富山鹿島町教会

礼拝説教

「時満ちるに及んで実現する神の計画」
マラキ書 3章19〜24節
ルカによる福音書 1章1〜25節

小堀 康彦牧師

 今日から、ルカによる福音書より御言葉を受けてまいります。週報にありますように、教会では様々なクリスマスへの備えが始まっております。来週からはアドベントに入ります。先週は、お仕事会で作っていただいたクリスマスリースを何人かの方の所へ届けてきました。今週も届けに行きます。そして来週は、病床聖餐を行います。病院や施設におられる方々に、もうすぐクリスマスですよと知らせに行く。良き知らせをたずさえて、訪問する。私は、そういう時に自分は牧師なのだと改めて思うのです。良き知らせ、喜びの知らせ。主イエスがお生まれになった。私共の為にお生まれになった。私共の一切の罪を赦し、神の子とする為にお生まれになった。もう、あなたは神の子とされている。このことを知らせる為に病室にうかがう時、私はこのことを伝える為に生まれてきた、このことの為に生かされている、そう思うのです。それは何も牧師だけのことではないでしょう。主イエス・キリストに救われた私共は、皆、この良き知らせをたずさえ、告げていく者として生かされているのでしょう。喜びの知らせを告げる者は、自分自身がその喜びの中に生きている、そういうものでしょう。ルカによる福音書を記したルカも又、そうであったに違いないと思います。ルカはパウロと共に伝道した人です。そして医者でもありました。彼がこの福音書を記した時、すでにいくつかの福音書がありました。しかし、ルカはどうしてもこれを書かねばならないと思ったのです。それはルカがパウロと共に伝道していたことから判りますように、彼は異邦人伝道をしていた訳です。そういう経験が、異邦人にもこの良き知らせが判る、伝わる、そういうものを記す必要を思ったのだろうと思います。何としても、この喜びの知らせを、まだ知らない異邦人に知らせたい、そう思ったのです。 ルカによる福音書は、その冒頭に、この福音書がテオフィロという人の為に記されたということが述べられています。このテオフィロという人がどういう人であったのか、昔から色々な想像がされてはきましたけれど、本当の所は判りません。ただ言えることは、この名前からして彼はユダヤ人ではなかったということです。つまり、この福音書は異邦人の為に記されたものだということなのです。それは、マタイによる福音書の冒頭と比べれば、はっきり判ります。マタイによる福音書は、主イエスの誕生を告げる前に、長い系図を記しました。このことによって、マタイは主イエスの誕生というものが、旧約以来の長い長い神様の救いのご計画の成就として主イエスがお生まれになったとことを示したのでしょう。ルカはそのような書き方をしません。読む人が異邦人だからです。しかし、主イエスの誕生を記すルカの意図も、マタイのそれと同じものがあったのだと思います。つまり、主イエスの誕生は、偶然その時に起きたというようなことではなくて、長い神様のご計画による救いの御業としても出来事だったということです。それをルカは、主イエスの誕生の前に洗礼者ヨハネの誕生の出来事を記すことによって示そうとしたのであります。まず主イエスの道備えとしてのヨハネが誕生する。そして、それから主イエスが誕生する。神様の御業というものには順序がある。それは神様の救いの御業というものは、旧約以来の連続なのであり、ご計画の成就なのであるということを示そうとしているからなのであります。

 さて、洗礼者ヨハネが生まれる時、天使ガブリエルが祭司ザカリアに現れ、そしてこう告げました。13節「天使は言った。『恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を生む。その子をヨハネと名付けなさい。』」ザカリアとは、ゼカリヤのギリシャ語読みで、「神は覚え給う」という意味です。天使ガブリエルは、ザカリアに向かって、「あなたの願いは聞き入れられた。」と言うのです。ザカリアの願いが聞き入れられ、子どもが与えられると告げるのです。確かに、ザカリアはこの時、神殿で香をたくという祭司としての勤めをしていました。ですからこの時ザカリアは祈りをささげていたには違いないのです。しかし、この時ザカリアは祭司として生涯に一度あるかないかの重大な勤めに励んでいたのです。当時祭司は1万人程度いたと言われています。それが24の組に分かれていました。一つの組みに数百人がいたことになります。それが1ヶ月交替で順番が回ってきて神殿での奉仕をする。自分の組に回ってきても、その中からくじ引きで、聖所に入って香をたく者が決まる。これは一生の間に一度あるかないかのことで、祭司としてのザカリアとしては、一世一代の大仕事であったに違いありません。とすればこの時、彼は作法を間違えないように緊張し、決められた祈りの言葉を口にするのが精一杯であったに違いないと思うのです。私は自分が最初に聖餐式を執行した時のことを思い出します。あるいは葬式や結婚式に司式をした時もそうです。決められた手順で行うのが精一杯、自由に祈祷をささげることなど出来ません。前もって、祈りを書いておいて、それを読むのが精一杯でした。ですから、この時ザカリアが自分に子が与えられるようにというような祈りを捧げていたとは考えられないのです。では、この天使ガブリエルの言葉は何を意味しているのでしょうか。ザカリアもエリサベトもすでに老年になっていました。何歳であったのかは判りませんが、60才ぐらいと考えて良いのではないでしょうか。しかし彼らには子がなかった。これは当時としては、大変なことです。どの家にも、10人くらい子供がいる。子が出来なければ夫が妻を離縁する正当な理由にもなったのです。この二人は若い時、子が与えられるように祈ったに違いありません。5年、10年と祈ったに違いない。しかし与えられなかった。何時しか二人も年をとり、子を与えられるようにという願いもなくなり、そのように自分達が祈っていたことさえも忘れていたのではないでしょうか。しかし、神様は忘れてはいなかった。それが天使ガブリエルが語った、「ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を生む。」ということの意味だったのではないでしょうか。ザカリアの名前の意味が「神は覚え給う」であったことも思い起こされます。神様は捧げられた祈りを、祈った者達がたとえ忘れたとしても、覚え給うのであります。
 私共は神様に祈り願います。しかし、その祈り願いは、いつもかなえられるとは限りません。すると、私共はそのことを祈り願うことを止めます。あきらめます。そして、祈ったことさえ忘れる。しかし、神様は覚え給うのです。私共の祈りが、神様に聞かれないなどということはあり得ないことなのです。ただ、神様はご自身のご計画の中でそれを取り上げ、実現されるということなのであります。ある牧師が以前私に、祈りがかなえられないのはどうしてかということを教えてくれました。第一にその祈りが御心にかなわない、御心に反している場合です。宝くじが当たりますようにと祈ったからといって叶えられるものではないでしょう。第二に、時が満ちていない場合です。私共は祈ればすぐにそれが実現するように願いますけれど、神様の御心の中でそれが叶えられるのはもっと時が必要である場合がある。第三に、神様がもっと良いことを用意されている場合です。私共は祈り願いますと、それが実現することが自分にとって一番良いことだと考えます。しかし、本当にそれが一番良いのかどうか知っておられるのは神様でしょう。神様は、いつも私共にとって一番良い道を備えて下さっている。このことを信じて良いのであります。このザカリアの場合、第二と第三の場合に当てはまるのではないでしょうか。

 ザカリアは、天使ガブリエルの言葉を信じることが出来ませんでした。18節「そこで、ザカリアは天使に言った。『何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています。』」その結果、ザカリアはヨセフが生まれるまでの間、十月十日の間、口が利けなくなってしまったのです。天使ガブリエルはこう言います。19,20節「天使は答えた。『わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。』」時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったから、口が利けなくなるとはっきり言われています。これは罰を受けたということでしょう。しかし、この10ヶ月の間、ザカリアは口が利けないという中で、どんな思いを満たしていったのでしょうか。こんな風に口を利けなくされた神様をうらみ、のろったでしょうか。そうではないでしょう。自分が口を利けない間に、妻エリサベトのお腹はどんどん大きくなっていくのです。彼は神様に強いられた沈黙の中で、「時、満ちれば実現する神様の計画」というものを、実感していたのではないでしょうか。天使を通して告げられた神の言葉を信じない者であった自分。しかも彼は祭司だったのです。もっぱら神様に仕える為に生きている者だったのです。それにもかかわらず、神様の御業を信じることが出来なかった。この自分の不信仰を思い知らされ、悔い改めたに違いありません。そして、自分の思いを超えて御業をなされる神様を心からほめたたえていたに違いないと思うのです。沈黙の中で、ザカリアの中に、神様への讃美が満ちていったのではないでしょうか。だから、ヨハネが生まれて、口を利けるようになった時、ザカリアの口から出た言葉は、1章68節「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。」だったのでしょう。私共はこのザカリアの沈黙の意味をよく考えなければならないと思うのです。
 ザカリアの沈黙は、ただ自分自身を見つめるようなものではありませんでした。神様の御業を知らされ、その出来事に向かい合っての沈黙でした。ここが大切なのです。自分の為になされた神様の御業、この出来事の前に立ちつくしての沈黙です。ただこの出来事を受け入れ、不信仰な自分が明らかにされる沈黙、ただ神様をほめたたえるしかない自分へと変えられていく沈黙です。ザカリアは、何度も何度も自分に告げられた天使ガブリエルの言葉を思い返していたに違いありません。15〜17節「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」ザカリアは単に自分の子供が奇跡的に与えられたことだけを喜んだ訳ではないと思います。ザカリアは祭司です。年老いた自分たちに子ども与えられるという奇跡の意味すること、この出来事から始まる神様の救いの御業、救い主の誕生を悟ったのです。自分たちに与えられる子は「エリヤの霊と力で主に先立って行く」者、「準備の出来た民を主の為に用意する」者だという。これは預言者マラキが預言していたことではないか。最後の預言者マラキが現れてから500年、神の言葉がユダヤから絶えて長い時が過ぎた。もう神様は神の民を見捨てたのかと思ったときもあった。しかし、そうではなかった。救い主が来られる。この私が、神様の救いの御業の中に巻き込まれている。この時、ザカリアは哲学者の神ではなく、アブラハム・イサク・ヤコブの神、今、生きて働き、救いをもたらされる神と出会ったのです。預言者マラキによって預言されていた預言、3章23節「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。」これが成就する時が来たことを悟ったのです。ザカリアが経験したのは、救い主の誕生の前ぶれでした。これは救いそのものではありません。しかし、確実に救い主の誕生の出来事が近づいてきていることを悟らせるには、十分なことだったのです。

 ルカは、異邦人の為に喜びの報せを記すというこの福音書の冒頭で、ザカリアの沈黙を記しました。喜びの知らせを告げる為には黙っていたのでは出来ません。語らなければならない。しかし、その喜びの言葉は、神様の救いの御業という圧倒的な出来事の前に沈黙することを通して生み出されていく言葉だということなのではないでしょうか。それ故、その言葉は、神様への讃美という性格を持つ言葉でしかあり得ないということなのだと思うのです。私共はこれから共々にルカによる福音書から言葉をいただきながら、ルカを包んでいた喜びに共鳴し、共に主をほめたたえる者とされていきたいのです。そして、一人でも多くの者に、この喜びを伝えていきたい。その為に用いられたい。そう心から願うのです。私共が伝えていくことは、この「喜び」以外の何物でもないのです。

[2004年11月21日礼拝]

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