富山鹿島町教会

礼拝説教

2005年1月23日 魚津教会

「自由な服従」
ペトロの手紙 一 2章11〜17節

小堀 康彦牧師

 ペトロは「愛する人たち」と語り始めます。私も今朝、皆さんに向かって「愛する人たち」と呼びかけて語り始めたいと思います。「愛する魚津教会の人達、あなた方に勧めます。」
 ペトロはこの手紙を1章1節にあるように、小アジア地方、今のトルコですが、その各地に離散している人々に書き送りました。この手紙を受け取った人々は、各地に散らばった小さな群でした。一つ一つの群は、数家族であったかもしれません。多分、この魚津教会とあまり変わらない人数ではなかったかと思います。周りの人達は、皆キリスト者じゃない。しかも、ローマ帝国によりキリスト者に対しての迫害の足音が近づいてきている。そういう時代です。異教徒に囲まれ、迫害の足音におびえる小さな群。それらの人達を慰め、励ます為に、ペトロはこの手紙を書いたのです。多分、ペトロはこの手紙を読むであろう一人一人のことまでは、良く知らなかったのではないかと思います。しかし、同じ信仰に生きる者として、困難の中にいる信仰の友を、何としても慰めたい、励ましたい。そう思ったのです。そして筆を取った。私も又、魚津教会の皆さん一人一人のことを良く知っている訳ではありません。しかし、今朝、同じ信仰に生きる者として、慰め、励ます為に、主によって遣わされてまいりました。
 ペトロは「愛する人たち」と呼びかけていますけれど、この言葉は直訳すると「愛されている人たち」という言葉なのです。そうです。神様によって愛されている人達です。そして、私がこの手紙を書いている様に、多くのキリスト者があなた方のことを覚えている。あなた方は実に愛されている人達なのだ。そう語りかけているのです。あなた方は、神様に、そして多くのキリスト者に愛されている人達なのだ。この愛を思い起こし、この愛に留まる者として生きて欲しい、歩んで欲しい。そういう願いをもってペトロはこの手紙を書いたのです。
 しかし、ペトロはここで安っぽい気休めとなるようなことを語っているのではありません。愛する人達、愛されている人達と呼びかけて、すぐに、「あなた方に勧めます。」と続けるのです。この「勧めます」という言葉は「慰めます」とも訳すことが出来る言葉なのです。ペトロは慰めたいのです。励ましたいのです。しかし、私共キリスト者が慰められるというのは、どういうことなのでしょうか。気休めを語られることではないでしょう。そうではなくて、私共に与えられている恵みの現実、救いの現実を知らされ、そこにきちんと立つように、その中を確かに歩んでいくようにと告げられることなのではないでしょうか。自分が与えられている恵み、神様の救い、それをはっきりと示されることによって、私共は慰められ、励まされるのではないでしょうか。だから、ペトロは本当に慰めたいから、勧めをするのです。
私は牧師として、しばしば死を間近にしている病床の人たちを訪ねます。そこで何を語るのか。「病気は治りますよ。」、そんな気休めを語るのではありません。あなたは神様に愛されている、捕らえられている。主イエスは共にいて下さっている。だから信仰を失わないように、永久の命の恵みの中に留まるように勧めるのです。そして、枕元で祈るのです。本当に慰めたいから、与えられている恵みを告げ、そこに留まるようにと勧めるのです。私共の慰めは、そこにしかないからです。

 ペトロは言います。あなた方は「旅人だ。」この手紙を受け取った人々は、その地に生まれ育って長くそこに住んでいるという人ではなくて、様々な事情で散り散りにさせられてしまった、文字通り、旅人という生活を強いられていた人々であったのかもしれません。しかしそうでなくても、意味は変わりません。富山には、「旅の人」という言葉があるということを、昨年の四月に富山に移り住みまして教えていただきました。あの人は地元の人ではないということを言い表す言葉らしいのですが、私はこの言葉が大変気に入りました。あの教会の牧師は旅の人だ。そう言われるのは、うれしいこと、楽しいことだと思っているのです。言っている人はそんなつもりはないのでしょうけれど、この「旅の人」という言葉は、実に私共キリスト者の本質を言い表している言葉だからです。キリスト者は、その土地に生まれ育とうと、代々その土地に住んでいる者であろうと、皆、旅の人なのです。神の国への旅人なのです。旅人は、行くべき目的地を持っている。今生きているこの場所が、最終目的地ではないことを知っている。それが旅人というものでしょう。このペトロの言葉で言えば、「仮住まいの身」であるということです。私共は神の国の旅人なのです。
 この旅人というイメージは、アブラハム、イサク、ヤコブといった信仰の父祖たちの人生と重なります。あるいは、モーセに率いられて出エジプトをした神の民イスラエルの荒野の旅とも重なります。あるいは、信仰の自由を求めてアメリカに渡った、私達の信仰のルーツを形造った人々の姿と重なります。もちろん、私共は実際にテント生活をして、旅から旅の生活をする訳ではありません。しかし、私共が神の国を目指しての旅人であるという認識は、とても大切なものだと思います。何故なら、このことを忘れてしまいますと、私共は、目に見える地上のことが全てであるかのように考え始めてしまうからです。  私共は何気なく、「健康が一番」なんて言ってしまう所があるでしょう。でも、それは間違いでしょう。健康は大切です。しかし、一番ではない。一番は信仰です。この地上の命が全てであるなら、健康が一番で良いでしょうけれど、私共は神の国への旅人なのですから、たとえ、この地上の命を失っても、神の国の命を失う訳にはいかないのです。ゴールは神の国です。

 では、神の国への旅人として、私共は一番何に気をつけなければならないのでしょうか。つまり、何に気をつけないと、神の国への道からはずれてしまうことになるのかということであります。
 ペトロは言います。「肉の欲を避けなさい。」この肉の欲といいますのは、肉体的な、本能的な欲ということではありません。それを含みますが、それだけではありません。「肉の欲」は「の」を取りますと「肉欲」となって、これはほとんど性欲と同じ意味になりますが、ペトロがここで言っているのはそういう意味だけではありません。聖書で「肉」というのは、「霊」に対比して使われる言葉です。つまり、神様の御心にかなわない欲、それが「肉の欲」ということです。具体的に言えば、神様の栄光を求めないで、自分の栄光を求める。この地上での栄華を求める。富を求める。人からの称讃、「あの人は大したものだ」と言われることを求める。そういうことであります。人を悪しざまに言って、自分を偉そうに見せる。そういうことです。
 ガラテヤの信徒への手紙5章19〜21節を見てみましょう。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」とあります。それに対して、霊の実は22〜23節にあります。「これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」ペトロはここで、肉の業を捨てて、霊の実を求めなさいと勧めているのです。
 ここで霊の実と言われているものを求め、これを身に付けるならば、どんな社会の中にあっても、後ろ指をさされることはないのではないでしょうか。私共キリスト者は、この日本では、まことに少数者です。ということは、私共の生きる姿をもってしか、世の人々はキリスト教を知ることは出来ないのですから、私共の生きる日々の姿は、まことに重要であると言わねばならないのでしょう。それは、神の国の証人として立てられているということであります。キリスト者は、この霊の実を求め、身に付けることによって、周りの人とは少し違う、そういう者とされていくのです。違うと言っても、変人という意味ではありません。あるあこがれを持って見られる人と言って良いと思います。そうならねばならないと言うのではないのです。必ず、そういう者へと変えられていくのです。私共は、聖霊なる神様によって、そのように変えられていくことを信じて良いのであります。しかし、私共がこの霊の実を求める、ペトロの言葉で言えば「異教徒の間で立派に生活する」ということは、何も人から見られるからそうしましょうというのではないのです。何よりも、それを主なる神様ご自身が私共に求めておられるからなのです。人に喜ばれるのは結果としてそうなるのであって、私共は何よりも神様を喜ばせる。そういう志の中で生きる時、これは全うされるのでありましょう。旅人であるということは、そういうことなのです。この旅人というのは、あくまで神の国に向かっての旅人だからであります。
 さて、神の国への旅人は、この地上の命が全てではないことを知っています。しかし、このことは、地上での日々の歩みを軽んじて良いということを意味しません。神の国への旅人だから、この地上の生活は旅先でのこと、だから旅の恥はかきすて、そんな生き方をしては、少しも神様を喜ばすことは出来ないのであります。私共は、誠実に、真実に与えられた場で、為すべきつとめに励まなければならないのです。12節「また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。」とある通りです。キリスト教などというものは嫌いだ、訳が判らんと言っていた人達も、私共の歩みを見ているうちに、キリスト教は良いな、そんな風に思う日が来るのです。
 伝道は説得ではありません。納得です。いくら口で良いことを言っても、私共の歩みが少しも良いものでなければ、人は納得してはくれません。私共の家族が、私共をどう見ているでしょうか。家族は表面だけではなくて、まさに日常の全てを見ている訳ですから、これに伝道するというのは、私共が本当のキリスト者、心も言葉も日々の歩みも、キリストの恵みを証する者にされていかねば、出来ないことでしょう。私共には、それが出来るし、そうする者として召されているのであります。

 ペトロは、この立派な行いということについて、13節から3章の7節まで、具体的な状況の中での歩み方について記しております。この世の権力、制度に従え。召使いは主人に従え。妻は夫に従い、夫は妻を尊敬しなさい。そう告げております。神の国への旅人は自由なのです。私共は自由なのです。しかし、この自由を、どのように用いるのか。私共はそれを、従う、仕える、というあり方で用いるのであります。
 今日与えられております13節以下は、現代ではあまり人気のある所ではありません。この世の権力者の言いなりになっていいのか、権力に対して対抗するのがキリスト者ではないのか。そんな風に考える人が少なくないのです。16,17節に「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい。」とあります。先程お読みいたしましたサムエル記上24章には、自分の命をねらうサウルに対して、ダビデが神に立てられた王であるが故に、殺さなかったことが記されています。ダビデはサウルを立てた神を畏れたのです。この手紙が書かれた時のローマも迫害しようとしていた。しかし従えと、ペトロは教えているのです。もちろん、何でもかんでも従えば良いのではありません。「主の僕として」であります。高山右近という人がいました。彼は秀吉によって、信仰を捨てるように求められますが、それは出来ないと、追放されるのです。この世の権力に従うと言っても、「主の僕として」でありますから、信仰を捨てることは出来ません。
 私共は与えられている自由を、愛に生きるということの為に用いる訳ですけれど、愛に生きるということは、具体的には、仕えるということになるのではないかと思うのです。それは、キリストは神であられたのに、仕えられる為ではなく、仕える為に歩まれた。十字架の死をもって私共に仕えて下さった。このキリストに倣う者として生きる所に生まれてくる歩みだからであります。神の国への旅人の群の先頭には、キリストがおられます。この主イエス・キリストの歩みに私共の歩みが重ね合わされていく。そこに神の国への旅人としての私共の歩みがあるのであります。
 幼子を祝福する祈りをささげる時、私は「神と人とに愛され、神と人とを愛し、神と人とに仕える者となるように。」と祈ります。これは幼子の為だけのことではありません。愛され、愛し、そして仕える者となる。それが私共に与えられている、神の僕としての自由の用い方なのです。そして、それが私共に与えられている歩みなのでありましょう。

 ただ今から、聖餐に与ります。この聖餐は、私共がやがて神の国において与る主の食卓を示しています。神の国において、主イエスを中心にして、代々の聖徒達が、共々に食卓を囲むのです。この日を目指して、この新しい一週も、キリストにささげる歩みを共々に為してまいりたいと、心から願うものであります。

[2005年1月23日魚津教会礼拝]

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