今日の礼拝後、私共は2005年度の定期教会総会を開きます。昨年度の諸報告を聞き、一年間の主の導きに感謝をささげ、新しい年度の歩みが主のあわれみの中で支えられるよう祈りを合わせる時です。長老・執事の選挙がなされ、宣教計画・予算等も審議されます。そのことを覚えて、今日は今年度の教会聖句に思いを巡らしつつ、御言葉を受けてまいりたいと思っております。
こう申しますと、「おや?」と思われる方がおられるかもしれません。すでに皆さんの手元に今日の教会総会の為の資料があるかと思いますが、そこには今年の教会聖句は、使徒言行録2章17節「若者は幻を見、老人は夢を見る」となっております。しかし、今読まれました聖書はヨエル書と使徒言行録16章でした。どうなっているのか。これは皆さんがすでにご承知の様に、使徒言行録2章においてペンテコステの出来事が起きます。その時にペトロがキリスト教会における最初の説教をいたしますが、今お読みいたしましたヨエル書の3章1~5節が、そこで引用されているのです。ペンテコステの日、主イエスの弟子達に聖霊が注がれた訳ですが、この出来事をペトロは旧約のヨエル書の預言の成就であると理解したのです。「若者は幻を見、老人は夢を見る。」これは、聖霊が注がれたことによって起きた終末的な出来事を示しているのです。旧約においては、聖霊が注がれるというのは、王とか預言者といった特別に神様に選ばれて神の民を導く者として立てられた者にだけ起きると考えられていました。しかし預言者ヨエルは、終わりの日には、ある特別の人だけではなくて、老人にも若者にも聖霊が注がれ、皆が幻を見、夢を見、預言するようになると語ったのです。確かに、預言書を見れば判るように、預言者たちは、神様のなさる業を前もって見せていただく、幻・夢を与えられました。そして、その夢や幻が預言へと繋がっているのです。夢や幻は、それだけでは終わらないのです。神の言葉を語るということへと繋がっていく。ペトロはペンテコステの日、まさにヨエルの預言が自分達の上に成就したと説教した、預言したのです。このペトロの理解は、私共に受け継がれていかなければならないことなのであります。私共キリストの教会は、ある特定の者にだけ聖霊が注がれているとは決して考えていないのです。キリストを信じ、キリストを愛し、キリストと共に生きていこうと志す者には、すでに聖霊が注がれている。聖霊が注がれることなく、私共に信仰が与えられるということはあり得ないからであります。そして、聖霊が注がれている以上、私共は夢を見、幻を見、神様の言葉を語ることが出来る者とされているのです。
聖霊が自分の上にも注がれている。このことは、いわゆる実感として判るというのとは少し違うかもしれません。まさに、これは信ずべきことなのでしょう。しかし、何の手ごたえもないのに、とにかく頭ごなしに信じるということでもないのです。私共がキリストを愛し、キリストに従って生きていこうと志すということは、自然なことではありません。神様に逆らうという、罪人としての自然な心の動きと正反対の心が私共の心の中に生まれたのです。実に、私共は新しい者として生まれ変わったのです。これこそ、聖霊が注がれている「しるし」なのです。神様に向かって、「アバ、父よ」と祈ることも又、聖霊が注がれている確かな「しるし」であります。
ここで今年の教会聖句に戻りますが、「若者は幻を見、老人は夢を見る。」ということは、聖霊が注がれた「しるし」として起きることなのですから、この幻とか夢というものは、聖霊によって与えられる幻であり夢であるということなのでありましょう。老人がボケて夢を見ているということではないのです。若者が荒唐無稽な、自分勝手な幻を見るというのでもない。この夢や幻は、神様の救いの業が前進していく、その様を見せていただくものなのです。この聖句のポイントは、二つあります。一つは、幻を見たり夢を見たりするのは、ある特定の人ではなく、聖霊を注がれた全ての人であるということです。この聖句に導かれてこの一年を歩もうとする私共は、皆で幻を見、夢を見るということを心に刻みたいと思うのです。牧師が幻を見、夢を見て、それに教会員がついてくる。そういうことではないのです。皆が幻を見、夢を見るのです。
昨年の四月にこの教会に遣わされてきまして、私も一年が過ぎました。あわただしく、あっという間に一年がたってしまった気がしますが、この一年間で私が感じたことは、この教会には私が牧師をして長い間願い求めていたものが全てあるということでした。前の教会には、専用の会堂もありませんでした。礼拝出席者も30名くらいでした。専用の会堂が欲しいと思いました。せめて50名の礼拝をと願っていました。会計長老は、毎月赤字にならないか心配していました。この教会には立派な会堂があり、毎週多くの方と礼拝が守れ、讃美歌の声は大きく響きます。お掃除も皆さん責任を持ってやられます。病気の人が出れば、誰彼となく問安をされます。クリスマスには、ビラを印刷して皆で配ります。キャロリングも出来ました。働き人もいます。豊かなタレントを持った方が、大勢います。前の教会で、こんな教会になれたらいいな、こんな人がいたらいいなと思っていたことが、この教会では全てあるのです。本当に良い教会だと思いました。何も問題はないのです。さすがに、優れた伝道者達に導かれ、養われ続けた教会だと思いました。一人の伝道者がどんなに頑張っても、こうはならない。何代もの牧師達が、心をこめて建て上げてきた教会ならではの姿が、ここにあります。しかし、そこで私は牧師として思いました。本当に問題がないのか、課題がないのか。そんな教会は地上には存在しない。地上の教会はいつでも課題があるのです。その課題をきちんと見なければならない。そう思いました。そこで第一に思ったことが、この教会が50年後、100年後にどんな教会になりたいのか、そのイメージを皆が持っている訳ではないということでした。いや、持っている人もいるのかもしれないけれど、それが表には出ていない。私の牧師としての夢や幻を語る前に、今、教会員一人一人が、この教会に対して夢や幻を持ち、それを語り始めることが大切なのではないか。そう思ったのです。
第二に、この聖句のポイントは、この夢や幻は聖霊によって見せていただく幻であり夢ですから、それは神様の御心が実現していくことを願い、求めていく中で与えられていくものだということであります。単にこうなったら良いのにという、その人の趣味の問題ではなくて、こうなる様に神様は私共の教会を用いようとして下さっている。こうなれば、さらに豊かに、深く福音が伝えられていく。神様の御心が表れていく。神様の御名がほめたたえられていく。「自己実現」ではなく、「神実現」の夢であり幻なのです。そしてこれは、神様の御業に仕える時、人には必ず与えられるものなのです。長老会も執事会も教会学校も伝道部も教育部も礼拝部も聖歌隊もオルガニストも、会計も、婦人会も壮年会も青年会も、それぞれが神様に仕える中で、将来こんな風になったらいいのに、そんな夢と幻を与えられ、それを語り出す。それが今、この教会には必要なのではないか、そう思えてならないのです。
ただ、ここで注意しなければならないことがあります。それは夢や幻を語るときに、「これが足りない」「あれが足りない」という風に、欠けた所をあげつらってはならないということです。不平や不満を言い合いましょうというのではないのです。そんなものは、聖霊なる神様による業ではありません。そうではなく、神様の御業にもっと仕えていく為に、神様の御名がほめたたえられる為に、何が出来るのか、神さまは何を求めておられるのか、それを語り合いたいのです。
もう一つの注意は、「あなたが言い出したのだから、あなたがやりなさい。」そんな風に言わない、聞かないということです。夢を語り、幻を語る時、自分がこんなことを言い出しても、きっと誰かに迷惑がかかるとか、具体的にどうすればいいのか判らないとか、そんなことは関係なく、ある意味無責任に言っていただいたら良いと思うのです。言うだけならタダなのですから。もちろん、長老会において、一つ一つ具体的に検討し実施していきますけれど、最初からそんなことは考えなくて良いのです。例えば、高齢の教会員が増えてきた。教会の老人ホームがあればいいのに。そんな夢を持つ人がいても良いのです。土地は?資金は?働く人は?そんなことを考えたら何も言えません。夢や幻が現実になるには、いくつもの山を越えていかなければなりません。しかし、もし、聖霊なる神様が与えられた夢ならば、それは必ず実現していくでしょう。
教会が歩んで行くには、時には反省も必要でしょう。しかし、教会というものは欠けを反省して、積み上げていくというよりも、聖霊なる神様の導きの中で、夢を持ち、幻を持って、大胆に新しく歩み出していく群なのではないかと思うのです。教会が持つ夢や幻というものは、反省の上に建てられていくというよりも、聖霊によって上から与えられるものなのです。教会とは、そういう存在なのです。上からの力によって、それに引き上げられるようにして建て上げられていく存在なのです。確かに幻を見、夢を見続けるには力が必要です。しかし、その力も又、聖霊なる神様によって与えられるものなのです。この富山の地に福音が豊かに深く伝えられていく為に、何が必要で何が出来るのか、何をしなければならないのか。皆で一緒に夢を見、幻を見、それを語り合いたいと思うのです。一つ一つの奉仕をしていく中で、夢を語り、幻を語り合っていきたいと思うのです。そこで私共は、もっと明るく、楽しく、主に仕えていくことが出来るようになるはずなのです。聖霊による夢と幻は、私共を元気にする力を持っているのです。
さて、今日与えられている使徒言行録16章6節以下でありますが、ここにはキリスト教会の始めの時、聖霊の導きの中で、聖霊の与える幻によって歩んだ一人の伝道者の姿が記されています。それはパウロです。彼は伝道旅行をしていました。彼は小アジア、今のトルコですが、その内陸部を通って、さらに北側、黒海に面している方に伝道していこうと思っていました。ところが、その道を聖霊によって閉ざされます。具体的に何があったのかは判りませんけれど、いずれにせよ、パウロは自分の伝道するつもりの所に行けなかったのです。なる程、伝道とはそういうものなのかもしれないと思います。パウロにはパウロの考え、予定、計画があった。しかし、その通りに事は運ばないのです。何故なら、伝道というものは、徹底的に聖霊なる神様の業だからです。パウロは自分の思いの中で伝道していたのではありません。ただ、聖霊の導かれるままにです。
パウロはトロアスに行きました。エーゲ海をはさんで、対岸はギリシャという小アジアの西のはずれです。ここでパウロは幻を見たのです。一人のマケドニア人が「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください。」そう、幻の中でパウロに願ったのです。パウロは、マケドニア人に福音を告げ知らせる為に、神が私達を召されているのだと確信します。そして、海を渡り、マケドニア州の第一の都市、フィリピに行ったのです。そこで、リディアという婦人と、その家族が洗礼を受けたのです。この時のパウロのフィリピ伝道こそ、ヨーロッパにキリスト教が上陸した最初の時だったのです。これから後、ヨーロッパは、1000年以上の時間をかけて、キリスト教社会を築いていくことになります。その最初の一歩は、実に、パウロが聖霊によって与えられた幻から始まっているのです。教会の幻・夢というものは、全員が一度に同じ幻を与えられるというよりも、一人の人に与えられ、それがみんなに共有されるようになっていく。そういうものなのかもしれません。この時洗礼を受けたリディア。彼女は後のフィリピの教会のメンバーとなったでしょうし、ヨーロッパにおける最初のキリスト者となったのです。パウロは、この時、その後のヨーロッパの姿を知るよしもありません。しかし、パウロに与えられた幻にパウロが応えたことが、始めの一歩であったことは間違いないのです。これは実に素敵なことではないでしょうか。私共が夢を語り、幻を語りながら一年を歩みたいというのは、ここから私共の計画にはなかったような、しかし永遠の神様のご計画の中にはしっかりと定められている、大きな神様の救いの業に参与させていただきたい、そう心から願うからなのです。聖霊による夢や幻は、私共の計画を超えていくのです。神様は私共の教会に何を求め、何をさせようとされているのか。そのことを祈り求めながら、夢と幻を語り合っていきたい。そう思うのであります。
[2005年4月24日]
へもどる。