富山鹿島町教会

礼拝説教

「神と人とに愛されて」
箴言 3章1〜12節
ルカによる福音書 2章39〜52節

小堀 康彦牧師

 主イエスがどのような少年であったのか、誰でも興味がある所であります。しかし、聖書はそのことについて、ほとんど何も記しておりません。今朝与えられております御言葉、ルカによる福音書2章39節以下の所が唯一の記事であります。3章からは、いわゆる公生涯、主イエスが救い主として歩まれた約3年間のことが記されております。主イエスが救い主として公の前で歩み始められた時、すでに30才になっていたと考えられておりますので、あのクリスマスの時の誕生から、主イエスの30年間の出来事はほとんど何も判らないのであります。このことは、主イエスについて聖書が語る場合の、基本的な姿勢であると言って良いと思います。私共は、主イエスについて様々な興味を持ちます。しかし聖書は、その興味に応えるような情報はほとんど何も与えないのです。例えば、主イエスの身長はどのくらいだったのか、どんな服を着ていたのか、どんな顔だったのか、ヘアースタイルは。そのようなことについて、聖書は一切何も語りません。たくさんの主イエスの絵が描かれましたけれど、どれも想像にすぎません。多くの場合、その絵を描いた人の周りにいた人をモデルにしている様で、ヨーロッパの人が描けばヨーロッパの人の姿になっています。はなはだしい場合は、金髪に青い目のイエス様として描かれました。しかし、主イエスはユダヤ人だったのですから、これは考えられないことです。しかし、頭のハゲた、背が低く、太った主イエスの姿を描いたものは見たことがありません。あるカトリックの司祭からクリスマスカードを頂きましたが、それには子どもを抱いた観音像のような絵が描いてありました。日本人の姿をしたマリア様とイエス様ということなのでしょう。しかし、私共は、いくら興味があっても、聖書が沈黙していることについては、あまり想像力をたくましくしない方が良いのだろうと思います。自分の興味で聖書を読むのではなく、聖書が語ろうとすることに聞かなければなりません。
 では、どうして聖書はそのようなことについて何も語らないのか。理由は、とても簡単なことだと思います。それは、主イエスがどんな顔で、どんなスタイルだったのか、そんなことは私共の救いと何の関係もないことだからです。とするならば、主イエスがどのような少年時代を過ごされたのか、どのような少年であったのか、このことについても、私共は単なる好奇心や興味からではなく、私共の救いとの関係において、聖書が語ろうとしていることについて、聞いていかなければならないということになるのでありましょう。
 実は、主イエスの少年時代について、多くの奇跡を行ったことを記している福音書があったのですが、それは聖書の中に採用されなかったという事実があります。代表的なものは、トマスによる福音書と言われるものですが、そこには主イエスが泥をこねてハトを作ると、ハトが飛んでいったというようなことも記してあります。しかし、そのような話は聖書は一切採用しなかったのです。そのことは、主イエスが「まことの人」として、普通の子供と少しも違わずにお育ちになったということを、聖書は暗に語ろうとしているということなのだろうと思います。40節と52節を見ますと、40節「幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」、52節「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」と記されております。ここには、主イエスは幼子から成長して、だんだん大きくなったという、当たり前のことが告げられてるのだと思います。「たくましく育ち」「背丈も伸び」あるいは「知恵に満ち」「知恵が増し」とは、そういうことだろうと思います。体も大きくなり、知恵もついていった。ハイハイをするようになり、歩くようになり、言葉も話すようになりという、普通の成長過程をふんでいったということでありましょう。

 ただ、ここで注目したいのは、「神の恵みに包まれていた。」「神と人とに愛された。」と記されていることです。これは、主イエスの成長というよりも、主イエスの育った環境状況を言っているのでしょう。何気ない言葉ですけれど、私の目は止まります。主イエスは、神の子なのですから、「神の恵みに包まれていた。」というのは当然のことかもしれません。しかし、この「神の恵みに包まれていた。」ということは、具体的に言えば、「神と人とに愛されていた。」ということになるのでしょう。自分で生きる環境を作り出すことの出来ない幼子にとって、神の恵みに包まれるということは、周りの人に愛されるということ以外にないのでしょう。主イエスは裕福な家に育った訳ではありません。大工の子です。貧しい家に育ったと言っても良いでしょう。しかし、主イエスは神と人とに愛されて育った。私共にも子供がいる。その子に、「神と人とに愛された」と言い切ることが出来る日々を与えてあげたい、そう思うのであります。私共は、我が子が大きくなったら、キリストに倣いて、神と人とを愛し、神と人とに仕える者として生きて欲しいと思う。とするならば、その大人になるまでの日々も又、キリストに倣いて、神と人とに愛される日々を与えていかなければならないのだろうと思うのであります。

 さて、聖書が記す唯一の主イエスの少年期のエピソードがここに記されております。主イエスが12才の時のことです。この12才という年令は、当時のユダヤにおいては大人の仲間入りをする年頃であったと考えられます。もちろん、まだ生活力がある訳ではありません。しかし、もう大人として見なされる、そういう責任を担う年令だったのです。これは、その後、年令において若干の変動はありますけれど、キリスト教会に受け継がれまして、12才〜14才ぐらいの間に信仰告白をして、聖餐にも与り、大人の信仰者としての歩みを始めるというのが伝統となってまいりました。ですから、この時の主イエスは、私共が考えるような、まったくの子供という訳ではありません。大人の仲間入りをするほどの年齢になったときということなのです。マリアもヨセフも、当時の慣習に従って過越の祭りを祝う為に、エルサレムに来たのです。この時、世界中からユダヤ人がエルサレムに巡礼のために集まって来ていました。大変な祭りです。ナザレの村からエルサレムまで、おおよそ100qくらいでしょうか。片道3泊か4泊しての旅です。当時は、一つの村単位でこの巡礼の旅をしたと考えられます。祭りのはなやかさもさることながら、この行き帰りの旅も又、少年イエスにとって、どんなに楽しい時であったろうかと思います。詩篇の中には「都もうでの歌」というものが幾つもありますが、人々はこの詩篇を歌いながら旅をしたのです。近所の子供たちも一緒です。修学旅行のような楽しい旅であったに違いありません。江戸時代のお伊勢参りや、富山で言えば立山詣を考えれば良いと思います。気の合った何家族もが一緒になっての旅です。
 事件は、その旅の帰りに起きました。過越の祭りが終わって、ナザレに帰る。当時は足の遅い女性達、それと子供達が先に出発する。そして、後から男性達が出発し、その日泊まることになっている所で落ち合う。そういうことになっていました。多分マリアはイエスがもう大人として男性達と一緒にいるのだろうと思い、ヨセフは、イエスは子供なのでマリアと一緒なのだろうと思っていたのでしょう。ところが、いざ夜になり家族ごとに泊まろうとすると、イエスがいない。この時のマリアとヨセフの驚き、困惑はいか程であったろうかと思います。二人は、一緒に旅をしていた人々の間を捜します。しかし見つからない。二人はエルサレムまで、我が子イエスを捜しながら戻ってきました。夜も眠らずに、旅人を泊めている家があれば、そこにイエスはいないかと尋ねながら、エルサレムにまで戻ってきたことでしょう。過越の祭りが終わったとはいえ、世界中から集った巡礼のユダヤ人達でまだエルサレムはごったがえしていたに違いありません。マリアとヨセフは、自分達が泊まった所、少年が集まっていそうな所を、それこそ、足が棒になるようになって捜し回ったに違いありません。
 私は自分の子をこのように捜し回ったことはありませんけれど、少し痴呆が出てきた教会員が自転車で出たきり家に帰ってこないという連絡を受けまして、夜の舞鶴中を車で捜し回ったことがあります。次の日の朝、隣町で歩いている所を警察に保護され無事だったのですけれど、その夜、家族の方々は、まんじりともせずに朝を迎えたに違いないと思います。
 マリアとヨセフは、それ程広くないエルサレムの町をすみからすみまで、捜し回ったに違いありません。一日が過ぎ、二日が過ぎ、三日目になってやっと我が子イエスを神殿の中で見つけたのです。その時、主イエスは、律法学者達を相手に質問をしたり、話を聞いていたのです。この場面は、しばしば少年イエスが律法学者達に教えている様に描かれるのですが、聖書が告げているのは、そういう主イエスの姿ではありません。主イエスが教えを受けているのです。ただ、その受け応えが見事だったので驚いたということなのです。マリアは言いました。48節「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」この時のマリアの気持ちは良く判ります。ほっとすると同時に、何て勝手なことをしてくれたのか。私もお父さんもどんなに心配したことか。いいかげんにしなさい。そんな思いが口に出てしまったのでしょう。それに対しての主イエスの答えはこうでした。49節「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」何とも可愛げのない答えです。この場面を思い浮かべながら読んできますと、私共は、どうしてもこのマリアの方に味方したくなってしまうのではないでしょうか。父と母をこんなに心配させておいて、平気な顔で律法学者とやりとりしている。何と可愛げのない子か。確かに、主イエスが、ただ「まことの人」であるだけならば、そういうことになるだろうと思います。しかし、この主イエスの答えの中には大きな秘密があるのです。それを読まみ取らなければなりません。母マリアの言葉の中に、「お父さんもわたしも」と訳されている言葉は、原文ではもっとはっきりと、「あなたの父とわたしは」となっている。その言葉を受けて、主イエスは「自分の父」として神様を指して答えているのです。ここに「まことの神の子」としての主イエスの言葉が示されているのです。更に言えば、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」と訳されている文章は、「わたしの父の事柄の中にいるのはこれ以外にない、自然なことなのだ。」と訳せるのです。「家」という単語は原文にはありません。ただ文脈として、場所が問題となっており、そこが神殿であったので、こう訳されているのです。主イエスはここ、神殿にいる。しかも律法学者達と律法について、神の言葉について学んでいる。これこそ、私にふさわしい、自然なことだ。何故なら、私は「まことの神の子」であるから。そう宣言されておられるのであります。この「神様の事柄の中にいる」ということは、神様のみ業としての十字架・復活の出来事へと繋がっているのであります。マリアもヨセフも、確かに不思議なあり方で、この子を与えられました。けれども、普通に我が子として育ててきた。愛情をそそぎ、手しおにかけて育ててきた。しかし、主イエスは、単なるマリアとヨセフの子ではなかった。父なる神様の子であった。主イエスはそのことを告げたのです。マリアもヨセフも、この我が子イエスの不思議な答えが意味していたことを理解出来ませんでした。しかし、この言葉の意味、「父の業、父の事柄の中にあるのが、水が低い方に流れるように自然なこと、当たり前のこと」ということの意味が明らかになるのは、3章以降の公の生涯、特に十字架と復活の出来事においてなのであります。それまで、このことは明らかにされない、隠されたままであったということなのであります。

 主イエスはナザレに帰り、マリアとヨセフに対してお仕えになった。普通の子として、父ヨセフ、母マリアにお仕えになった。その様は人と異ならず、「まことの人」としての姿でありました。「まことの人」である主イエスは、又、「まことの神」であられた。主イエスは生まれた時からずっと、「まことの神」にして「まことの人」であられたのです。「まことの神」が「まことの人」として、父と母に仕えたのです。それが、このエピソードが示そうとしていることなのであります。
 先週も申しましたが、主イエスは十字架にかかり復活したから神の子となったのではないのです。神の子が人となり、その方が十字架にかかり復活されたのです。日本の多くの宗教では、人が神となります。ただの人が死んで神にまつり上げられる。人が神になるのです。しかし、私共の信仰においては、そのようなことは決して起きないのです。人が神になるのではなく、神が人となられたのです。そこに、決して人の側からは架けることの出来なかった神様への橋が、神様の側から架けられたのです。罪の赦しが与えられたのです。この橋を架けることが出来る方は、「まことの神」にして「まことの人」であられる主イエスしかおられません。ここに私共の信仰が成立するただ一つの根拠があるのです。主イエスの十字架は私共の救いの根拠です。しかし、それは、この主イエスというお方が「まことの神」にして「まことの人」であるが故に、成り立つことなのです。ただの人が十字架についても救いにも何もならないのです。「まことの神」にして「まことの人」である方が、私共に与えられた。このことを、心から感謝したいと思います。

[2005年1月9日]

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