富山鹿島町教会

礼拝説教
クリスマス記念礼拝

「大きな喜びに包まれて」
イザヤ書 57章14〜21節
ルカによる福音書 2章1〜20節

小堀 康彦牧師

 クリスマス記念礼拝を守るこの時、私は毎年何よりこの一年間、信仰を守られてこの日を迎えられたことをうれしく思うのです。クリスマスおめでとう、メリー・クリスマスとクリスマスのあいさつを交わせる喜びを思うのです。もし、信仰を失っていたのなら、今日、私はこのような喜びをもって、クリスマスを迎えることは出来なかったと思うからです。信仰が支えられる、信仰が守られるということは、実に聖霊なる神様が働いて下さり、私共の歩みを導いて下さったことの確かな証しなのだと思うのです。皆さんも、この一年の歩みを振り返られるならば、様々なことがあったと思います。病気やケガ、愛する者を天に送ったこと、どうしてこんなことがと思うことも少なくなかったと思います。しかし、それでもなお、信仰を失わなかった。だから私共は、今日、クリスマスを喜び、祝う、この礼拝へと集ってきたのでしょう。中には、この礼拝を守る為に、何日も前から体調を整え、祈りつつ備えをなされた方もおられると思います。そうまでして、どうしてこの礼拝に集ってきたのか。それは、どうしてもこの喜びの礼拝に集わなければならない「大きな喜び」が、私共を捕らえ、包んでいるからなのだろうと思います。
 クリスマス、それは私共の主イエス・キリストがお生まれになったことを喜び祝う時であります。もし、イエス・キリストというお方が、私共と何の関係もない方だったのなら、そう思っていたのなら、私共はこのように喜びながら、ここに集うことはなかったはずです。私共はこの方によって救われた、新しくされた、神の子とされた、だからうれしいのであります。昨年の今頃、私は皆さんのことを知りませんでした。皆さんも、私のことを知らなかった。しかし、今日、私は皆さんと共に、クリスマスを喜び祝っています。私と皆さんとの間にあるただ一つの共通点、それは主イエス・キリストに救われ、主イエス・キリストを愛しているということであります。このただ一つの事実によって結ばれているのが、私共の交わりなのでありましょう。
 今日、三人の転入会者と、一名の受洗者、一名の幼児洗礼者が与えられております。私共はクリスマスの喜びを一人でも多くの者と祝いたいと願っておりますが、今日から、五名の方々が私共の群に加わって、共々に喜び祝うことになる訳です。何よりうれしいことであります。それぞれの方々と、3,4ヶ月にわたって準備会をいたしました。そこで、それぞれの方々の今の時に至るまでの歩みも聞きました。神様はこういうあり方で、この方を救いへと導き、私共の群へと導いて下さったのかと、教えられました。お一人お一人、全く違うあり方で、しかし、ただ一つの喜びへと導かれてこられた方々です。転入、洗礼、この出来事の中に、ここに至るまでの長い神様のご計画と配慮があった。生きて働き給う、神様の御業があったのです。今、それをここでお話しすることは出来ませんけれど、私共の群は、この人達によって更に豊かにされたことは確かなことなのです。主の救いの御業の証しという宝を、五人分私共は増し加えられたからです。そのことを何よりうれしく思います。それぞれに与えられている「神様の救いの御業の証し」という宝。この宝を、私は大事にしまっておくのではなくて、大いに用いていきたいと思うのです。
 私共の群に加わるということは、色んな言い方が出来るかと思いますけれど、何よりも大切なことは、この同じ一つの喜びを共に喜ぶということでありましょう。様々な教会活動に加わる、交わりを形作る、献金をもって支える、皆大切なことですけれど、しかし、その根底にあるのは、同じ一つの喜びに生かされるということであります。それぞれ、生かされている場も、課題も立場も違います。しかし、共に同じ一つの喜びに生きている私共なのです。このことを何よりも大切にしていただきたいのです。先週の試問会の時、転入される方、洗礼を受けられる方に、「共に祈り合う交わりを作っていただきたい。」と牧師として一言申し上げました。共に祈り合う交わり。それは、互いに同じ一つの喜びの中に生かされている者に与えられている、他の所では決して与えられることのない恵みなのです。信仰の歩みは、決して平坦なものではありません。様々な時がある。そういう時に、互いに祈り合える交わりがあるのなら、私共はその弱い信仰も必ず支えられ、守られるからであります。私は牧師をしていて、本当にそう思うのです。どれだけの人々に祈られ、支えられてきているのだろうかと思う。転入される方、洗礼を受けられる方、後ろを見て下さい。これだけの人達が、あなた方の為に祈ってきたのです。そして、これからも祈っていくのです。だから大丈夫。安心して下さい。

 今日与えられている御言葉において注目したいのは、10節、11節の言葉です。主イエス・キリストがお生まれになった時、そのことを知らせる天使が、野宿をしていた羊飼い達に現れて告げた言葉です。天使は告げます。「恐れるな。」この時の天使の言葉は、聖なる方に出会い、恐れている羊飼い達に言われたものです。この恐れ、聖なる者への恐れ、それを忘れたならば、クリスマスは単なるパーティーやプレゼントの理由付けに過ぎなくなってしまうのではないかと思います。この天使の「恐れるな」との言葉は、ヨセフに天使が現れた時にも、マリアに天使が現れた時にも告げられたものです。聖なる方と出会い、恐れる。それが、クリスマスの出来事の知らせを最初に受け取った者の心の動きだったのです。天地を造られた聖なる神様が、人となり地上に降ってこられた。この聖なる出来事は、私共を恐れさせずにはおかない出来事なのです。日常のことではない。あり得ないことが、私の中に入り込んできて、私共を圧倒してしまう。そういう出来事であります。
 しかし、それにもかかわらず天使は「恐れるな。」と告げるのです。何故か。救い主が生まれたからです。聖なる神と罪人である私共の間、絶対的な断絶、決して罪人である私共から橋をかけることの出来ないへだたり。そこに神様の方から橋をかけて下さった。私共の一切の罪を赦し、神様との親しい交わりに生きることが出来る道、私共を神の子として受け入れて、私共が神様に向かって、「アバ、父よ。」と呼びかけることの出来る道を備えて下さった。だから、私共は、もはや聖なる神様を恐れることなく、近づくことが出来る。その道を備えて下さる救い主、主イエス・キリストがお生まれになったからであります。私共は、このクリスマスの祝いの時、主イエス・キリストの十字架をして復活の出来事を思い起こさない訳にはいきません。クリスマスに生まれた幼子が、私共の救い主であられるということは、この方が私共の為に十字架にかかり、復活して下さったからであります。この出来事抜きに、クリスマスを喜び祝うことは出来ないのであります。
 そして、この出来事は、ただユダヤ人だけに与えられた喜びではありません。全ての民に与えられたものです。全ての民族、全ての国民、全ての階級に属する者に与えられたものなのです。時々、キリスト教はインテリの宗教、上流階級の人達の宗教と言われることがあります。私は面と向かって、そう言われたこともあります。しかし、それは全く間違っています。主イエスが生まれたのは、全ての民の為なのです。そのしるしに、主イエスの誕生を最初に知らされたのは、羊飼いだったのです。羊飼いというのは、当時、決して皆から尊敬を集めるような職業の人達ではありませんでした。生き物を相手にしているのですから、安息日を守るということだって難しい。ファリサイ人からは、救いの外に置かれていると考えられていた人達なのです。又、主イエスが弟子にした人の多くは、漁師でした。中には、取税人までいました。皆、その当時、社会的には決して上流と言われるような職業の人達ではなかった。そして、主イエスご自身、大工の子として生まれたのです。王様の子として生まれた訳ではない。それは皆、主イエスの救いが、全ての民に、民全体に与えられるものであることの「しるし」でしょう。このイエス・キリストの誕生は、全ての民に与えられる救いの喜びの到来に他ならないのです。

 ここで、天使は羊飼い達に、救い主が生まれたということが、「大きな喜び」であると告げています。「大きな喜び」、それは、決して失われることのない喜びということであります。私共は生きていく上で、様々な苦しみがある、悲しみに出会う。しかし、この喜びは、どんな苦しみや悲しみによっても消し去られることがない喜びだと言っているのです。
 私はクリスマスのこの時期、何回も病床にある方々の所を訪れました。今、私共がこの祝いの礼拝をささげるこの時にも、それらの人々を忘れることは出来ません。私共は、その人々に代わって、その人々と共に礼拝をささげているのです。訪問は長くても15分か20分、ベッドの横にいるだけですけれど、その苦しい息づかいを聞きながら、もうすぐクリスマスですよと告げる。そして祈る。告げられた方は、こんな苦しい時にクリスマスもないものだと思われるかもしれない。しかし、私が牧師として告げたいのは、あなたの今のこの苦しみも、クリスマスの大きな喜び、救い主がお生まれになって、私の罪も苦しみも痛みも、全てを担って下さっているという事実を無しにすることは出来ないということなのです。
 私の為に、救い主がお生まれになった。私の為に、天地を造られた方が、幼子となって降ってこられた。この大きな喜びを、私共から奪うことが出来るものは、何一つこの世界には存在しないのです。それが、天使が告げた、「大きな喜び」ということなのです。私は7年前、父が亡くなった年も、同じ様にクリスマス・カードを作り、送りました。今年はクリスマスを祝うのを控えようなどとは、考えもしませんでした。愛する者の死という最も大きな悲しみさえも、私共からこの大きな喜びを奪うことは出来ないのです。この大きな喜びの中に生かされている私共は、パウロと共に、こう言い切ることが出来るのでありましょう。ローマの信徒への手紙8章35,37〜39節「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。…しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」これが、大きな喜びに包まれている私共の心からの叫びなのであります。 

[2004年12月19日]

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