富山鹿島町教会

礼拝説教

「神を示す神の独り子」
ヨハネによる福音書 1章14〜18節

小堀 康彦牧師

 今日は、花の日礼拝です。「花の日」って、何の日だか知っていますか。花を持って、病気の人をお見舞いに行く日と思っている人も多いかもしれません。そう、礼拝が終わったら、みんなで手分けして、お花を届けに行きます。教会学校の子供たちは、隣の逓信病院に行きます。確かに、この花の日には、入院している人や病気の人にお花を届けます。でも、「花の日」は、その為にあるのではないのです。実は、花の日は元祖「こどもの日」なのです。「こどもの日」と言えば、5月5日を思い出すでしょう。でも、教会では5月5日の「こどもの日」が決められるずっと前から、「花の日」という「こどもの日」を決めて、大人も子供も一緒に礼拝を守ってきたのです。教会の「こどもの日」は子供が王様になる日ではありません。教会の「こどもの日」には何をするかというと、教会では何よりも、子供たちが心も体も健やかに成長して、神と人とに愛され、神と人とを愛し、神と人とに仕える人になるように、お祈りするのです。だから、今日は、大人も子供も一緒にここに集まって礼拝しているのです。だったら、どうして「花の日」なのか? それはね、子供たちが花のように一人一人が咲き誇ることが出来るように、この日の礼拝にはみんなが花を持って集まって、たくさんの花を飾って礼拝を守ったからなんです。それで「花の日」と呼ばれるようになったのです。

 私達は神様に造られました。ですから、神様をお礼拝することが、一番大切なことなのです。私達の口は神様をほめたたえる為にあります。悪口を言ったり、口げんかをする為にあるのではありません。私達の耳は神様の言葉を聞く為にあります。そして、私達の目は、神様の御業を見る為にあるのです。そして、私達の手は神様に喜ばれることをする為にあります。いたずらをする為にあるのではありません。
 神様は、私達に必要なものを知っておられます。そして、その全てを備えて下さいました。水も空気も食べ物も、そしてやさしいお父さんやお母さん。みんな神様が備えて下さいました。自分たちで造ったものなんてありません。みんな神様が用意して下さったのです。神様は何て素敵なんでしょう。でも神様は見えません。神様を見た人は、一人もいません。私も見たことはありません。でも神様はおられます。もし、神様がおられなかったら、いったい私は誰が造ったというのでしょう。お父さんとお母さんが造った? いいえ違います。お父さんとお母さんが私を産んでくれました。でも造ったのではないのです。お父さんとお母さんが造ったんじゃないから、お父さんとお母さんに、「僕をもっとハンサムに、もっと頭も良く、もっとスポーツが上手で、もっときれいな声の人に産んでくれれば良かったのに。」そんな風に言っても、お父さんとお母さんは困ってしまいます。だって、お父さんとお母さんは、僕を産んでくれたけど、造ったんじゃないのですから、お父さんお母さんの思い通りにはいかないのです。お父さんもお母さんも、私を造ったんじゃないから、私のことを何でも全てを知っている、という訳ではないのです。「お父さんもお母さんも、私の気持ちなんてちっとも判っていない。」そんな風に、腹を立てたことはありませんか。そう、お父さんもお母さんも、私のことを全部、心の中のことまで全部知っている。そんなことはないのです。そして、何より、私達の明日のことは、お父さんもお母さんも判りません。でも、神様は知っています。だって、神様は私達を造って下さったからです。人間は、まだ自分のことを良く判っていません。この体のことだって、知らないことがたくさんあるのです。病気になっても、その原因が全部判る訳でもないですし、全部治せる訳でもありません。でも、神様は全部知っています。神様が造って下さったからです。

 私達は父なる神様によって造られました。だったらイエス様はどうなのでしょうか。イエス様も神様に造られたのでしょうか。そうではありません。イエス様は神様から生まれました。神様の独り子です。父なる神様とその独り子であるイエス・キリスト。イエス様は子なる神様なのです。父なる神様と子なる神であるイエス様とは、お父さんと独り息子ということになります。
 私のお父さんは、9年前に亡くなったのですけれど、お父さんと私はすぐに見れば分かる特徴がありました。どちらも頭の髪の毛が少なくて、お腹が大きいのです。私には二人の兄がいますが、三人並ぶと、兄弟だとすぐに分かります。みんな髪の毛が薄くて、お腹が出ているのです。
 イエス様と神様もそうなのです。神様は目に見えません。でも、神様がどんなお方なのか、イエス様を見れば判ります。イエス様は神様の独り子だからです。イエス様は神様から生まれたからです。神様の力、神様の知恵、神様の愛、神様の真実、それが全てイエス様に現れているのです。それが、イエス様が父なる神様の独り子であるということなのです。父なる神様は、私達が見ることが出来ないので、もっとはっきり私達が神様のことが判るように、イエス様を遣わして下さったのです。イエス様を見れば、神様が判るのです。イエス様は、嵐の海を静められました。イエス様は病気の人をいやされました。考えられないような力を持っておられました。神さまは全能の力ある方だからです。そして何よりも、イエス様は私達に代わって、私達のために十字架におかかりになられました。本当に命がけで、私達を愛して下さいました。神様は、そのように私達を愛し、私達を造って下さったのです。そして、今も私達を守り、支え、導いて下さっています。この神様を信頼していけば、私達は必ず幸せになることが出来ます。だって、神様はそういう風に、私達を造って下さったのですから。逆に、神様なんかどうでもいいよ、そんな風に生きるなら、私達は本当の幸せをつかむことは出来ません。神さまに造られたものは、神さまが造られた目的に合ったときに、本当の自分になり、幸せになることが出来るのです。それはちょうど、ご飯を食べるお茶碗を、穴も空いていないのに植木鉢にしてしまうようなもので、そんなものに植えられた木は、みんな根が腐ってしまい、役に立ちません。植木鉢をご飯茶碗に使うことも出来ません。神様に愛され、神様を愛するように造られた私達です。だから、神様に愛され、神様を愛して生きる時、私達は神様に造られた本当の自分になることが出来るのです。それが幸せというものです。お金持ちになれば幸せになるというものではないのです。

 幼稚園で神様のお話をしていると、必ず、「神様なんていないよ。だって見えないもん。居るんだったら、どこにいるの。証拠は?」そう言う子がいました。毎年、一人くらいはいました。わたしは、そう言う子には必ず「だったら、あなたはどこから来たの。」と、答えることにしていました。それは幼稚園の子だけではないでしょう。残念なことですけれど、小学生も中学生も高校生も、いえいえ、大人だって、お年寄りだって、言い方は違うけれど、同じ様に考えている人は少なくないのです。「だったら、あなたはどこから来たの。」です。このように考えている人が少なくないということは、とても残念なことです。だって、その人は見えるものしかないって、本気で思っているのですから。大切なこと、素敵なものは、いつも目では見えないということを知らないのですから。友情も、愛も、希望も、平安も、命も、私達は見ることも、手に取ることも出来ないでしょう。でも、とっても大切なもの。それがなければ生きていけないものです。そして、それを見えない神様が私達の為に備えて下さっているのです。
 イエス様は、良いもの、美しいもの、素敵なもので満ちあふれています。そして、イエス様はそれを一人占めにするのではなくて、私達みんなに分け与えて下さいます。恵みに恵みを加えて下さるのです。だから、安心して良いのです。困った時も、どうしようと思った時も、必ずイエス様が大丈夫な道を拓いていって下さいます。

[2005年6月12日]

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