単に頭の中のことなのではなくて、キリストに従うという生活を含めたことなのでありましょう。生活なき信仰などというものは存在しないのです。信仰とは、生身の人間の中に与えられるものでありますから、そこには生活があるのです。もちろん、その生活には破れがあり、とてもその業をもって救いに値するようなものではないでしょう。神様の御前に誇れるような生活ではない。しかし、神を愛し、キリストを愛するが故に、神の言葉・キリストの言葉に、精一杯応えていきたい、喜んで従っていきたいという所に生まれて来る生活というものがあるはずなのです。それが、信仰生活というものなのです。
週報にありますように、教会学校は先週の日曜日の午後から出発いたしまして、立山で一泊の夏期学校を行いました。テーマは「十戒」です。子供たちは、ゲームや制作をしながら、十戒を覚えました。どうして子供たちに十戒を覚えさせるのか。それは、とても単純な理由です。覚えなくて、どうしてそれに従って生きることが出来るのかということなのです。もちろん、覚えることが目的ではありません。何よりも、喜んでこれに従う者として生きるということです。十戒は覚えているだけでは意味がない。それを守る、それに従って生きるということにならなければ意味がないのです。しかし、そのためにはまず覚えなければならないのです。
さて、私共の信仰は生活というものをともなっているということを先程申しました。信仰生活です。私は信仰というものは、それにふさわしい生活を整えることによって、より堅固になっていくと考えています。つまり、聞いても行わない信仰は、実に弱い。もろいのです。しかし、聞いて行う信仰は、実に堅固なものとなっていくのです。
主イエスは、43節「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。」と言われています。これは、木とその実というたとえによって、信仰と行いの関係を示しているのでしょう。「木」が信仰で、「実」が行いです。そして、その行いの代表として、口から出る言葉というものがあると言われているのです。実に言葉というのは難しい。一言で人の心を深く傷つけますし、長い間の関係を壊してしまうということだって起きるのです。特に、最近は若い人達のコミュニケーション能力の低下が、様々な所で問題になっています。これは、何も若い人達だけの問題ではないのかもしれません。実は、牧師の世界でも、これは大きな問題となっているのです。しかし、これに対して何か技術的なもので乗り切れるということはないのではないかと、私は思います。「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」と主イエスが言われているように、私共の心が信仰によって清められること、神様から、キリストから注がれる愛で満たされることによってしか変えられていかないのではないかと思うのです。 [2005年8月7日] |