富山鹿島町教会

礼拝説教

「神の赦しに与る者として」
レビ記 25章8〜17節
ルカによる福音書 6章37〜42節

小堀 康彦牧師

 ただ今お読みいたしました申命記25章には、ヨベルの年の規定が記されております。ヨベルの年、それは50年に一度、その年が来たならば、角笛の響きと共に、貧しさの故に自分の土地を手放した者は、それを取り戻すことが出来、あるいは自分自身を身売りした者は、解放されるという規定であります。土地も人も、本来神様のものであるが故に、売買の対象となってはならないというのが基本にある訳です。このヨベルの年の規定が、イスラエルの歴史において、実際に行われたかどうか、それはよく判りません。しかし、50年に一度、全ての負債から解放されるべき規定が、このように神様の定めとして律法に記されているということは、大きな意味があると思います。それは、私共は経済的な貧富の差によって、互いに支配し支配される関係になってはならないということ、又、全ての負債は免除される、赦されるということが、神様の御心であることが示されているからです。負債を免除する。それは、自分の富は自分のものであると思っている人には、決して判らないことだろうと思います。しかし、富にしても土地にしても、それは元々神様が自分達に与えて下さったものである。そのことが判りますと、このヨベルの年の規定も判るのではないかと思うのです。神様のものを神様にお返しする。それが、このヨベルの年が意味していることなのだろうと思うのです。
 主イエスは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」(ルカによる福音書20章25節)と言われました。今、何が皇帝のもので、何が神のものであるかを議論する時間はありませんが、主イエスは「神のもの」と言うべきものがあると言われた。そして、それはどこまでも神のものであるということなのであります。ここで今朝、私共が心に留めたいのは、何よりも人、人格を持つ人間というものは、神様のものであるということであります。私共は、自分の人生も命も自分のものと思っている所がありますが、そうではない。私共を造られた神様のものなのであります。ですから、人間というものには、又、その人生というものには、本人でも十分判ることが出来ない程の深み、謎があるのであります。それが人間の尊厳というものなのでしょう。そのことを忘れて、自分の小さな頭の中で全てが判っているかのように勘違いして、人を判断し、評価して、裁いてはならないのであります。人は神様のものだからであります。

 主イエスは、今朝与えられている御言葉において、「人を裁くな。」と命ぜられております。それは、今申しましたように、まるで自分が神様にでもなったかのように、人よりも一段も二段も高い所に身を置いて、何も判っていないのに判ったような顔をして、神様のものである人を裁くなということであります。しかし、何もここで主イエスは、裁くことの一切を行ってはならないと言っているのではありません。もし、この社会から裁くということが一切なくなったとしたら、それは恐ろしい無秩序な社会になってしまうでしょう。正しい裁きはどうしても必要なのです。しかし、その人が神様のものであることを忘れ、自分が神様のようになって裁いてはならない。そう言われているのであります。
 今、正しい裁きは必要だと申しました。では正しい裁きとは何なのか? これには、色々な言い方は出来るでしょうけれど、一つには「公の裁き」ということだろうと思います。「教会は主イエスに従う者達の群だ。だから、この主イエスの『人を裁くな。』という言葉にも真実に従わねばならない。従って教会においては一切、裁くということがあってはならない。」という、誤った主張がなされる場合があります。そして、教会において無法・不法ということが正当化されるのです。これは、この主イエスの言葉を曲げて理解しています。教会は、主イエスの権威・キリストの御支配が立てられていく所です。ですから、キリストの御支配のもとで、正しい裁きがなされ、キリストの支配という秩序が保たれなければならないのです。私共の教会は、長老教会の伝統に立つ教会です。この教会の秩序を保つ為に、正しい裁きをなす為に立てられているのが、長老であり、長老会なのであります。長老会の重要な責任の一つは、戒規を執行するということです。教会の秩序を乱す行為、例えば、三位一体を否定するとか、教会員や牧師への誹謗・中傷を教会員の家に電話をして連日行うとか、そういうことがあれば、長老会はその人を呼んで、訓戒しなければなりませんし、それでも、悔い改めなければ、陪餐停止、除名ということを行わなければなりません。ただ、ここで重要なことは、教会でなされる戒規というものは、悔い改めを求める為のものであるということです。悔い改めたならば、喜んで、再び交わりの中に迎え入れるのです。まさに、赦す為になされるものなのです。その人を罪人と定め、切って捨てる為のものではないのです。この主イエスの言葉に真実に従おうとして定められた制度なのです。

 主イエスは公の裁きを否定されたのではないのです。主イエスがここで問題にされたのは、個人的になされる裁き、プライベートな、私共の日常の生活の中でなされる裁きです。日々の生活の中で、「人を裁くな。」そう、主イエスは言われたのです。このように言われて、心に思い当たる所がない人は一人もいないだろうと思います。私共はしょっちゅう、「あの人はこうだ。」「この人はこうだ。」「あの人も、もっとこうならいいのに。」そんなことを言っているものであります。そして、そんなことを言っている時、私共はその人より高い所に立っているのでしょう。しかし、主イエスはここで、人より高い所に立って偉そうに人を評価している「あなた」はどうなのか、そう言われているのであります。
 人を批判するのは、本当に簡単なことなのです。誰にでも欠けはあるのですから、そこを突かれれば、何も言うことは出来ません。牧師だってそうです。完璧な牧師など居ません。皆、欠けがある。しかし、その欠けをあげつらうことによって、主が求めておられる交わりが出来るのかということです。偉そうに言っているあなたも、ちっとも判ってはいないのではないか。それでは、盲人が盲人の道案内をしているようなものではないか。そう言われているのです。又、41節で「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」と言われているのは、まさにそのことでありましょう。兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、自分の目の中にある丸太に気づかない。これは、まさに私共の姿であります。自分のことは棚に上げて、平気で人の批判をするのです。
 これは、教会の中でも起きることです。主イエスが、この戒を語られたのは、主イエスのもとに来た人々に向かって言われたのです。つまり、教会の外の人に向かって言われたのではないのです。私は牧師をしていて一番悲しくなるのは、そのような批判を聞かされる時です。その批判が当たっていることもある。そこまでは言えないだろうということもある。いずれにせよ、牧師としては何とも返事のしようがなくなります。言葉を失い、黙ってしまうしかありません。ただただ、そのような批判を聞かされ、悲しくなるのです。口を制御するのは、本当に難しい。主イエスは「口に入るものは人を汚さず、口から出て来るものが人を汚すのである。」(マタイによる福音書15章11節)と言われた通りだと思います。
 私共は人のことは見えても、自分のことが判らないのであります。自分が傷つけられることには敏感ですが、自分が人を傷つけていることにはまことに鈍感なのです。だから、涼しい顔をして、人を批判出来るのでしょう。主イエスは、「まず自分の目から丸太を取り除け。」と言われます。この丸太と言われているのは、私共の偏見であったり、好き嫌いであったり、自分と合う合わないといったことであるかもしれません。そんなことで人を評価し、裁いていることが少なくないのです。そしてこの丸太という、私共の罪を取り除けと主は言われるのです。私共自身の罪を知れということでしょう。「そうすれば、はっきり見えるようになる。」と言うのです。何が見えるのか。それは、その人がどうして、そうしないではいられなかったのか、そういう所が見えてくるということなのではないでしょうか。自らの罪を知る時、私共は自分がしていたことの本当の姿が見えてくるということでしょう。自分の弱さ、小ささ、欠け、愚かさ、そういうものが見えてくる。自分の心が見えてくる。私共はなかなか、自分の心が見えないものなのです。見たくないし、見ようとしないのかもしれません。しかし、主イエスと出会って、私共は自分自身の罪から目をそらせることなく、自分の心のあり様を見ざるを得なくなった。キリストの光に照らされた時、そこには、自分のことしか考えることの出来ない、みじめな罪人がいたのです。それを知った時、私共は、人の上から偉そうに「あの人はこうだ。」などと言うことは出来なくなるのです。そうではなくて、この人も私と同じ罪の中にあえいでいるのだということが見えてくるのではないでしょうか。そして、その時の私共の眼差しは、上から下へと人を見下すような眼差しではなくなっているはずなのです。あの人はダメだと言ってすますことが出来ない。その人の心の傷に寄りそい、その人の為に主に執りなしの祈りをささげる者とされるのではないでしょうか。これを愛と言っても良い。そのような思いを持ち、兄弟と接する時、私共の言葉は相手に届き、心が通じるようになるのでしょう。愛のない所で言葉は通じない。しかし、愛と共に言葉と心が通じるということが起きるのであります。そこで初めて、兄弟の目にあるおが屑を取ってあげることが出来るようになるのであります。その時、私共はすでに、裁く者から、赦す者へと変えられているということなのではないでしょうか。

 裁くな。赦しなさい。そうすれば、あなた方も赦される。そう主は言われます。しかも、それに続いて、38節「与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。」と言われる。このあふれるほどに与えられるものこそ、主の祝福であり、主の赦しなのであります。私共はすでに、それを与えられる者とされています。このあふれるばかりの主の祝福と赦しとに生きる者とされていることを知る時、私共は、裁かず、赦す者としての歩みを踏み出していくのでありましょう。
 私共はここで、主イエスが与えて下さった祈り、主の祈りの中の「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦し給え。」という祈りを思い起こさざるを得ないのであります。私共が赦すということと、私共が赦された者であるということが、一つの祈りとなるのです。主イエスによって赦された私共は、兄弟を赦す者として歩むのであります。そして、そのような互いの関わりの中で、キリストの御支配が明らかとなる、主の御体なる教会の交わりが形成されていくということなのであります。このような交わりに生きることが許されていることを喜び、感謝しつつ、互いに赦し合う者として、この一週も主の御前を歩んでまいりたいと思います。

[2005年7月31日]

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