富山鹿島町教会

礼拝説教

「心が通い合う喜び」
創世記 11章1〜9節
使徒言行録 2章1〜13節

小堀 康彦牧師

 創世記の11章、有名なバベルの塔の話です。この11章で創世記の最初の部分が終わります。創世記一章の天地創造から始まる原歴史と言われる部分、人間とは何か、罪とは何か、世界とは何かという事柄について記している、歴史が始まる前の神話的記述の部分が終わります。12章からはアブラハムという具体的な人物と神様との関わりについて記していくという所に入っていきます。具体的な歴史に入っていく訳です。創世記についての学びは今日でいったん区切りをつけまして、来週からはルカによる福音書に入りたいと思っております。そしてまた、来年の夏頃から創世記に戻りまして、アブラハムの物語から御言葉を受けたいと思っております。そして、アブラハムの所が終わりましたら、又ルカに戻る。そんな風に考えております。
 さて、このバベルの塔の話でありますが、今までの所では、創世記の3章において、アダムとエバが禁じられていた木の実を食べてしまったとか、4章においてカインがアベルを殺してしまったとか、どちらかと言うと人間の罪ということに関して、個人的と申しますか、その人が神様に対してどういう関わり方をするのか、人間に対してどの様な関わりをするのかといったことについて述べられてきていたと思います。しかし、このバベルの塔の話においては、人の名前は一人も出てきません。これは大変象徴的なことではないかと思います。このバベルの塔の話は、原歴史の記述の最後、これから歴史の舞台に入っていく、そういう所に置かれている訳です。歴史が始まる前に、原歴史を総括するようにバベルの塔の話があるわけです。このバベルの塔の話の一番の中心的テーマは何かというと、ズバリ「人間の文化の問題」だと言って良いだろうと思います。人間の罪の問題は、単に個人の生き方とか、個人の信仰の問題という所にとどまるものではなくて、人間が集まって生活すればそこに社会が生まれ、文化が生まれる。その社会あるいは文化というものの中にも罪があるということを示しているのであります。これは実に重大なことを私共に示しております。私共は、自分で意識することなく、自分が生まれ育った社会とか文化に決定的な影響を受けている。とすれば、その社会なり文化なりが罪に染まっていれば、そこで生まれ育った人間は必然的に、罪のとりこになってしまうということでしょう。そういう社会・文化の中から救い出されて、神の子とされたのが私共なのです。とすれば、私共には、社会・文化というものを神様の御心にそって造り変えていく、そういう使命があるということになるのではないでしょうか。
 以前、あるクリスチャンのお医者さんと話しておりまして、こういうことを聞いたことがあります。全身麻酔による手術をしたのは、日本人の華岡青洲が世界で一番早かった。1804年、今からちょうど200年前のことです。ハーバード大学のモートンがエーテルによる全身麻酔の手術をしたのよりも40年も早かった。しかし、その後世界の麻酔による手術は、モートンによるものをベースにして発展した。どうしてか。それは、華岡青洲の新しい技術は、華岡一門の独占となり、門外不出の秘術とされ、誰にでも教え、公開されるということはなかったからだと言うのです。一方、モートンの技術は、一般に公開され、あっという間に世界に広がった。これは、医療というものに対しての文化の差だと言うのです。そして、現代の医療は、その業を通して、神様の御心に従っていこうとする、キリスト教の影響によってしか考えることは出来ない。そう言うのです。新しい技術を発見し手に入れたら、それで自分の利益、自分の栄光を築いていこうとする所からだけでは考えられない。更に、看護士になる人は、ナイチンゲール誓詞、誓いの詞を誓って、ナースの帽子をかぶる。戴帽式と言うのですが、これなどは、キリスト教の信仰なしにはあり得ないとも言っておりました。そうだろうと思います。
 文化が清められ、聖化される。そういう必要があるのであります。もち論、文化は50年100年でどうにかなるというものではないでしょう。しかし、キリスト教というものは、社会を造り、文化を創る、そういう力があり、そういう使命を与えられているということなのであります。日本において大変な勢いでキリスト教が広がった時期が三回あります。最初は戦国時代にフランシスコ・ザビエルによってキリスト教がもたらされたときです。二回目は、明治の最初に宣教師達によってキリスト教が入ってきた時。そして三回目は、戦後のキリスト教ブームの時です。この時には、多くの献身者も出ました。その時代の伝道者達が言っていることは皆同じです。どうしたらこの日本を神さまに捧げることが出来るのかということです。皆、この一つの志の中で伝道していたのです。この日本全体を、この日本の文化を聖化していく道を求めて、伝道していたのです。私は牧師として様々な牧師会に出席することが多いのですが、最近、このような話・志を聞くことが少ないのです。これは問題だと思います。自分の教会の教勢は大切でしょう。しかし、私共が信じているキリスト教の持っている課題・力というものは、そんなちっぽけなものではないのです。このことを私共が忘れてはならない。そう思うのです。

 では、文化に潜む罪とは何なのか。3,4節「彼らは、『れんがを作り、それをよく焼こう』と話し合った。石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを用いた。彼らは、『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう』と言った。」とあります。石の代わりにレンガ、しっくいの代わりにアスファルトを手に入れた。多分、このバベルの塔の話が想定している場所は、メソポタミアであろうと思います。今、大変な状態になっているイラクのあたりです。このバベルという言葉も、9節で混乱させるという言葉、バーラルから来ているとされていますが、多くの学者達は、これはバビロンを指していると言います。あそこには、大きな石を切り出せる所がありません。しかし、チグリス川、ユーフラテス川によってもたらされた粘土には事欠きません。人々はそれを焼いてレンガを作り、豊富な建築資材を手に入れたのです。そしてアスファルト。こんな材料はエジプトでもイスラエルでも考えられないでしょう。私共日本人は、温泉が自然に湧き出している所を知っていますけれど、イラクとかサウジアラビアとか、ペルシャ湾の周りでは、石油がちょろちょろと自然に湧いていて、揮発成分が蒸発して真っ黒なアスファルトの池が出来ている所があるのだそうです。この新しい建築材料を手に入れて、彼らは何をしたか。「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。」としたのです。この「天まで届く塔」、これが問題です。これは、3章においてアダムとエバが禁じられている木の実を食べてしまった時、蛇の誘惑の言葉「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる。」と対応しています。レンガとアスファルトを手に入れた人々は、天にまで届く塔を造ろうとした。つまり、神になろうとした。神にとってかわろうとしたということなのであります。何と傲慢なと思いますけれど、しかし人間の文化というものには、そういう影があるということなのであります。
 人々が散り散りにならない為には、強大な力による統一が必要でした。そこに神の化身としての王が生まれたことは歴史が示していることです。それは古い昔の話だけではなく、先の大戦において、日本の天皇がどうであったのか、ドイツのヒットラーがどうであったのか、あるいは戦国時代を平定した織田信長がどうであったのかを思い出せば明らかです。それはいけない。神様は、そこで互いの言葉が通じない様にされた。それが、色々な民族、色々な言語が生まれた理由だと言うのです。私共は、このような話を聞くと、子供が砂場で高い塔を作って遊んでいるのを見て、意地悪な大人が、それはいけないことだと言って、砂の塔を足で壊すようなイメージを持つかもしれません。しかし、そうではないのです。5節に「主は降って来て」とあり、7節には「我々は降って行って」とあります。神様が降ってくる。それは、いつも善き業をなさる為なのです。神様は人間を救い、人間を助ける為に降ってこられるのです。私共はここで、主イエス・キリストの御降誕、クリスマスの出来事を思い起こして良いのです。神様は、互いに言葉が通じないようにされた。それは、人間に神様に敵対する巨大な罪を犯させない為に、人類の上に起きる想像を絶するような悲惨が生まれない為に、神様は言葉を乱されたのです。これは確かに、神様の裁きでありますが、この裁きの中に神様の恵みと愛があるのであります。

 それが証拠に、神様は言葉を乱すだけでは終わりにされませんでした。主イエス・キリストを天から降らせ、その御業を完成させられました。この主イエス・キリストによってもたらされたこと。それが、先程お読みいたしました、使徒言行録2章に記されておりますペンテコステの出来事なのであります。神様に対して敵対し、反逆し、それ故に巨大な罪を犯しそうになっていた人間の為に、言葉を通じないようにされた神様の業は、主イエス・キリストによって神様と和解し、罪赦され、神様の御前に健やかな歩みをする者とされた者達が、再び同じ言葉を語る、言葉が通じる、そういう世界を開いて下さったのです。ここでペトロは何を語ったでしょうか。彼は、ただ神様の救いのみ業だけを語ったのです。自分のことは何も語らない。そうすると、言葉が通じたのです。
 言葉が通じない。それは単に英語・日本語・中国語といった、言語の問題だけではありません。同じ日本語を話していても、通じないということが起きている。言葉というものは、単に情報を伝えるだけの道具ではないのです。情報と共に、その人の心を伝える、そういうものなのでしょう。言葉が通じないというのは、心が通じないということです。それが私共の置かれている現実でしょう。私は良く妻に「あなたは人の話を聞いていない。」と責められます。「私は言ったのに、あなたはすぐに聞いていないと言う」と言われるのです。正直に言うと、多分聞いたのでしょう。でも全く覚えていない。心がそこにないものですから、聞いても心に残らない。私共の言葉のやり取りの中には、そういう心がないことが少なくないのではないでしょうか。それでは心は通じない。北朝鮮との交渉がなされていますが、少しも進展しない様子を見ても、言葉が通じない、心が通じないという思いを持たざるを得ません。どうして言葉が通じないのか。それは、どこかに私共が相手を支配し、自分の思いを通そうという思いを持っている。そういう思いから私共が自由になっていないからなのではないでしょうか。相手を支配し、自分の思いを通そうとする心の動き、それこそが「自らを神とする」という罪の中にいるという「しるし」なのでしょう。これは、個人だけの問題ではなくて、国と国、民族と民族、そういう単位においても同じことがあるのだと、聖書は告げているのであります。
 しかし、それを乗り超えていく道が私共に与えられました。聖霊の注ぎを受けて、自らの栄光ではなく、神様の栄光を求める。自らの思いではなく、神様の御心がなることを求める。そこに立つ時に、私共の言葉が互いに通い合う、心が通じ合う。主イエス・キリストと共に生きるということは、そういう新しい歩みの中に生きる者にされているということなのであります。言葉が通じ合う、心が通じ合うということは、当たり前のことではなくて、聖霊なる神様の御業、神の奇跡だということなのであります。そして、私共はこのような神の奇跡の中に生きる者とされているということなのであります。
 私はクリスチャンホームが形成されていくことは、本当に大切なことだと思っています。クリスチャンホームになれば、全ての家族の問題がなくなるということではないでしょう。けれど、本当に言葉が通じ、心が通じ合う家族が生まれる。それは確かなことだと思うのです。神様をほめたたえ、神様に捧げる祈り。それは新しい言葉です。喧嘩をしていようと、食前の祈りに「アーメン」と唱和する。そこには、既に神様の平和が来ている。私はそう思う。自分の栄光を求め、自分の思いがなることばかりを求めていたときには口にすることの出来なかった言葉です。この心を通じ合わせることの出来る新しい言葉、それが私共に与えられている。ここに新しい文化が生まれるのです。

 今日、教会の玄関に大きなキャンドル・サービスの看板が二つ立っていたことに皆さん気付かれたことでしょう。そして、週報にありますように、お仕事会では病床の方々への問安の時に持っていくクリスマス・リースが作られました。素敵なことです。あなたは神様に愛されている。病の中にあっても愛されている。その言葉と共に届けるのです。共に主をほめたたえ、同じ言葉を語り、心を通じ合わせる為です。又、キャンドル・サービスの案内のハガキも出来ました。クリスマスへの備えがもう始まっています。クリスマス委員会・長老会では、キャンドル・サービスを伝道集会として位置付けました。伝道するということは、共に救いに与り、共に主をたたえるという同じ言葉を語る者になる、心を通じ合わせる関係へと人々を招くということでしょう。キャンドル・サービスの案内のハガキには、ぜひ、自分の言葉、自分の手で一言書き添えていただきたい。その言葉を届けていくのです。
 自ら天に届こうとしていた者が、神様の前にぬかずき、神様をほめたたえる。ここに新しい言葉が生まれるのであります。共々に、この新しい言葉を語り合う者として、この一週間、主の御前に歩んでまいりたいと願うものであります。

[2004年11月14日礼拝]

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