富山鹿島町教会

礼拝説教

「永遠の救いの契約」
創世記 第9章1〜17節
ペトロの手紙一 第3章18〜22節

小堀 康彦牧師

 ノアの洪水の物語は、産めよ増えよという祝福と二度と滅ぼさないという約束で終わります。洪水によって悪に満ちた人類を滅ぼした神様は、ノアとその家族から始まる新しい人類を祝福する神様でもあるのです。この神様のあり様は、私共にとっては、聖にして義なる神というイメージ(裁く方としての神様)、それと、愛に富み給う神というイメージ(救う方としての神様)が巧く結びつかない、まるで別々の神様であるかのように思えるかもしれません。しかし、神様はただ一人です。裁く神様が救う神様なのです。神様は自由に世界を造り、自由にその世界を保持し、支配されているのです。神様は時に裁き、時に救われます。神様はまことに自由なお方なのです。誰もこの神様の自由に制限を加えることは出来ません。救いと裁きは、私共には正反対のことのように思われます。しかし、神様の御手においては、一つのことなのです。裁きの中に救いがあり、救いの中に裁きがあります。
 このノアの洪水の物語において、洪水によって全てを滅ぼすという裁きの出来事があり、ノアとその家族ならびに一対の動物達が救われるという出来事があるのです。裁きがあって、新しい出発があるのです。このことは、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事の中に、最も明確に現れています。十字架は裁きです。私共の罪に対しての最も徹底した裁きです。しかし、このことによって私共の救いは成就しました。終末も同じです。永遠の滅びがあり、それをまぬがれた者に永遠の命という救いの完成が与えられるのです。裁く神様が救う神様なのです。ある牧師が、こう言ったことを忘れることが出来ません。「私達はどこで裁かれ、どこで救われるのか。キリストの十字架の前に立つ時、最も深く、最も徹底的に裁かれるのではないか。十字架の御前に立つときに、私共は自らの罪の姿を否応なしにつきつけられる。そこでは悔い改めるしかない。そして、そこにおいてしか救いは与えられないのではないか。」裁かれること、それが救いとなる。まことに不思議な神様の御業です。
 ここで、ノアの洪水は祝福と契約によって終わりました。つまり、裁きと滅びが終わりではない。目的ではないということなのです。裁きはあります。しかしそれは、新しい出発という救いの御業へとつながっていく為なのです。主イエスの十字架は、復活・昇天へとつながっていくものなのです。最後の審判も新天新地における救いの完成へとつながっていくものなのです。私共は、このことを良く覚えておかなければなりません。人間の罪の結果として、様々な嘆きがある、悲しみがある。しかし、それは最終的なものではないということです。死さえも、それが最終的なものではないのです。私共が神様のもとにたち帰り、悔い改め、再び神の子、神の僕として歩み始めるならば、そこにはどんな嘆きや悲しみにもまさる歓び・慰め・平安・祝福が備えられているのです。私共は、そのことを信じて良いのです。

 先週の召天者記念礼拝の説教において、洗礼を受けずに死んだ者に救いはあるのかということについて、少し触れました。そして、その時、このことについては来週、少し丁寧にお話ししますと申しました。洗礼を受け、キリストのものとされた方は、キリストの救いに与る。それは良いのです。だったら、洗礼を受けずに死んだ者は、全て永遠の滅びに定められているのか。これはそう簡単には言えないと思います。先程、ペトロの手紙一をお読みいたしましたが、3章19節に「そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。」とあります。これはイエス・キリストの陰府下り(よみくだり)と言われる所です。聖書の中でも、ここにしか記されておりません。しかし、この一句は初代教会において、とても重要な意味を持つものだったのです。使徒信条においても「…十字架に架かり、死んで葬られ、陰府に下り…」と告白されているとおりです。それは、初代教会のキリスト者の多くは、私共と同じ様に愛する者達の全てが洗礼を受けているわけではなかったからです。当然のこととして、それらの人々が死んでからどうなるのかということは、私共と同じ様に大変重要な問題だったのです。ここで聖書は、主イエス・キリストは捕らわれた霊たちの所、すなわち陰府に下って行って宣教されたと告げられております。ということは、陰府において、キリストの福音に出会い、悔い改め、救いに与るという可能性が残されているということになるのであります。この捕らわれた霊たちとは、20節において、「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。」とあります。つまり、ノアの洪水によって滅んでしまった者達のことだと言うのです。ノアの洪水は、神様の裁きでありますが、その裁きにあった者達にも、救いの可能性が残っているということなのです。神様の裁きと滅びは、そのままでは終わらないということなのではないでしょうか。このことは、あまり強調しすぎますと、だったら洗礼を受けなくても良いなどという変な安心を与えてしまってはいけないのですけれど、この可能性は神様の自由の中に残されていることは信じて良いのだと思うのです。
 神様の自由、それは神様の大きさと言っても良いかもしれません。私共がこれをしたから救われる。逆に、これをしたから救われない。そんな救いのシステムをいくら作っても、神様はそんなものを超えて、自由に働き、事を起こされるのであります。しかし、そのことは私共が何をしようと勝手だということではないのです。

 ノアの話に戻りましょう。神様は洪水の後でノア達を祝福して言われました。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」新しい出発です。この言葉は、創世記1章28節にある、神様が天地を創られ、六日目に、動物と人間とを造られた時に言われた言葉と同じです。まさに、新しい出発がここから始まったということです。しかし、創世記1章と違うことは、ノア達は三章に記されている神様に罪を犯したアダムとエバの子孫なのです。ノア達はすでに罪を犯す者になってしまっていたということなのです。創世記1章にある、自然界の完全な調和は崩れ、動物も魚も鳥も人間を恐れるものとなり、人間はこれを食糧として食べる者になってしまっています。一章では人間が食べることが許されていたのは植物だけでした。そして、人間は血を流す罪を犯す者となり、それ故に神様は、これを禁じるという戒めをここで与えられています。
 4節に「ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない。」とありますが、ユダヤ教では今も血を完全に抜いた肉しか食べません。しかし、ここで言われているのは、血というのは命を象徴しているのです。「命である血」と言われている様に、人間は動物の肉は食べても、命は神様のものであるということなのです。そして、特に人間の命はそれを奪うことは決してゆるされないと言うのです。5・6節「また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ。」人は神にかたどって造られた。だから、人間が人間を殺すことは、神様に対して真っ向からの反逆になるということなのです。これが十戒の第六の戒につながることは言うまでもありません。
 先週、イラクで日本人がテロの集団によって殺されました。彼は日本基督教団の教会員の息子さんでした。親御さんの心の痛み、嘆きはいかばかりであろうかと思います。これは、決して赦されることではありません。どんな理由があっても、それは神様によって禁じられていることなのです。これは、神様が告げられた契約なのです。この契約は全人類と全被造物と神様が立てられた契約なのです。ですから、この契約からはずれている人は一人もいないのです。9・10節を見てみましょう。ここで神様は、ノアとその家族とだけ契約しているのではないのです。「あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。」とあります。さらに「あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。」とあるのです。この契約は、全人類および全被造物に対してなされているのです。これは契約というよりも、神様の一方的な宣言ではないかと思う人がいるかもしれません。その通りなのです。いわゆる契約というものには、当事者双方による合意がなければなりません。しかし、ここでは一方の当事者がまだ生まれていないし、鳥や家畜や獣に当事者能力があるとは思えません。この契約は、まさに神様の一方的な宣言と言っても良いものだと思います。しかし、私共は自覚しようとしまいと、この神様が結んで下さった契約の故に、季節はめぐり、農作物を作ることが出来ているのです。この神様の契約は、神様を信じようと信じまいと、一方的に神様がその恵みの中に私共を置いて下さるという宣言なのです。ここに、神様の自由、神様の大きさがあるのです。私共の神様はクリスチャンの為だけの神様なのではないのです。全人類の、全被造物の神様なのです。
 神様は二度と洪水によって、肉なるものを全て滅ぼすようなことはしないと約束されました。しかし、それはもう二度と裁きをしないということではありません。8章22節を見ますと、「地の続く限り、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない。」とあります。「地の続く限り」ということは、地が続かなくなる時、新しい天と新しい地がもたらされる時、終末が来ることを暗に示しているのでしょう。その時には、徹底した裁きと救いの完成がもたらされるのです。その時まで、この神様の恵みの契約は有効だということであり、私共はそういう時代に生かされているということなのであります。私共も、隣人も、皆同じ、この神様の一方的な恵みの契約の中に生かされているのです。

 神様はこの契約の「しるし」として、虹を置かれました。虹は雨の後にかかるものです。神様は雨の後の虹を見て、ノアの洪水の出来事を思い起こし、この契約を心にとめるというのです。ここで虹を見てこの契約を思い起こすのは、私共ではなく神様なのです。私共に虹を見て、この契約を思い起こせと命じてはおられません。神様が虹が現れるたびに、この契約を心に留めるというのです。「心に留める」というのは、単に思い出すというだけではありません。この契約を思い起こし、この契約を保持する意志を固くする、この契約の中に生きようとする志を新たにする、ということなのであります。契約の「しるし」とはそういうものなのです。私共はただ今から聖餐に与ります。信仰のない者にとって、これはただのパン、ただのブドウ液でしかない。信仰のない者にとっては、虹はただ綺麗なものでしかないのと同じです。しかし、キリストの十字架と復活とによって新しくされた者にとって、これはまことにキリストの体であり、キリストの血潮なのであります。キリストによる契約の「しるし」です。虹を見て、神様がノアの契約を思い起こすように、このパンとブドウ液に与ることによって、私共はキリストの契約を思い起こすのです。そして、その恵みの契約の中に生かされている事実を心に刻み、この契約の中に生きる、この契約の中に留まる、その志を新たにさせられるのであります。主によって与えられるこの新しい一週間、私共はこの神様の恵の契約の中に生かされているものとして、主の御前に歩んで参りたいと心から願うのであります。

[2004年11月7日礼拝]

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