富山鹿島町教会

礼拝説教

「清くなれ」
レビ記 14章1〜9節
ルカによる福音書 5章12〜16節

小堀 康彦牧師

 今日、私共に与えられております御言葉は、主イエスが重い皮膚病にかかっている人をいやされた出来事が記されております。ここで重い皮膚病と訳されておりますのは、多分らい病、ハンセン氏病のことではないかと思います。この病気は、現在の日本では新しく発病する人はいなくなっております。ですから、この病気のことを知っている人も少なくなっているかもしれません。多分、皆さんの多くはこの病気かかかった人を自分の目で見たことはないのではないかと思います。しかし、多くの人がこの病気にかかった人を見たことのないもっと大きな理由は、別の所にあります。それは、この病気にかかった人は、人里離れた所に家族からも引き離されて、強制的に連れて行かれる。そして、そこから出ることも許されず、一生そこで生活しなければいけないということが法律で決められていたからです。1996年に廃止されるまで、この法律は生きていたのです。ですから、普通に生活している人は、この病気にかかった人を、一生見ることがない。そういうことになっていたのです。この病気にかかってしまわれた方には、本当に気の毒なことであったと思います。この病気にかかった人々の施設には、お寺も教会もありました。現在もあります。その中には、日本基督教団に連なる教会もあります。どうして、こんな法律が出来てしまったのか。それには、長い歴史が背景にありました。この病気は、伝染病なのですが、その感染力は大変弱いのです。皮膚感染なのですが、大人の皮膚は強いのでなかなか感染しません。これは今では判っていることですが、それが判ったのは20世紀も半ばになってからです。それまで、人々はこの病気を大変恐れていました。そして、偏見を持っていたのです。遺伝と思われていた時もありました。神様の罰が下ったとか考えられていた時代も長くありました。そして、イエス様の時代においても、この病気にかかった人は、村の外に出て、隔離された所で生活しなければなりませんでした。今読んだレビ記の少し前の所、レビ記13章45~46節に「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない。」とあります。この「宿営の外」というのは、出エジプトの旅の途中においては「宿営の外」ということになりますが、定住してからは「村の外」ということになりました。つまり、この病気にかかった人は、普通の社会生活をすることが出来なかったのです。社会からはじき出され、見捨てられていたのです。
 その人が、主イエスと出会ったのです。この人が主イエスの所に来たのか、主イエスがこの人の所に行ったのか、ここだけでは判りません。しかし、同じ記事を記している、マタイ(8章1~4節)とマルコ(1章40~45節)には、この人が主イエスのもとに来たとあります。この人は主イエスのうわさを聞いて、この人なら何とかしてくれると思い、主イエスのもとに来たのでしょう。この人が「町の中にいた」主イエスの所に来るだけでも、これは大変なことだったと思います。きっと、「私は汚れた者、私は汚れた者」と叫びながら、人々のおびえた目にさらされて、やっとの思いで主イエスの元にやって来たのでしょう。主イエスは、この人と出会ったときに、その思いをお受け取りになられたに違いありません。教会に初めて来られた方の中には、この人と同じような、大変な覚悟をして、教会に期待をして、すがる思いで教会の門をくぐってきた人もいるのではないか。私共は主イエスと同じようにその人の思いを受け取ると言うことは出来ないかもしれない。しかし、そういう思いに対しての想像力は持っていなければならないのでしょう。教会の受付の責任はとても大きい。そう思うのです。

 この人は主イエスのもとに来ると、主イエスの前にひれ伏しました。そして、こう言います。「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります。」これは直訳すると、こうなります。「主よ、あなたが欲するならば、(願うならば、求めるならば、)私を清くすることがあなたには出来ます。」そして、主イエスは「よろしい。清くなれ」と言われました。この主イエスの言葉も、直訳すれば、「私は欲する。あなたは清められなさい。」となります。この人が「あなたが欲するなら、願うなら」という言葉を受けて、主イエスが「私は欲する、願う」と言われているのです。主イエスが、この人の思いを受け止めていることが、このやり取りの中に読みとれると思います。「よろしい」という訳では、ちょっとその辺の所がよく判りません。この人は、主イエスが欲し、願い、求めることは、その通りになる。そういう信仰を持っていた訳です。まさに、主イエスの力を信頼しているのです。そして、この人は主イエスに全てをかける思いで、ここにたどり着いたのです。そして、主イエスはこの人の信頼に応えるのです。「私は欲する。私は願う。」これは、この人のいやしの出来事が、まさに主イエスの思いによって引き起こされたことであることを示しているのでしょう。私共はこのことを良くわきまえなければなりません。熱心に祈ればかなえられるとか、祈りは力であると言われます。その通りだと思います。しかし、それは私共の祈りそのものに力があって、私共が何かを起こすことが出来るということではないのです。そうではなくて、神様の、主イエスの思いがあって、その思いに私共の祈りが届き、神様がその御心のままに出来事を起こされるのであります。ここで主イエスにいやされた人は、何としてもいやされたかったでしょう。しかし、あくまで「あなたが欲するなら、あなたは私を清くすることができます」と言って、どこまでも、主イエスに主導権があることをわきまえ、その主の前にひれ伏しているのです。ここに、私共の祈り心のあり様が示されているのではないでしょうか。

 さて、ここで主イエスが言われた、「清くなれ」でありますが、これは先程直訳しましたように、「あなたは清められなさい」ということです。「清くなれ」というのは、自分で清くなれということでないことは明らかでしょう。自分で清くなれるなら、何も主イエスのもとに来て願うことはないのです。自分で清くなれないから、主イエスのもとに来たのです。そして、主イエスが言われたのも、「清められよ」です。受け身なのです。私共は、自ら清くなるのではなく、主イエスによって、神様によって清められるしかないのであります。それが、この主イエスの「清くなれ」という言葉です。では、「清められる」とは、どういうことなのでしょうか。もちろん、ここでは病がいやされることを指している訳ですが、それだけではないでしょう。神様によって清められるとは、神様によって赦され、受け入れられるということでしょう。これまでこの人は、自分は神様に捨てられたと思って生きてきた。周りの人も、そう思い、この人を見ていたはずなのです。しかし、「清められる」とき、自分も又、神様に自分の全てが愛され、受け入れられている者なのだ。だから、今までとは違う自分として新しく生きる者になるということなのではないでしょうか。

 ここで、主イエスがこの言葉を告げられた時の動作を見てみましょう。13節「イエスが手を差し伸べてその人に触れ」とあります。この時、主イエスはこの人のどこに手を伸ばして触れられたのでしょうか。書いてないのですから、想像するしかないのです。頭なのか、肩なのか、顔なのか、あるいは手なのか、それは判りません。けれど、主イエスが手を伸ばされて触れられたのは、きっとこの病におかされ、肉が腐り、その形もくずれた、そういう所でなかったかと私には思えるのです。主イエスは、この病の患部に触れた。この人自身が見たくない所、人にも見せたくない所、誰もが触れることが出来ない所。しかし、そここそが主イエスによって清めていただかなければならない所なのでしょう。主イエスはそこに手を触れ、そして言われた。「私は欲する。あなたは清められよ。」すると、たちまち重い皮膚病は去ったのです。
 私共にもあるのです。自分でも見たくない、人にも見せられない。妻にも、夫にも、親にも、子にも、見せたくない、知られたくない、そういうところがあるのでしょう。そこが癒されていかなければ、本当に新しくなることが出来ない。そういう所がある。誰にでもある。それを罪と言うのです。罪というものは、少しも観念的なものではありません。自分の中で、腐り、臭いを放ち、それ故にフタをしている所です。見たくもない、思い出したくもない。しかしそれがあるから健やかになれない。そこを、主イエスに触っていただき、清めていただかなければならないのです。私共は祈りながらも、そこにだけは触れない。主イエスにさえも、そこだけは触れさせない。そんな所があるのではないでしょうか。しかし、それではダメなのです。主イエスの前に、全てを開いて、許していただき、清めていただかなければならないのです。その時、私共は清められ、そして変えられていくのです。自分のこんな所はイヤだと、独り言のようにつぶやいていてもダメなのです。何も変わりません。大胆に、正直に、「主よ、私のここをいやして下さい。清めて下さい。」そう祈ったら良いのです。主イエスは、必ず清めて下さいます。祈りと独り言のつぶやきは違うのです。どうしてつぶやくだけで祈らないのか? 主イエスは、自分に祈ることを求めておられる、待っておられるのです。神さまと私共が出会うのは、私共が自信満々で、人にも見せたいような、光の面、明るく楽しい時ではなくて、自分の暗い、闇とも言うべきところで出会っていくのではないでしょうか。

 主イエスは、この人をいやされると、こう命じられました。14節「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」これは、先程お読みいたしましたレビ記にありますような清めの儀式を受けなければならなかったからです。これをしなければ、この人は主イエスによって清められても、社会復帰することが出来なかったのです。この人は清くなった、この病はいやされたという認定を受けなければ、普通の社会生活へと戻ることが出来なかったのです。病がいやされるだけでは十分ではないのです。その人がちゃんと社会生活出来る、そこまで主イエスは見ておられるのです。
 主イエスは、ここでも、「だれにも話してはいけない。」と申しつけます。それは、以前にもお話ししました様に、主イエスが来られたのは、病気をいやす為ではなかったからです。しかし、人々はそれを求めて、主イエスのもとに来る。人は自らの罪の赦しを求めず、病気が治ることだけを求める。そういう人間の心を、主イエスは良く知っておられたからでしょう。私共は目の前のことに、いつも目を奪われ、心を奪われてしまうのです。しかし、主イエスは違います。主イエスは目の前のことだけを見ておられるのではなく、私共の心の深みまで見ておられる。そして、私自身以上に知っておられます。そして、主イエスは、この世界の闇も見ておられます。そして祈られた。主イエスは、この私共の為に、又、この世界の為に、人里離れた所に退いて、祈られた(16節)のでしょう。主イエスは人々を癒しながら、その人たちの闇を見、その人のために祈ったに違いない。そして、そのような人々を次々と生み出す世界の闇を見、この世界のために祈られたに違いないのです。人の知らない所で、今も、主イエスは私共の為に、又、この世界の為に祈って下さっています。この祈りに支えられ、私共は保たれ、この世界は保たれているのです。主イエスによって清められた者は、そのことを知るのです。そして、自分自身もまたこの主イエスの祈りに参加していく者となるのであります。目の前のこと、自分のことだけを祈っている訳にはいかないのです。自分が清められた者は、人も世界も清められなければならない存在であるということを知らされたからです。主イエスの祈りに参加していく者となる。それは、具体的に言えば「主の祈り」を祈る者となるということです。私共は主の祈りにおいて、「御心が天になるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈ります。これは、私共の中から沸き上がってくる祈りではありません。主イエスに教えられて、始めて祈ることが出来る祈りでしょう。この祈りに参与する者に造りかえられるために、私共は癒され、清められたのです。この祈りを知っている者として、この祈りを祈る者として、主イエスの祈りに参与する者として、この一週もまた主の御前を共々に歩んでまいりたいと思います。

[2005年5月1日]

メッセージ へもどる。