主イエスは12使徒を選び立ててから、山を下りられました。するとそこには、主イエスの教えを聞く為に、又病気をいやしていただく為に、大勢の人々が集まってきておりました。そして、主イエスはそれらの人々を全ておいやしになられたのです。この時、主イエスの所に来た人々が抱えていた問題は、多種多様でありました。一人として同じ問題を抱えていた人はいなかったでしょう。主イエスのもとに来る者は、いつもそうです。一人一人違うのです。皆が、それぞれの問題・課題を抱えて主イエスのもとに来るのです。この方なら私のこの問題を解決してくださるのではないか、そう期待して主イエスのもとに来るのです。そして主イエスは、この人はいやすことが出来るけれど、この人はいやすことは出来ない、そんな風にはおっしゃいませんでした。主イエスは、ご自分のもとに来た、全ての人をいやされたのです。
私共は、このことをどのように受け取れば良いのでしょうか。主イエスというお方は、神の子、まことの神であり、それ故このような驚くべき力があった。その通りであります。問題は、「このようなことは主イエスご自身にしか出来るはずもなく、それ故、現代に生きる私共には関係ない」と見るのか。それとも「主イエスは今も生きて働いておられ、それ故、これと同じことが現代においても起きると信じる」のかということであります。このことが、聖書に記されている様々な奇跡を読む場合の、最大の課題と言って良いだろうと思います。特に、いやしの問題は、それを求める人の真剣さ、深刻さの故に、教会にとっても、大きな問題となります。
ここで、まず原則的なことを確認しておきたいと思います。第一にそれは、「信じて祈れば全ての病気は必ず治る」ということはあり得ないということです。もし、それがあり得るとすれば、誰も病気で死ぬ人はいなくなります。どんな病気も、信じて祈れば治るのだということであるならば、その人はどうやって死ぬのか。人は必ず死なねばならないのです。それは例外無しのことなのです。第二にそれは、「神様は全能の方ですから、何でもお出来になるし、自由にその力を用いられる」ということです。ですから、神様は私共をいやすことも出来ますし、それを自由になさいます。昔も今もです。ですから、私共は愛する者が病気になれば、主の力によるいやしを求め祈って良いのです。しかし、祈ったから必ず治るというものではないことも弁えていなければならないということなのであります。
祈りは力があります。しかし、祈りの力とは、祈りそのものが持っている力ではないのです。私共の祈りそのものが力を持ち、その力によって人がいやされると考えるならば、それは間違いです。いやして下さるのは、神様だからです。祈りの力とは、全てを為すことが出来る全能の神様に願い、その力を今用いて下さるようにと訴えることでしかありません。神様が、その祈りに応えて下さり、その力を用いて下さるならば、その人はいやされるということであります。実に、神様によるいやしという出来事は、神様が今、生きて働いておられるということ。神様が今、ここに臨んでおられる、そのことの「しるし」なのであります。現に今、ここに臨んでおられるキリスト、現臨のキリストの「しるし」なのであります。神様は、罪の支配、サタンの支配の中にある私共を、ご自身の支配の中に生きる者とされる為に、この「しるし」を与えられるのであります。神など居ないとうそぶく者の口を封じる為に、神様は「しるし」を与えられるのです。それは、私共の口が主をほめたたえるようになる為であります。
主イエスは12使徒を選び立ててから、このいやしを為し、そして20節以下では教えを宣べられました。それは、この後で主イエスに遣わされた者として生きる使徒達に、教えを宣べること、いやすこと、それはどういうことであるのかを示す為ではなかったか。そう思うのであります。もちろん、それが主イエスによるいやしの第一の目的であったかどうかは判りませんけれど、結果的にはそうなったはずであります。使徒達は、そのような権能を主イエスから与えられた者として、遣わされていくことになったのです。9章1〜2節に「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。」とある通りであります。ということは、主イエスによるこのいやしの力は、使徒達にも与えられたのであり、それは使徒達に続く、キリストの教会にも与えられているものであるということなのであります。教会は、いやしの力と権能を与えられているのです。それは、教会が自由に行使出来る力という訳ではありませんが与えられている。それは、キリストの教会というものは、この全能の神様の現臨の場であるということだからなのであります。キリストが現臨されている。とするならば、いやしが起きても、何ら不思議ではないということになるのではないでしょうか。キリストの現臨、それこそが教会がキリストの体であると言い得る唯一の根拠なのであります。
このことについて、一個所、聖書を開いてみたいと思います。ヤコブの手紙5章14〜16節です。ここに、「あなた方の中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が許してくださいます。だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」とあります。この手紙は、キリストの教会が生まれたばかりの頃に書かれたものです。この頃、病気になった人の所には、長老が行ってオリーブ油を塗って、主によるいやしを祈ってもらうということになっていたのです。ここから、カトリック教会における終油というサクラメントが生まれた訳です。そしてこのサクラメントはいつの間にか、臨終の時の祈りという風に変化してしまったのですが、本来そのようなものではないのです。癒しを求める祈りなのです。私共は、終油という儀式は行いません。しかし、初代教会が行ったように、病気の人が出れば、牧師はその人の所へ行って祈るのであります。15節に「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。」とある。祈るのは長老です。しかし、起き上がらせて下さるのは、主なる神様なのです。ここでは特に、いやしの賜物を持った人のことが考えられている訳ではないのです。教会の長老です。彼が祈れば癒しが起きると信じられているのです。教会の長老には、そのような力が与えられていると考えられているのです。それは、16節後半の、「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。」と言われている様に、その人にいやしの能力があるかどうかではなくて、その人が正しい人であるかどうかが問題となっているのです。正しい人、それは、主イエスによって罪を赦され、神様によって正しい人と認められた人であり、神様によって神様の御業を行う為に立てられた者ということでありましょう。その人に祈りには力があり、神様のいやしの御業も又、期待して良いと言われているのであります。
ここで大切なことは、教会の長老にそのような権能が与えられていると考えられていることなのです。何度も申しますが、それは長老が優れているとか、そのような能力を持つ特別な人が長老となったというようなことではないのです。そうではなくて、キリストの教会の長老には、そのような力があると考えられていたのです。何故か。それは、キリストの教会には、キリストが現臨しているからです。この現臨のキリストを指し示す者として立てられたのが、長老という職務に就いた者だからなのです。長老とは、教会の世話係・事務屋ではないのです。そうではなくて、キリストの教会に満ちる現臨のキリストを指し示すために、癒しの力と権能が与えられている、霊的な指導者なのです。
更に、ここで注目すべきは、16節「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。」と告げられていることです。罪を告白し合うというのは罪の赦しのためであることは明らかです。つまり、「いやし」と「罪の告白」による「罪の赦し」というものが結びついているのです。いやしという事柄は、単に病気が治ることと理解されているのではないのです。まさに、罪赦され、神様のものとされる、神様の御支配の中に生きる者とされる。このことこそ、いやしの本質であるということなのであります。
人は、様々な問題を抱えて教会の門をくぐります。そして多くの場合、その自分の問題の解決ということに対して、自分なりのイメージ、自分の願いを持っているものであります。この状況がこうなれば自分は救われる。しかし、残念ながら、そこに自分の罪からの解放というのは考えられていないことが多いのではないでしょうか。しかし、このことが解決されなければ、私共は本当の所でいやされることは決してないのであります。罪の支配、サタンの支配から、神の支配の中に生きる者とされる。この救いの出来事のしるしとしてのいやしというものがあるのであります。
先程、旧約聖書列王記下5章1節以下をお読みいたしました。旧約聖書のいやしの記事の中の代表的なものです。ここで、異邦人のナアマン将軍が神の人エリシャによっていやされました。この後で何が起きたか。17節中程、「僕(しもべ)は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません。」とナアマンは告白しているのであります。ナアマンは重い皮膚病をいやされます。それは、ナアマンの信仰によるのではありません。ただ、神の人エリシャに神様の現臨があり、そしてナアマンはいやしによってそのことを示され、まことの神を拝む者とされたということなのであります。実に、主イエスが自分の所に来た全ての人々をいやされた時もそうでした。主イエスのもとに来た人々に、信仰と言える程のものがあったかどうか。いやしを受ける側が問題ではないのです。それを与える側に、主の力と神のあわれみがあったということなのです。実に、神を知らぬ者、神に敵対していた者が、神を拝む者とされる。このことこそ、いやしによって神様の現臨、神様のあわれみに触れて、その人の上に起きた救いの出来事に他ならないのであります。
主イエスのもとに来た全ての人々は、主イエスによっていやされました。私共もこのことを信じて良いのであります。どんな思いで教会の門をくぐった人も、必ずいやされる。自らの罪を知らされ、悔い改め、まことの神を拝む者とされる中で、必ずいやされる。私は、そのことを信じております。キリストが現臨している所において、それが起きないはずがないのであります。私は、牧師として、実際にそのようなことが起きるのを見続けてきました。そして、今も、この教会で起き続けています。今朝、ここに集っている一人一人が、その主のいやしを受けた証人に他ならない方々でしょう。私共は、教会に何を求めて来るのか。まことのいやしを求めに来るのでしょう。病気を治して欲しいだけなら、病院に行けば良いのです。まことのいやしとは、神様のものとされることです。神様が私共を造られた。その神様が造られた意図にそった、本来の自分を回復することです。生まれ変わることです。それが出来るのは、主イエスしかおられません。
私共は、ただ今から、聖餐に与ります。キリストの体を食べ、キリストの血を飲み、キリストの命に与るのです。ここにおいて、私共は現臨のキリストに触れるのです。全く神のものとされた自分を発見するのであります。ここに、まことのいやしに与る道があります。このまことのいやしに与った者の口からは、このいやしと救いを与えて下さった主イエス・キリストをほめたたえる讃美があふれてくるのでしょう。今、私共に与えられているいやしと救いの恵みを覚え、心から主をほめたたえたいと思います。
[2005年7月3日]
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