富山鹿島町教会

礼拝説教

「憐れみ深い者となりなさい」
申命記 15章7〜11節
ルカによる福音書 6章27〜36節

小堀 康彦牧師

 主イエスは、御自分のもとに来た者達を祝福なさいました。神の国に入る約束を与えて下さいました。そして、その祝福に生きる者はどのようにこの地上の生涯を歩むのかを示して下さったのです。それが、今日私共に与えられている主イエスの御言葉です。この言葉が、主イエスの祝福に続いていることは、とても大事なことです。主イエスは祝福を与え、そして、その祝福に生きるということは具体的にどういうことなのか、そのことをお示しになったのです。この主の戒めの言葉を与えられ、これに生きる者は、すでに主イエスの祝福の中に生かされている者なのです。
 「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」そう、主イエスは告げられます。この様な言葉を聞くと、「そんなことは私には無理だ。出来っこない。」そんな思いが、私共の心に湧いてくるかもしれません。あるいは、「こんなことは理想主義で夢物語だ。現実は厳しく、こんなことでは生きていけない。」そう思う人もいるかもしれません。私が洗礼を受け、キリスト者になりました時、私の父は反対はしませんでしたけれども、この所の主イエスの言葉を引いて、「右の頬を打たれたら、左の頬をも出すような生き方では、この厳しい現実は生きていけないぞ。右の頬を打たれたら、三倍にして返してやるぐらいの気持ちを持て。」と私に申しました。社会人になる前に、こんな甘っちょろい宗教に入った息子の前途を案じたのでしょう。このような反応が起きるのは少しも不思議ではありません。ここで主イエスが示された生き方は、この世のあり方、普通の生き方とは全く違うからです。だから判らないのです。誤解を受けるのです。ここで主イエスが示されたのは、神の国の証人としての生き方なのです。神の国は、この世のあり様とは違うのです。違っていなければならないのです。罪が大手を振って歩き、神様などいないかのように生きる世界と、神の国が同じはずがないのです。主イエスがここで示されたのは、神の国に入るという主イエスの祝福の中に生きる者の姿です。それは、神の国へと歩んでいく道であり、この世界に神の国を証しする者として生きねばならないという道なのです。最早、神様がいないかのように生きることは出来ない者とされた、新しい命のあり様なのです。神の国に入ることを約束された者として、神の国を目指してこの地上の生涯を生きる者とされた者の姿なのです。
 私共はこの主イエスの言葉を聞かなかったことにするということは出来ません。何故なら、これを聞かなかったことにするならば、神の国に入ると約束して下さった主イエスの祝福をも、共に聞かなかったことにするしかないのであり、主イエスの祝福をも失うことになるからです。主イエスの祝福の中に留まり、主イエスの祝福と共に生きようとするならば、私共はこの主イエスが示して下さった新しい道を歩んでいくしかないのであります。

 主イエスは「敵を愛せ」と言われます。これは全く新しい言葉です。主イエスという方によって、人類に初めてもたらされた言葉です。「敵を」とくれば「憎む」と続くのが普通でしょう。しかし、主イエスは全く逆、正反対の「愛せ」と言うのです。又、「愛せ」とくるならば、その前にあるのは「親を」「兄弟を」「友人を」「妻を」「夫を」「子供を」であるのが普通でしょう。ところが、「敵を」なのです。ここで主イエスは、全く新しい愛を私共に示されたのです。そして、この新しい愛に生きよと告げられたのです。
 夫や妻、親や子供、それを愛するのは当たり前のことです。それは自然の情というものです。しかし、主イエスはその自然の情としての愛というものから、一歩踏み出よ。新しい愛に生きよと告げられるのです。それは情としての愛ではなく、意志としての愛、志としての愛と言っても良いものです。自然の情としての愛は、「好いて好かれる」ということを前提としています。ところが、主イエスの告げる愛は、自分がその人から愛されるということを求めないものなのです。32節「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。」と言われている通りです。
 しかしここで、相手からの見返りを少しも求めずに愛するということが、私共に本当に可能なのか。そのような問いが私共の中に生まれてきます。その通りだと思います。私共はちゃんと自分が受けとめられている、愛されているということがなければ、人を愛するということは出来ない、そういう弱い者なのです。それが私共の現実であります。とするならば、この主イエスの言葉は、やはり私共が出来そうもないことを示しているだけなのか。やはり私共は、これは聞かなかったことにするしかないのでしょうか。
 私共は、ここでも、この言葉を語られた方、主イエス・キリストというお方と、この言葉の関係を見なければなりません。この言葉は、先の祝福の言葉を見た時と同じ様に、この言葉を語られた方と切り離すことは出来ないのです。
 主イエスは、この言葉を語られ、自分はこの言葉と関係のない所に生きられたのでしょうか。そうではありません。主イエスは、御自身、このように語られた通りに生きられたのです。主イエスは多くの人の病をいやされましたが、その人からの見返りを求めたことは一度もありませんでした。主イエスは弟子達を愛されましたが、裏切られました。しかし、主イエスは復活の後、自分を十字架の上に見捨てた弟子達を再び召し、遣わされました。そして、主イエスは十字架の上でこう祈られました。ルカによる福音書23章34節、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」まさに、自分を十字架にかけて殺そうとした者達の為に、彼らの赦しを神さまに祈られたのです。
 主イエスは、この地上にありつつ、神の国に生きました。その存在をもって、神の国がどのような所かをお示しになったのです。そして、「あなた方も、この神の国に生きるのです。だから、敵を愛しなさい。」そう告げられたのでしょう。この主イエスの言葉が、無責任なものであるはずがありません。主イエスは、自ら十字架に架かり私共に神の国への道を開いて下さいました。とするならば、その主イエスがこの神の国に生き、神の国を証しする道をも開いて下さるに違いないのです。つまり、主イエスはこの戒めに生きようとする者に、それが出来る力をも与えて下さるということであります。その力を与えて下さる方こそ、キリストの霊、聖霊です。聖霊の支え、守りと導きなくして、この主イエスの言葉に生きることは出来ません。しかし、聖霊が共にいて下さるならば、私共に出来ないはずはないのです。

 敵を愛することの報い。それは神の国です。というよりも、神の国に生き始めることによって、私共は敵を愛するという、新しい愛、神の国を指し示す愛に生きることが出来るのであります。私共はすでに愛されています。神様に、主イエス・キリストに、全てを受け止めていただいているのです。この神様の愛、キリストの愛がある故に、私共はこの新しい愛へと一歩を踏み出していけるのです。神を愛すること、それは隣り人を愛すること、意志としての愛に生きることと一つなのです。これを分けることは出来ないのです。私共は、主イエスに愛され、主イエスを愛するが故に、この主イエスの戒を、正面からまじめに受け取るしかないのであります。出来ないかもしれない。何度も、もうダメだと思うかもしれません。しかし、そのたびごとに、私共は主イエスの助け、聖霊の助けを求めるのです。そうすれば、必ず力が与えられます。私共は、自らの力を信じてこの戒に生きることは出来ません。そうではなくて、神の力、神の勝利を信じるのです。主イエス・キリストは、すでにその勝利を私共に示して下さっているからです。
 この新しい愛に生きる歩みは、別の言い方をすれば、「ささげる」歩みと言って良いのではないかと思います。私共は自分の貧しい歩みを神様にささげるのでしょう。そして、それは具体的には自分が出会う人々にささげていくということになります。「ささげる」という行為は、何も見返りを求めないものなのです。私共は「ささげる」ということを知っている。これは大きなことです。私共は、以前はこれを知りませんでした。ただ自分の損得で生きることしかできない者だったのでしょう。自分が損することなど、金輪際しない。それが私共でした。しかし、今は違う。「ささげる」ということを知ってしまった。これはキリストによって与えられた新しい生き方です。見返りを求め、損か得かでしか判断することが出来ない人には、ささげるということが判りません。ささげることの美しさが判らないのです。ささげる美しさ。それは、十字架の美しさです。

 主イエスは言われました。36節「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」そりゃ、神様は憐れみ深いでしょう。神様なんだから。しかし、私は人間であって、神様じゃない。神様のように憐れみ深い者となれと言われても困る。そうかもしれません。確かに、私共は人間であって神様ではない。しかし、私共は神の似姿として造られた者なのです。自らの罪によってその姿を見失ってしまいましたけれど、神様の似姿として造られたという神様の業がなくなってしまった訳ではないのです。私共は、この失われた神の似姿を回復する者として、主イエスの祝福を受けたのです。私共の地上の歩みは、この神の似姿を回復していく歩みとなる時、本来の正しい歩みとなるということなのであります。
 父なる神様の憐れみは、罪人を赦すというあり方で示されました。その憐れみの故に、新しく生きる者とされたのが、私共であります。旧約の歴史を見れば、神さまの赦しというものが、どれ程度外れたものであるかが判るでしょう。度重なる神の民の離反。しかし、神さまはその度にイスラエルを赦し、呼び戻されたではありませんか。何度でも、何度でもです。そして、その究極のところで、父なる神さまは御子イエス・キリストを私共にお送りになられたのでしょう。そして、その恵みの故に、赦しの故に、今日を得ているのが私共なのではないですか。とするならば、この父なる神様の憐れみに、応えて、感謝の中で、父なる神様の憐れみを身に受けた者としての歩みを、ささげないではいられないのではないでしょうか。そして、それは意志としての愛に生きることであり、更に具体的に言えば、赦す者として生きるということなのです。

 昨日、エジプトで自爆テロが起きました。憎しみと恐れとが、人の心を支配しています。人と人、民族と民族、国と国とが対立し、憎しみが新しい憎しみを生む。それが、私共の世界であります。毎日新聞を開くたびに、私共はこの世界の現実を知らされます。私は、この主イエスの言葉に本気で生きる者が増し加えられない限り、世界は変わらないと思う。この主イエスの言葉を理想主義だと言っている限り、世界は変わらないのであります。確かに焼け石に水かもしれません。しかし、それでも良いではないかと思う。焼け石に水であっても、水をかけ続けていけば、何かが起きる。そう思うのです。
 私はこの個所を読むと、マーティン・ルーサー・キングという一人の牧師を思い起こすのです。アメリカにおいての人種差別に立ち上がった、一人の牧師です。白人と黒人が互いに憎しみ合っている中で、この「敵を愛せ」との主イエスの御言葉に真実に生きようとした人でした。彼のしたことは無意味で、空しいことだったのでしょうか。そうではないでしょう。この主イエスの言葉に真実に生きようとした所に、驚くべきことが起きたのではないでしょうか。彼は自分の力を信じたのではない。この言葉を語られた神の力と神の導きを信じたのです。罪を打ち破りたもうた、主イエスの力を信じたのです。
 このことは何も、世界の政治の舞台という大きな所だけで問題なのではありません。私共の日常的な歩み、家庭であり、職場であり、そこにおいてこそ問われることなのであります。キリストを証しし、神の国を証しする者として生きるということは、まことに日常的なことなのです。意志としての愛に生きる。赦す者として生きる。ささげる者として生きる。これを真実に、誠実になしていくということ以外にないのであります。そこに、この世とは違う世界、神の国が指し示されていくのであります。
 主イエスの言葉は、まことに厳しいものです。この言葉を受け入れるには、主イエスに対して、言い訳をしない程に、出来ない程に、主イエスの御前にぬかずくしかないのであります。そうでなければ、この主イエスの言葉を受け入れ、これに従って生きようとは、人は決して思うことはないからです。言い訳、言い逃れは、いくらでも出来るのです。しかし、それが主イエスの祝福の中に生きる者にふさわしくないのは明らかでしょう。私共は喜んで、この主の言葉に従う者として、この一週間、聖霊の助けを求めつつ、主と共に、主の御前を歩んでまいりたい。そう心から願うのであります。

[2005年7月24日]

メッセージ へもどる。