富山鹿島町教会

ペンテコステ記念礼拝説教

「全ての者に与えられた約束」
詩編 16編
使徒言行録 2章22〜42節

小堀 康彦牧師

 今日はペンテコステの祝いの日の礼拝です。主イエスは過越しの祭の時に十字架におかかりになり、三日目に復活されました。それから40日間、主イエスは復活された姿を弟子達に現し、天に昇られました。それから10日間、主イエスの弟子達は聖霊が降るという約束を信じ、祈りつつ待っていました。そして、五旬祭の日、ペンテコステの日、弟子達の上に神の霊、キリストの霊である聖霊が降ったのです。弟子達は様々な国の言葉で神様の御業を語り始めました。人々は驚き、とまどい、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざける者もいました。そこで、ペトロが語り始めました。2章の14節から始まり36節まで続く、ペトロの説教です。ここが今朝、私共に与えられている御言葉です。このペトロの説教は、キリスト教会における最初の説教と言って良いと思います。ここには、その後二千年にわたって語り続けられている、キリスト教会の宣教の内容が全て詰まっていると言って良いと思います。教会は二千年の間、このペトロの説教の内容を、その時その時の言葉で、新しく語り直して来ただけなのであります。キリストの教会が語るべきことというものは、時代と共に変化していく面もありますけれど、しかしその基本においては、全く変わらないのです。もっと正確に言えば、変えることが出来ないということなのだろうと思います。ここでペトロが語っていることは、弟子達の間で取り決めをして、これからはこういうことを語っていくことにしよう、そんな具合に人間が決めたことではないからです。そうではなくて、ここでペトロが語っていることは、聖霊なる神様によってこのように語りなさいと示されたことです。ですから、どれだけ時間がたとうと、あれから二千年たとうと、基本的には変えようがないのです。ただ、その時代、その国の人に判るように新しく言い直すというだけなのであります。こう言っても良いでしょう。キリストの教会が告げていくことは、国を超え、時代を超えた、普遍的なことなのですから変えようがない。表現や適用の仕方は変わるでしょう。しかし、中身は変えようがないのであります。

 ここで、ペトロが語った説教のポイントをいくつかにまとめてみましょう。ペトロはここで旧約聖書を引用しながら語っていますので長くなっているのですが、重要なポイントは次の3点になるだろうと思います。勿論、詳しく分けていけば、もっとたくさんになりますが、重要なポイントは次の3点になるだろうと思います。
1.ナザレ人イエスは神から遣わされた方なのに、あなた方は殺した。
2.神はこのイエスを復活させメシアとした。
3.私達は聖霊を注がれたその証人である。

 第一の点ですが、エルサレムにいた人々にとって、つい40日前の過越しの祭の時に起きた出来事ですから、主イエスが十字架にかけられた時のことは、多くの人が覚えていただろうと思います。しかもピラトが、強盗をしたバラバを赦すのか、主イエスを赦すのかと問うた時に、群衆が主イエスを「十字架につけよ」と叫んだのですから、これには言い逃れしようがありません。きっと、ペトロのこの説教を聞いていた人々の中には、実際あの時に「十字架につけよ」と叫んだ人もいたのではないでしょうか。その人達にとって、このペトロの罪の告発は、これは自分のことが言われている、そう思わざるを得ない大変厳しいものだったと思います。
 しかし、これは何も主イエスを「十字架につけよ」と叫んだ人達だけの問題ではないのです。主イエスをまことの神として受け入れることの出来なかった全ての人に対して、これと同じ罪を犯していると告げているのです。「罪人」という言葉は、私共にとって決して気持ちの良い言葉ではありません。一体、自分はどんな罪を犯したというのかと言いたくなる。この罪人ということについて様々な言い方は出来ると思いますが、聖書はつまる所、私共の罪というものは、神の御子イエスを十字架につけた犯人であるということなのだと告げているのです。確かに、私共は二千年前の主イエスを十字架につけたあの場面に居合わせてはいません。しかし、自分を造られた神様を崇めず、自分こそ人生の主人として生きている人は、結局、主イエスを殺した人々と同じ所で生きているということなのであります。神様と敵対して生きている。その敵対関係がもっとも具体的に示されているのが、神の御子を殺すという、あの主イエスの十字架の出来事なのであります。

 ところが、神様はその主イエスを三日目に復活させられた。そのことによって、主イエスが誰であるかということをお示しになった。救い主、メシアとして明らかに示されたというのです。これが第二のポイントです。もし、主イエスが十字架で終わったのならば、主イエスが救い主であるということは明らかになることなく、一つの昔話として、忘れられていったでしょう。しかし、それは神様の御心ではありませんでした。神さまは主イエスが誰であったのかということを、復活という出来事によって、明らかにされたのです。とするならば、主イエスを十字架にかけた人々の罪は、神の御子を殺したということになるわけで、そのままに放っておかれるはずもない。だから、これを聞いた人々は恐れたのです。そして、人々は使徒達に問うたのです。37節「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか。」これは、どうしたら自分達は、自分が犯した罪を赦されるのか、どうしたら神の怒りから逃れることが出来るのか、そう問うたということなのでしょう。弟子達が、主イエスは復活したということを告げると、それを聞いた人々に恐れが生じ、使徒達に救いを求めるという出来事が起きたのです。
 私共は、聖霊が降ったペンテコステの出来事といえば、2章1〜4節にある、「激しい風が吹いて来るような音」、「炎のような舌」、「ほかの国々の言葉で話す」、そういうことを思い起こします。確かに、ペンテコステの日、そういうことが起きました。しかし、それらの出来事は、まだ聖霊が降った本当の意味を示してはいません。それらは、聖霊が降った「しるし」には違いないのですけれど、聖霊によって引き起こされた出来事の内容は示してはいません。実に、このペンテコステの日、聖霊が弟子達に降ったことの意味、聖霊によって引き起こされた事柄の内容、それはこのペトロの説教を聞いた人々が、救いを求めたという所に現れているのであります。神様に敵対していた人々が、神様との関係をただしたい、赦されたい。そういう願いが起きたのです。私は、ここにこそ、聖霊が降ってきた本当の意味があるのだと思うのであります。ペトロはここで、直接的な悔い改めを求める説教をしている訳ではありません。「淡々と」と言っても良いような言い方で、「主イエスはメシアであり、それをあなた方は殺した。神様はこの方を復活させられた。それは、旧約聖書が告げていたことの成就、神様の救いの御業が現れたことだ。」そう告げただけなのです。すると、そこに救いを求める人々が起こされたのです。これこそ、聖霊なる神様によって引き起こされる出来事なのではないでしょうか。

 この問いに対してのペトロの答えは、まことに単純、明快なものでした。38節「悔い改めなさい。」そして、「洗礼を受けなさい。」というものです。この答えは、二千年の間、キリストの教会において、少しも変わることなく告げられてきているものでしょう。「悔い改めなさい。」「洗礼を受けなさい。」この二つです。実に単純です。これについて、たったそれだけで良いのかと、問われるかもしれません。そう、たったこれだけなのです。他には何もありません。教会の告げる言葉は、いつもこの単純な所に立たなければならないのです。「悔い改めなさい。」そして「洗礼を受けなさい。」です。
 そうするとどうなるのか、何が変わるのか。ペトロは言いました。「罪が赦されます。」そして「聖霊を受けます。」一切の罪が赦されるのです。そして、聖霊を受けるのです。
 よく洗礼を受けた後に、自分は特に何も変わったようには思えないのだがと言う人がいます。そう言う人は、何か勘違いをしているのではないかと思うのです。「罪を赦される」ということは、神様が私共の一切の罪を赦して下さり、神様が私共を「我が子」として受け入れて下さるということです。ですから、私共の方で気分が変わるとか、少しばかり良い人間になるとか、こちら側の何かが変わるというようなことではないのです。勿論、そういうことも起きるでしょう。しかし、それが根本的なことではないのです。「罪を赦される」ということは、神様が、私共に対しての取り扱いが変わるということなのです。神様との関係が変わるということなのです。これは、決定的なことです。何故なら、永遠の命を受け継ぐ者とされるからです。
 たとえて言えば、こういうことです。私共は皆、日本人の国籍を持っています。しかし、もしこれを持たなかったならば、私共は税金は取られますけれど、法律が私共を守るということはない。大変、不安定な者ということになるでしょう。そして、ある日、日本の国籍が与えられる。それまでの生活と、別に変わったことはないかもしれない。しかし、その日から、日本の法律は私共の全ての権利を保障することになるのです。洗礼を受け、罪を赦されるとは、そういうことです。神の国の国籍を持つ者となるということなのです。ある牧師が、こう申しました。洗礼を受ける前と後では、決定的に変わる所がある。それは身分が変わるということだ。神の子としての身分を与えられるということだというのです。洗礼を受けて、罪を赦されるとは、そういうことです。

 そして更に、「聖霊を受ける」とペトロは申します。聖霊を受けるということは、この時ペトロが語り出した様に、神様の救いの御業を語る者にされるということでありましょう。そして又、「アバ父よ」と祈る者にされるということであり、神様をほめたたえる者となるということであります。この洗礼というものは、実際に自分が洗礼を受けてみなければ判らないところがあります。私が仕えていた前の教会で、奥さんが教会員でしたが、本人は教会には時々来るけれども、決して洗礼を受けないという人がいました。聖書については、良く知っているのです。中学、高校、大学とミッションスクールにいましたので、奥さんより、聖書を知っているくらいです。だから、牧師がこう言っていたなどと家で話しますと、それは変だと、議論をされて、奥さんが負けてしまう。そんなことを10年も続けたでしょうか。しかし、ある時洗礼を受けられました。今、その経緯については話すことが出来ませんけれど、おもしろいのは、その後です。教会には来ているけれど洗礼を受けない人に向かって、「どうして、洗礼を受けないの。早く受ければいいのに。」と言うではありませんか。教会員は、それを聞いて、みんな笑ってしまいました。あんなに、皆を手こずらせておきながら、自分が洗礼を受けたとたんに、手の平を返した様に、人に洗礼をすすめる。この人は、今は教会学校の教師をし、長老をしています。聖霊を受けるということは、そういうことなのだろうと思います。自分が、今までどうであったか、そんなことは関係ないのであります。洗礼を受けた者は、聖霊を受ける。そうすると、このペトロと同じことを語り始めるのです。ペトロ自身、主イエスが十字架にかけられる前の日、主イエスを三度も知らないと裏切った者です。「だから、自分にはキリストのみ業を語る資格は無い。」とは、言わないのです。今まで自分のことは棚に上げるのです。そして、ただ、神さまの恵みを語り始めるのです。これが、第三のポイント、自分達は聖霊を受けたキリストの証人である、という所につながっていきます。ペトロ達だけが、キリストの証人なのではなく、洗礼を受け、聖霊を注がれた、全てのキリスト者が、キリストの証人とされるのであります。ペトロの言葉が、その後のキリスト教会の言葉となり続け、そして今も、私共の言葉となっているのです。

 さて、39節には、「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」とあります。つまり、「悔い改めて洗礼を受けるなら、罪が赦され、聖霊を受ける」という約束、これは、この時ペトロの説教を聞いていた者達だけではなく、「その子供達にも」、つまり時代を超えて与えられているというのです。そして更に、その場にいなかった「遠くにいる人々にも」、つまり場所を超えて与えられているというのです。実に、この言葉は私共の上に成就しているのではないでしょうか。二千年後の、遠く離れた日本に住む私共の上にです。この約束は、いつの時代の、どこに住んでいる人にも与えられている約束なのです。実に、これが、キリスト教が国を超え、時代を超えて宣べ伝えられてきた理由なのです。キリストの救いは、悔い改め、洗礼に与る全ての人に開かれているのです。この扉を閉じることは、誰にも出来ないのです。その国の、その時代の力ある者が、この扉を閉じたとしても、それは一時のことに過ぎません。神様によって開かれた救いの扉を閉じることは誰にも出来ないし、そのようなことは誰にも許されていないのです。
 私共は今から聖餐に与ります。これは、キリストの命に与る出来事です。キリストの救いに与っている「しるし」です。この聖餐は、悔い改め、洗礼を受けた、全ての人々に与えられます。この聖餐に与る時、私共は確かに聖霊を注がれた群であることを知らされるのであります。洗礼を受けていない人は、これに与ることは出来ません。そういう方々に、私は今朝、ペトロと同じ言葉を告げます。「悔い改めなさい。イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、あなた方も又、賜物として聖霊を受けるのです。」

[2005年5月15日]

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