富山鹿島町教会

イースター記念礼拝説教

「心が燃える時」
イザヤ書 25章4〜10節
ルカによる福音書 24章13〜35節

小堀 康彦牧師

 今朝、私共は自分の命がかかっている出来事の知らせを聞く為に、ここに集まってまいりました。その知らせとは、主イエス・キリストが甦られたという知らせです。この知らせは、二千年前に起きた、何の新しさも無い、聞いても少しも心が動かない、そんな古ぼけたニュースではありません。このニュースは、世界の人々にとって、私共にとって、最も関心のある、何一つ聞きもらすまいと聞き耳を立てないではおられないニュースなのです。何故なら、その出来事に私共の命がかかっているからです。それはちょうど、世界中に新しい伝染病が広がり、毎日たくさんの人が死んでいっている。そしてそれが自分の住んでいる地方・町にまで広がってきた。そういうニュースと正反対の意味で、しかし自分の命がかかっているという点においては、まったく同じ意味で、私共の関心を引かないはずのないニュースです。主イエスが甦られた。復活した。このニュースは、もしそれが本当なら、私共の命は死では終わらないことになります。自分の命だけではありません。私共の愛する者の命も又、死では終わらないことになる。復活があるということは、死では終わらない命があることを、私共に示すからです。
 この主イエスの復活というニュースは、いつも二通りの反応を受けてきました。一つは、「そんな馬鹿な」という反応であり、もう一つは「何と素晴らしい」という反応です。今でもそうです。これは、実験室で再現することが出来ません。ですから、「そんな馬鹿な」という反応が無くなるということはないのです。どこまでいっても、これを信じる人と信じない人が居るのです。でも、今は信じられないと言っている人も、本当は信じたいのではないかと私は思っています。もし、これが本当なら、どんなに素晴らしいことか。本気で、「自分は死んだら終わり。それでいい。」そう思っている人は、たくさんは居ないのではないでしょうか。キリストの教会は、このニュースによって生まれ、このニュースを世界に告げる為に歩んできました。キリスト者とは、このニュースによって、自分の人生の全てが変わってしまった人のことです。

 さて、聖書は主イエスが甦られたという出来事を、主イエスが十字架におかかりになって、死んで葬られたその墓の中に、ビデオカメラを取り付けて、一部始終を記録に収めるというあり方で、記録してはおりません。主イエスは金曜日に十字架におかかりになって死なれました。そして、日曜日の朝早く、主イエスの遺体を収めた墓に主イエスの女の弟子達が行ってみると、その墓は空っぽだった。そして、天使によって「主イエスは甦られたのだ」と告げられた。そう記しています。主イエスが墓から出てくる所を誰かが見たというのではないのです。その瞬間を見た人は一人もいません。主イエスがむくっと起きあがり、自分の体を巻いていた亜麻布を脱ぎ捨て、墓に蓋をしていた大きな石を転がして墓から出てきた。そんなことは記していないのです。ところが、その後、復活した主イエスに、何人もの弟子達が出会います。この復活した主イエスに出会った人達の証言が聖書には記されているのです。主イエスの復活という出来事は、この証言というあり方によってしか伝えることが出来ない出来事なのではないかと思います。主イエスを知らない人、信じない人、愛さない人、そういう人々に復活の主イエスが姿を現して人々を驚かせたとは記してない。主イエスの復活は幽霊やお化けの類いではないのです。主イエスの復活は、それを知ることによって、人生の意味や、生き方や、目的が根底から変えられてしまう、そういう出来事なのです。

 今日与えられている、主イエスの復活の証言の記事を見てみましょう。
 13節「ちょうどこの日」とありますのは、主イエスが復活された日です。「二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村に向かって」歩いていた時のことでした。六十スタディオンというのは、だいたい11kmです。何でこんな訳をしたのかと思います。読んだだけでは、少しもピンときません。そして、この二人の弟子というのは、一人は18節に「クレオパ」という名前が記されています。多分、このルカによる福音書が書かれた時代に、教会の中で名前が知られていた人ではなかったかと思います。しかし、もう一人の人の名前は記されていません。私は、どうしてクレオパしか名前が記されていないのか、もう一人の弟子の名前は記されていないのか不思議で仕方がありませんでした。どうもそう考えるのは、私だけではなかった様で、この名前を記されていないもう一人については、かなり古い時代から様々な推測がなされてきました。代表的なのがクレオパの息子ではなかったかというものです。又、最近ではクレオパの妻ではなかったかと言う人もいます。妻や息子ならば、クレオパしか名前が記されていなくても、あまり不思議ではないということになります。もし、そうだとすると、ここは最初のクリスチャン・ホームの祝福という記事としても読めることになるかもしれません。親子なり、夫婦なりで主イエスに従った二人に、イースターの日に復活の主イエスがその姿を現され、親しく福音の真理を解き明かして下さった。そして、最初のクリスチャンホームが誕生した。そんな風に読むことも出来るだろうと思います。

 さて、この二人が道を歩きながら、主イエスが十字架にかけられたこと、又、婦人達が今朝早く墓に行くと主イエスの遺体が見あたらず、天使に「イエスは生きている」と告げられたことなどを話し合っておりました。この時、この二人は、すでに主イエスの復活のニュースを聞いておりました。しかし、それが一体どういうことなのか判らなかった。だから17節にありますように、二人は暗い顔をしていたのです。主イエスの復活のニュースは、それを聞いただけでは、何も起きないのです。それが一体何を意味しているのか、それが判らなければ、「そんなことがあったのか。不思議なことだ。」それで終わってしまうのです。しかし、主イエスの復活のニュースは、その意味が判れば、私共の人生の根本から変えられてしまう、そういう力を持っているものなのです。
 この二人の人は、主イエスに望みをかけていました。しかし、主イエスが十字架にかけられて死んでしまった為に、その望みは消えてしまった。そう思って、暗い顔をしていたのでしょう。21節に「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。」とありますように、その望みとは、「イスラエルを解放してくれる」というものだったのです。当時、イスラエルはローマ帝国に支配されておりました。イスラエルの人々は、旧約聖書に預言されている救い主、メシアが誕生し、この苦しい状況を打ち破ってくれる。ローマの支配から解放してくれる。そう思っていたのです。このクレオパともう一人の弟子も又、そのような望みを主イエスにかけていたのであります。しかし、主イエスは十字架にかけられ、殺されてしまった。期待が大きければ大きい程、それがダメと判った時の落胆は大きいものとなります。この二人の弟子の暗い顔は、その落胆の大きさを示しているのでありましょう。
 二人は主イエスを誤解していたのです。主イエスは確かに預言者達によって預言されていた救い主であられましたけれど、二人が期待していた様な救い主ではなかったのです。二人は、自分の理解出来るあり方で、自分の頭の中に入りきるあり方で、主イエスを理解し、主イエスを信じ、主イエスに従っていったのです。しかし、それは十字架の死という結末によって破られました。主イエスの十字架は、この二人にとって、敗北以外の何ものでもなかったのです。これで全てが終わりという、終点でしかなかったのです。そう思っている者にとって、主イエスの復活のニュースは、何を意味しているのか判るはずもなく、「ああ、そうですか。」という以上の反応は起きなかった。
 ところがです。ここで復活された主イエス・キリストご自身が、この二人と出会うのです。復活の主は、この二人と一緒に歩きながら、話し始められたのです。25~27節「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」この時、主イエスは一体、何を話されたのか、具体的には判りません。もし、タイム・マシンがあったのなら、この時に行って、ビデオ・カメラで主イエスの話を記録したい、そう思います。私もこの二人の弟子と一緒に歩きながら、主イエスの言葉に耳を傾けたいと思います。ここには、説教の本来の姿、本当の説教の言葉があるはずだからです。主イエスご自身が、聖書を説き明かされたのです。聖書の言葉が、ご自身について記してあるということを、説き明かされたのです。一体、どの聖書の個所をどのように説かれたのか、それは判りません。しかし、旧約聖書を解き明かしながら、「旧約聖書のここに、こう記されていることは、私がこう説教することを預言している。こう記されていることは、私がこのような奇跡をすることを指し示しているし、こう記されていることは、私が十字架に架かることを、ここにあることは私が復活することを示している。」こんなに風に、一つ一つ聖書の箇所を挙げながら解き明かされたに違いないのです。そして何よりもここで、主イエスは自らの十字架と復活の出来事が旧約聖書に預言されていたこと、それが示す意味を明らかにされたに違いないのです。そして、この主イエスの説き明かしを聞いていた時、二人の心は燃えたのです。心が燃える。それは、神様の御業に触れ、神様のご計画を知り、その壮大な神様の救いの出来事の中に自分自身も又立ち会っている。自分が神様の中に生きている。そのことを知った時に起きた心のあり様を表現しているのでしょう。今までこの二人は、自分の考える理想、自分が考える希望、そういうものを持って主イエスに従ってきた。しかし、それは十字架によって終わってしまった。ところが、自分の考えも及ばない所で、神の計画、神の知恵、神の御業は何一つ終わっていなかった。それどころか、自分は神様の御心を何も知らなかったということを知らされたのではないでしょうか。
 「心が燃える」というのは、神の御業に触れ、新しい人間がそこに生まれるという時の私共の心のあり様、あるいは、壮大な神様の救いの御業の中に自分も巻き込まれ、その場に立ち会わせているという、驚きと喜びの心のあり様を表現しているのです。私共もそうでした。自分が何故、この時代に命を受けたのか知らず、自分の本当の幸せというものを知らず、ただ目に見えるものを求めてその日暮らしをしていた。しかし、主イエスと出会って、変えられた。私の様な貧しい器も、神様によって命を受けたのであり、それ故、神様のご計画の中で果たすべき使命があるということを知らされた。キリストが甦られた以上、私共も又甦るのであり、それ故この地上の人生を超えた命に生きる為に、御心に従って生きることを知らされた。キリストが私共に代わって、私共の為に十字架の上で神の裁きを受けられた以上、私共は最早裁かれることなく、神の子として生きることを知らされた。そして、この生けるキリストとの出会いの出来事は、今も進行中であり、私共はその出来事に立ち会い、証人として立たされている。このことを思う時、私共の心も又燃えてくるではありませんか。この心が燃えさせられた人々によって、主イエスの復活の出来事は証言され続けてきたのです。キリストの教会とは、この証人達の群れを指す言葉なのです。
 先週、私共は受難週の祈祷会で、何人もの人達の証しを聞きました。お一人お一人、復活のキリストと出会って、今日あるを得ている方々でした。私共の教会は、あまり「証し」というものを改まってするという習慣はありません。しかし、それは「証し」がないということではありません。「証し」がない教会などというものは存在しないのです。毎週の説教が「証し」「証言」以外の何ものでもあり得ないのです。19日(土)には、三井澄姉妹の召天一年の記念会が持たれました。私は三井姉妹に会ったことがない。しかし、三井姉妹も又キリストの証人として、この地上の生涯を歩まれたことをお話しいたしました。よいですか皆さん、私共は皆、復活のキリストの証人とされた者なのです。だから、心が燃えるのです。

 さて、聖書はこの「心が燃えたではないか」という証言を、主イエスと共に食事をした時に、目が開かれてその人が主イエスだと初めて判って、あの道で聖書の説き明かしを受けていた時に「心が燃えたではないか」と告げています。この食事が聖餐を示していることは明らかでしょう。復活の主イエス・キリストとの出会いは、この聖書の説き明かしという「説教」と、「聖餐」というものを通して、教会に保持されてきたことなのです。このことは、どんなに強調しても、強調しすぎることはないと、私は思っています。聖書の説き明かしを聞いている時、この二人は相手が、主イエスだとは判らなかった。ヨハネによる福音書が記す、イースターの朝の復活の主とマグダラのマリヤとの出会いの時もそうでした。マリヤは主イエスを墓の園丁だと思ったのです。どうしてなのか、私には判りません。ただ、このように言うことは出来ると思います。私共が福音の真理に出会い、心が燃えた時、そこにも目に見える形で主イエスはいなかった。その福音の真理を告げてくれたのが、牧師であれ、信徒であれ、そこには具体的な人がいただけでした。しかし、今、私共はその人の言葉の背後に、あるいはその人との出会いの中に、主なるキリストがおられた。そのことを知っています。そして、私共自身も又、そのようなキリストを運ぶ者として召され、立たされているのでしょう。
 私共は、今から聖餐に与ります。この聖餐に与るたびに、私共は目が開かれるのです。復活の主イエスが、今も、ここに私共と共にいて下さること、私共の命がすでに、復活のキリストの命と一つに結び合わされていること、そのことに目が開かれるのです。  31節にありますように、不思議なことに二人がこの方は主イエスだと判ると、その姿は見えなくなりました。しかし、見えなくなったということは、居なくなったということを意味しません。もう、見える必要がなくなったのです。見なくても、復活の主イエスと出会い、命の秘義を知らされたからであります。私共も、この聖餐に与るたびごとに、復活のキリストの臨在に触れるのです。この復活のキリストのご臨在こそ、教会の命なのです。教会は、主義・主張によって集まった人間の集まりではないのです。復活のキリストのご臨在に触れ、心を燃やされた、復活の証人の群れなのです。
 今日は2004年度、最後の主の日の礼拝です。新しい2005年度、私は心を燃やされた復活の証人の群れとして、主の御前に確かな歩みを為してまいりたいと、心から願うものであります。

[2005年3月27日]

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