神の民の歴史は、神様による選びの歴史です。神様はその救いの御業を遂行される時、必ず誰かを選び、ご自身の御業を行う器として立てられます。実に神の民そのものが、神様によって選ばれて立てられた民であります。そして、その神の民を導く者も又、神様によって選ばれ、立てられた者であります。アブラハムから始まるその歴史は、イサク、ヤコブ、12人の息子達、そしてモーセ、ヨシュア、ギデオン等の士師達、サウル、ダビデ、ソロモン、預言者達と続いていきました。この神様によって選び立てられた者に対しての神様の約束が、今お読みいたしましたヨシュア記1章に記されています。9節「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」偉大な指導者モーセを失い、イスラエルはこれから約束の地に入っていくことに、不安を覚えたに違いないのです。ヨシュアもまた、自分がモーセのようにこの民を立派に導いていけるかどうか、不安と恐れを覚えたでありましょう。しかし、主は言われるのです。「うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる。」これは、一人ヨシュアにだけ与えられた約束ではありません。主によって選び立てられた、全ての者達に向かって約束されていることなのです。主が共におられるが故に、恐れ、うろたえることなく、主の御業に仕えることが出来るのであります。
そして、この神様による選びの歴史は、新約聖書にも受け継がれ、主イエス・キリストによって、12人の使徒が選ばれ、立てられました。なぜ12人だったのか。それは、イスラエルの12部族と重ね合わされていることは明らかです。つまり、この12人の使徒達によって、キリストの教会という「新しいイスラエル」・「新しい神の民」が誕生させられたということなのです。主イエスが直接選んだこの12人の使徒達こそ、新しい神の民の土台となった者達です。エフェソの信徒への手紙2章19〜21節「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。」とある通りであります。勿論、かしら石は主イエス・キリストです。キリストの教会は、主イエス・キリストをかしら石として、使徒達を土台として建て上げられていくのであります。使徒達を無視したり、そり以外の者を土台とすることは許されていないのです。
二千年のキリストの教会の歴史において、多くの教会を導く者達が神様によって選ばれ、立てられてきました。しかし、誰一人、この12使徒をしのぐ者としての立場を与えられた者はいません。この12人は、主イエス・キリストと直接出会い、その声を聞き、その御業を見た者です。復活された主イエスと出会い、直接福音の説きあかしを受けた者達です。この使徒達の証言に基づいて、全てのキリスト者の信仰は与えられました。私共の信仰も、この使徒達による証言、福音書であれ、手紙であれ、この使徒達の証言である聖書によって与えられ、形作られ、導かれています。ですから、誰もこの12人の使徒達と無縁なキリスト者はいないのです。実に、この12人の使徒達は特別な立場、位置を持っていると言わねばなりません。もちろん、その後のキリスト教会の歴史において、この12人以上の能力を持った人が一人も出なかったということではありません。この12人が誰よりも優れた能力、資質に恵まれていたということではないのです。もっと優れた人はたくさんいたでしょう。しかし、彼らが使徒以上に重んじられるということはあり得ないことなのです。何故なら、どんな優れた人も、この使徒達による証言を抜きに信仰が与えられるということはなかったからです。
この使徒として立てられた12人がどうして主イエスによって選ばれたのか、その理由は判りません。神様による選びとは、いつもそうなのです。私共の目から見れば、別にこの人でなくても良いのではないか、そんな思いを抱くこともあるかもしれません。しかし、神様は、私共の思いをはるかに超えた所で、全てを見通して、その上で選んでおられるのです。この12人が選ばれた時もそうでした。この12人は、元々漁師であったり、徴税人であったり、当時においても、特に人々を指導し、導いていくのにふさわしいと思える人々であった訳ではないのです。特に、この12人の中には、後で主イエスを裏切ることとなったイスカリオテのユダが含まれているのです。一体、これをどう理解すれば良いのでしょうか。主イエスは、ユダという人間の本質を見抜くことが出来なかったのでしょうか。何もイスカリオテのユダだけのことではないのです。主イエスが捕らえられた時、この12人は皆、逃げてしまった者達なのです。12人の筆頭にあげられている、ペトロにしても、主イエスを三度まで知らないと言ってしまう者でした。主イエスは、この12人を選んだ時、何も知らなかった、判らなかったのでしょうか。
ここで注目すべきは、12節の言葉です。「そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。」とあります。主イエスは、この12使徒を、選び立てられる前の晩、祈って夜を明かされたのです。徹夜の祈りをなし、この12使徒を選んだのです。この時、主イエスは何を祈られたのでしょうか。想像するしかありませんけれど、私はこう思うのです。主イエスはこの時、「この12人で良いのか。自分を裏切るユダを入れて良いのか。」そう、主イエスは父なる神様に祈りたずねられたのではないでしょうか。そして、父なる神のそれで良いという許しを受けられたのだと思います。そして更に、主イエスは12人の使徒達の弱さを知り、全てを知っていました。知っているが故に、徹夜の祈りをしないでは居られなかったのでしょう。「父なる神よ、この者達の使徒としての歩みを守り、支え、導きたまえ。」そう、祈られたに違いないのであります。主イエスは、この祈りの後に、この12人を選んで立てられたのであります。
確かにこの12人には人間としての弱さがありました。しかし、彼らは主イエスの福音を証言するという使徒達に委ねられた最大の務めは、十分に果たしたのであります。いや、それも又、主イエスの祈りによって支えられて果たし得たことなのでありましょう。12使徒とは、何よりも主イエスの祈りによって選ばれ、立てられたものであり、それ故に、神様によって守られ、支えられ、導かれた者達だと言うことが出来るのではないかと思うのであります。
そしてそれは、何も12使徒達だけではない。私共も又、主イエスの祈りの中で選ばれ、立てられている者達なのではないか、そう思うのであります。私共の信仰の歩みは、まことにたどたどしいものであります。それにもかかわらず、何とかその歩みをなしてきている。それは、主イエスの祈りによって支えられているからなのではないか。本当にそう思うのであります。
私共の信仰の生活は何十年にもおよぶものであります。若い時に信仰を与えられた人もいれば、年老いてから導かれた人もいるでしょう。状況はそれぞれ違いますが、私が牧師をしていて知らされていることの一つは、信仰が与えられてから天に召されるまで、信仰の歩みをぶれることなく全うする人は実に少ないということです。多くの人は、5年、10年と教会を離れた時期があるものなのです。まことに残念なことでありますけれど、それが事実なのです。理由はそれぞれでしょう。家庭の事情、仕事の関係、あるいは何となくという場合もある。それが私共の信仰の現実です。何とも頼りないものです。しかし、それにもかかわらず、今朝、私共はこうして、主の御前に集っている。まことに有り難いことです。これは、実に主イエスの祈りが働いて下さっているからとしか考えようがない。私はそう思うのです。
あるいは、私共の為に祈ってくれている人がいる。その祈りに、神様が応えて下さって、私共のたどたどしい信仰の歩みが、まがりなりにも守られているということなのではないか、そう思うのであります。私は牧師になって19年になるのですが、田舎に帰って昔の友人に会って、牧師をしていると言うと、鼻で笑われます。「お前がねエ〜」という訳です。反論しようがない。自分でも、良く続いていると思う。それは私の為に祈って下さっている人が、いつもいるからなのだと、私は思っています。私が献身することを牧師に言った時、隣にいた牧師婦人が、「私達は長い間この日を待ち望んで祈っていました。」と言われた。献身の決心、決断というものは、自分一人のことだと思っていた私には、まことに驚きに満ちた言葉でした。自分の献身という出来事の背後に、人知れず長く祈ってくれている人がいたということなのであります。
子どもというのは、親が自分の為にどれ程祈っているかということを知りません。それが子どもということなのです。しかし、私共は、信仰においては子供であってはならないのであります。自分が祈られている存在である。祈られているが故に、今日あるを得ている。そのことを忘れてはならないのです。そのことを良く弁えているということが、信仰において大人であるということなのではないかと思う。そして、信仰において大人である人は、自分が祈られている、祈ってもらっているということを知るだけではなくて、自分も又、隣り人の為に祈りをささげる者となるということなのでしょう。
12使徒達は、自分達が使徒として主イエスによって選ばれ、立てられた時、主イエスが徹夜で祈られたことを知っていた。だから、こうして福音書に記されているのでしょう。つまり、自分が使徒であるということは、この主イエスの祈りによってであるということを知っていたのです。更に、ルカによる福音書22章31〜32節には「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」とある。ペトロは、自分の信仰が無くならないように、主イエスによって祈られた者だということを知っていたのです。ペトロは主イエスを三度知らないと言った後、復活の主イエスと出会い、再び召され、立てられました。その時、この主イエスの言葉が甦ってきたに違いないのです。自分がこうして使徒として立つことが出来ているのは、あの主イエスの祈りによってである。このことを思い知らされたのではないでしょうか。そして、ここに、使徒ペトロが使徒であり続けることが出来た秘密があるのではないかと思うのです。主イエスの祈りの力を知り、それに頼り、委ね、歩み続けたペトロであったと思うのです。
先週、礼拝の後で、「夢を語る会パートT」が開かれました。週報にありますように、約40名の方が残って、この教会に対しての夢が語られました。パイプオルガンの導入のことや、讃美の会、あるいはインターネット放送で礼拝をライブで流すこと、いくつかの地域ブロックに分けて学びと交わりをしていく等々、目からうろこが落ちるような発想もあって、楽しい会でした。その中で、「祈祷会が、あの祈祷室に入りきらないようになる。祈りに満ちた教会になるということが、先にあるのではないか。」と発言して下さる方がいました。その通りだと思いました。この教会は、150名の礼拝をと祈り求め始めました。しかし、そういう礼拝へと成長していく為には、何よりも祈りの会が、充実していかなければどうにもならないことなのです。私共が夢を語るとき、パイプオルガンにしても、土地を購入するにしても、どうしても設備的なことに私共の目が向けられがちであります。それも大切なことです。しかし、その根っこにあるのは、何よりも「祈りの力」であることを私共は忘れてはならないのです。祈りの会は、特別な人が集まる所ではない。この祈りの会においてこそ、私の夢は夢ではなくなっていくのであります。私共の教会は、祈ることにおいて子供であってはならないのであります。祈られていることを知り、祈ることの喜びに満ちた教会でなければならないのであります。祈りが教会を建てていくのであります。教会は、何よりも「祈りの家」だからであります。私共が祈る前に、主イエスの祈りがあるのです。この主イエスの祈りによって支えられている私共であります。このことを心から感謝し、祈りをもって私共も応えていきたい。そう心から願うのであります。
[2005年6月26日]
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