礼拝説教「永遠の救いの契約」創世記 第9章1〜17節 ペトロの手紙一 第3章18〜22節 小堀 康彦牧師
ノアの洪水の物語は、産めよ増えよという祝福と二度と滅ぼさないという約束で終わります。洪水によって悪に満ちた人類を滅ぼした神様は、ノアとその家族から始まる新しい人類を祝福する神様でもあるのです。この神様のあり様は、私共にとっては、聖にして義なる神というイメージ(裁く方としての神様)、それと、愛に富み給う神というイメージ(救う方としての神様)が巧く結びつかない、まるで別々の神様であるかのように思えるかもしれません。しかし、神様はただ一人です。裁く神様が救う神様なのです。神様は自由に世界を造り、自由にその世界を保持し、支配されているのです。神様は時に裁き、時に救われます。神様はまことに自由なお方なのです。誰もこの神様の自由に制限を加えることは出来ません。救いと裁きは、私共には正反対のことのように思われます。しかし、神様の御手においては、一つのことなのです。裁きの中に救いがあり、救いの中に裁きがあります。
先週の召天者記念礼拝の説教において、洗礼を受けずに死んだ者に救いはあるのかということについて、少し触れました。そして、その時、このことについては来週、少し丁寧にお話ししますと申しました。洗礼を受け、キリストのものとされた方は、キリストの救いに与る。それは良いのです。だったら、洗礼を受けずに死んだ者は、全て永遠の滅びに定められているのか。これはそう簡単には言えないと思います。先程、ペトロの手紙一をお読みいたしましたが、3章19節に「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」とあります。これはイエス・キリストの陰府下り(よみくだり)と言われる所です。聖書の中でも、ここにしか記されておりません。しかし、この一句は初代教会において、とても重要な意味を持つものだったのです。使徒信条においても「…十字架に架かり、死んで葬られ、陰府に下り…」と告白されているとおりです。それは、初代教会のキリスト者の多くは、私共と同じ様に愛する者達の全てが洗礼を受けているわけではなかったからです。当然のこととして、それらの人々が死んでからどうなるのかということは、私共と同じ様に大変重要な問題だったのです。ここで聖書は、主イエス・キリストは捕らわれた霊たちの所、すなわち陰府に下って行って宣教されたと告げられております。ということは、陰府において、キリストの福音に出会い、悔い改め、救いに与るという可能性が残されているということになるのであります。この捕らわれた霊たちとは、20節において、「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。」とあります。つまり、ノアの洪水によって滅んでしまった者達のことだと言うのです。ノアの洪水は、神様の裁きでありますが、その裁きにあった者達にも、救いの可能性が残っているということなのです。神様の裁きと滅びは、そのままでは終わらないということなのではないでしょうか。このことは、あまり強調しすぎますと、だったら洗礼を受けなくても良いなどという変な安心を与えてしまってはいけないのですけれど、この可能性は神様の自由の中に残されていることは信じて良いのだと思うのです。
ノアの話に戻りましょう。神様は洪水の後でノア達を祝福して言われました。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」新しい出発です。この言葉は、創世記1章28節にある、神様が天地を創られ、六日目に、動物と人間とを造られた時に言われた言葉と同じです。まさに、新しい出発がここから始まったということです。しかし、創世記1章と違うことは、ノア達は三章に記されている神様に罪を犯したアダムとエバの子孫なのです。ノア達はすでに罪を犯す者になってしまっていたということなのです。創世記1章にある、自然界の完全な調和は崩れ、動物も魚も鳥も人間を恐れるものとなり、人間はこれを食糧として食べる者になってしまっています。一章では人間が食べることが許されていたのは植物だけでした。そして、人間は血を流す罪を犯す者となり、それ故に神様は、これを禁じるという戒めをここで与えられています。 神様はこの契約の「しるし」として、虹を置かれました。虹は雨の後にかかるものです。神様は雨の後の虹を見て、ノアの洪水の出来事を思い起こし、この契約を心にとめるというのです。ここで虹を見てこの契約を思い起こすのは、私共ではなく神様なのです。私共に虹を見て、この契約を思い起こせと命じてはおられません。神様が虹が現れるたびに、この契約を心に留めるというのです。「心に留める」というのは、単に思い出すというだけではありません。この契約を思い起こし、この契約を保持する意志を固くする、この契約の中に生きようとする志を新たにする、ということなのであります。契約の「しるし」とはそういうものなのです。私共はただ今から聖餐に与ります。信仰のない者にとって、これはただのパン、ただのブドウ液でしかない。信仰のない者にとっては、虹はただ綺麗なものでしかないのと同じです。しかし、キリストの十字架と復活とによって新しくされた者にとって、これはまことにキリストの体であり、キリストの血潮なのであります。キリストによる契約の「しるし」です。虹を見て、神様がノアの契約を思い起こすように、このパンとブドウ液に与ることによって、私共はキリストの契約を思い起こすのです。そして、その恵みの契約の中に生かされている事実を心に刻み、この契約の中に生きる、この契約の中に留まる、その志を新たにさせられるのであります。主によって与えられるこの新しい一週間、私共はこの神様の恵の契約の中に生かされているものとして、主の御前に歩んで参りたいと心から願うのであります。 [2004年11月7日礼拝] |